第1453話

 蛇が腕に巻き付いている刺青。

 その刺青を持つ相手を目にした瞬間、イルゼの脳裏は真っ赤に染まる。

 仇……優しい自分の両親と兄を殺した仇。

 街中であれば、警備兵や……上手くいけば騎士団辺りに駆け込むことも出来たかもしれない。

 だが、商人であった両親と兄は、街の外で殺されたのだ。

 それも、偶然会った冒険者に。

 今でもイルゼはその時のことを夢に見る。

 両親と兄が死んでから既に五年がすぎているのに、その何日かに一度は悪夢に襲われる。

 我知らず短剣の柄に手を伸ばし……


「っと、ギルド内部で武器を抜くのは、止めておいた方がいい。少なくても今はな」


 短剣の柄に手が触れた瞬間、そんな言葉と共に肩に手が置かれた。


「っ!?」


 いきなり背後から聞こえてきた声に、イルゼは息を呑む。

 触られるまで、そこに誰かがいるというのは全く気が付かなかったからだ。

 勿論、イルゼは気配を察知出来るような高い技量を持つ訳ではない。

 それでも美女と呼んでも差し支えのないイルゼは、そういう意味で自分の近くにいる相手に対しては敏感になっていた。

 もしそのような能力を得なければ、それこそ今頃イルゼは女として色々と酷い目に遭っていただろう。

 咄嗟に背後を振り向き……それでいながら、男の言葉が頭のどこかには残っていたのだろう。短剣を鞘から引き抜くことはないまま、相手の姿を見る。

 そこにいたのは、この暑いのにフードを被っている小柄な男だった。


「……貴方は?」

「冒険者だよ、このギルムのな。……で、改めて聞くが、何だって武器を抜こうとした?」

「それは……」


 目の前にいる男――フードを被っているので顔は見えないが、それでも声から男だというのは理解出来た――の言葉に、イルゼは言葉を濁す。

 そんなイルゼを見て、男の方も小さく溜息を吐く。

 何か訳ありだというのは、容易に想像出来たのだろう。

 ……もっとも、訳ありでもなくギルドの中でいきなり短剣を抜くというのは危険人物と見なすしかないのだが。


「ちょっと色々とあったのよ。気にしないでちょうだい」

「……そう言われてもな」


 男にとっても、いきなりギルドの中で短剣を抜くような相手を見つけたのに、それで気にするなと言われて、はいそうですかと頷く訳にもいかない。

 幸いイルゼが短剣を引き抜こうとしたのを見ていた者は、それ程いない。……そう、それ程、だ。

 イルゼは全く気が付いていなかったが、ギルドの中にいた冒険者の何人もが、短剣を抜こうとしたイルゼに気が付いていた。

 イルゼにとって幸いだったのは、仇には気が付かれていなかったことだろう。

 ともあれ、今のイルゼはどうやって話を誤魔化すのかを考えなければいけない。


「ちょっとレイ、どうしたの?」


 そんな風に声が掛けられ、イルゼの前にいた男に一人の女が話し掛ける。

 声のした方を男が……レイが見た瞬間、イルゼはその場で素早く身を翻してギルドから出ていく。


(助かった)


 人が大勢いる中を縫うように歩いて行くイルゼの脳裏にあるのは、それだけだった。

 正確には、それ以外に考えられなくなっていた……と表現するべきか。

 仇を見つけたのに、その仇を前にして捕らえられなくてよかったと。

 ……ギルドで短剣を抜いたくらいであれば、別に捕まったりといったことはされなかったのだが、イルゼは残念ながらその辺りの事情は分からなかったのだろう。

 ともあれ、今はとにかくギルドから離れる必要があると、そう考えながら人混みの中を進む。

 やがて到着したのは、人のあまりいない場所。

 人が多すぎるのが嫌だったのだから、それは当然であったのだろうが……それはつまり、イルゼがいる場所は現在のギルムでも人の少ない場所ということになる。

 そのような場所には当然ながらあまり表通りに出られないような者達が集まってくるのが当然であり……


「おう姉ちゃん。こんな場所に何の用だ? いや、それよりもちょっと俺に付き合えや」

「ひゅーっ! 兄貴女を口説く時も素早いっすね」

「へへっ、だろ? いいか、こういう時もそうだが、何をするにしても重要なのは速度なんだよ。とにかく早く行動に移すというのは、それだけで大きな意味を持つ。だから、俺がこの女を自分の女に出来るって訳だ」

「……そんな訳ないでしょ」


 一緒にいる男に対して自慢するように堂々と告げている男だったが、そこに冷静な声が響く。

 持論を話している男にとって、いきなり話に割り込まれるというのは当然面白くない。

 ましてや、それが持論を否定するものであれば尚更だろう。


「んだとぉっ!?」


 いい気分のところを邪魔されたということで、声の聞こえてきた方に視線を向けた男は、その動きを止める。

 また、男の視線を追うように同じ方に視線を向けたイルゼもまた、動きを止めてしまった。

 イルゼは、自分が男にとって非常に価値のある顔立ちをしているというのは、理解していた。

 勿論自分が世界で一番美人だというような思い上がりはなかったが、それでも客観的な意見として、自分が美人だというのは理解していたのだ。

 だが……今、イルゼの視線の先にいる相手は、そんなことを考えていた自分が恥ずかしくなってしまうような、それ程の美人だった。


「え?」


 理解出来ないといった様子で、思わずイルゼの口からそんな声が漏れる。

 落ち着いたというよりは、活動的な……それでいて派手な美貌。

 向こう側が透けて見えるような薄衣を身に纏っており、そこだけを見れば踊り子や娼婦のようにしか見えない。

 また、その身体つきは、イルゼから見ても思わず唾を飲み込んでしまう程に女らしさを象徴している。

 顔立ちはともかく、胸の大きさには自信のないイルゼにとって、まさに完璧な女という言葉を体現しているような、そんな相手。

 数秒自分を助けてくれたらしい女に目を奪われながらも、すぐにイルゼは我に返る。

 自分に対して強引に言い寄ってきた男達だ。

 そうであれば、明らかに自分よりも美しい女を前にするとそちらにも危害が及んでしまうのではないかと。

 だが、女が現れてから、既に数十秒が経つにも関わらず、男達がその女に対して強引に言い寄る様子はない。

 何故? と疑問を抱きながら男達の方を見たイルゼは、何故か男達が震えている光景を目にする。


「え?」


 再びイルゼの口から出たのは、先程と同じ声。

 だが、そこに宿っている意思や感情は、先程のものとは大きく違う。

 自分に対して強引に言い寄ってきたのだから、てっきりそのまま新しく現れた女にも同じような真似をするのでは? そう思っていたイルゼの予想は完全に違っていた。

 何故なら、その男達は新たに現れた女を見て、身体を震わせていたのだ。

 何故? とそんな疑問を抱くイルゼ。

 もしイルゼに、多少でも相手の強さを見抜くだけの能力があれば、男達が震えている理由が理解出来ただろう。

 だが、生憎とイルゼの戦闘の才能は乏しく、とてもではないが目の前にいる人物がどれだけの力を持っているのかというのは、理解出来なかった。


「こ、こ、これは……ヴィヘラさん。こんな場所でどうしたんですか?」

「そっちの子がこっちの方に走っていくのが見えたのよ。それでもしかしたらと思ったら……案の定だった訳」


 笑みが混じった視線を向けられた男達は、ヴィヘラの美貌にも情欲を煽るような服装にも意識を集中出来ず、ただ震えるだけだ。

 この男達も、増築を目当てにギルムへとやってきた者達だ。

 だが、肉体作業が嫌で逃げ出し、現在はスラム街に続くこの辺りでよく集まっていた。

 それだけに、警備兵の手伝いとしてギルムの見回りをしているヴィヘラのことはよく知っているし……その美貌に目を眩ませ、無様に散っていった――死んではいないが――者達の姿は見ている。

 そんな相手が目の前にいるのだから、男達が怯えるのも無理はなかった。

 ヴィヘラは極上の花ではあったが、その美しい花は当然のように身を守る棘を持つ。

 しかもその棘は、身を守るだけではなく、自分から相手に刺さりに行くという、高い攻撃性を持った棘だ。

 そうである以上、余程自分の実力に自信のある者でもなければ、その花に手を出すような真似をする筈もない。

 ましてや、ここにいるのは冒険者であっても、厳しい仕事から逃げ出してきたような者達なのだ。

 ヴィヘラと戦って、勝ち目などある筈がない。

 出来るのは、せめて穏便に済ませるようにするだけだ。


「いえいえ、そんな訳ないじゃないですか。ただ、このお嬢ちゃんがこの先に向かえばスラムに入ることになるので、それを止めようとしただけですよ」


 笑みを浮かべつつ、そう告げる男。

 そんな男を眺め、やがてヴィヘラは小さく溜息を吐いてからイルゼに視線を向る。


「どうするの? もしこれを問題にするようなら、一緒に警備兵の詰め所まで行くけど?」

「い、いえ。その必要はありません」


 復讐を考えている身の上なのだから、出来る限り警備兵とは関わり合いになりたくはなかった。

 そんなイルゼの思いを理解した訳でもないだろうが、ヴィヘラはイルゼから男達の方に視線を向け、口を開く。


「良かったわね、問題にならなくて、……けど、何か問題になるようなことがあって、それを私が見つけたら……どうなるか、分かってるわよね?」


 満面の笑みを浮かべて尋ねるヴィヘラに、男達は慌てたように頷きを返す。

 ヴィヘラとは、自分が戦うといったことすら思いつかない程に実力差があると、そう理解している為だ。


「じゃあ、ここを出ましょう。ここは貴方みたいな人が来るような場所じゃないわよ」

「その……はい」


 正直なところ、人混みの中に戻る気がしなかったイルゼだったが、それでもここまでヴィヘラに心配されれば、それを断る訳にもいかない。

 結局、イルゼはヴィヘラに連れられて大通りの方に戻っていく。


「ん」

「ええ、待たせたわね」


 イルゼ達がいた通路から出ると、子供と呼ぶのが相応しいだろう相手がヴィヘラとイルゼの二人を待っていた。

 正確には、待っていたのはヴィヘラだけなのだが。


「えっと……?」

「ああ、気にしないでちょうだい」


 そう言いながら、ヴィヘラは干し肉を口に運んでいる子供……ビューネに呆れた視線を向ける。


「ビューネ、貴方よくこんな暑い中で、干し肉なんか食べられるわね。ワインでもなければ、とてもじゃないけどそんなのは食べる気にならないわ」

「ん!」


 その一言にどのような意味があったのか、側で聞いているイルゼには理解出来なかった。

 だが、それはイルゼのみであり、ヴィヘラの方は普通にその一言に混ざっている意味を理解する。


「そう言わないの。普通に考えれば夏は食欲が落ちる人が多いんだから」

「えっと……ヴィヘラさん、でしたよね? その子の言ってることが分かるんですか?」


 イルゼにとっては理解不能のやり取りをしているヴィヘラに対し、思わずといった様子で尋ねる。

 そんなイルゼに対して、ヴィヘラは笑みを浮かべて頷きを返す。


「そうよ。普通なら分からないのかもしれないけど、付き合いが長ければ何となく分かるようになるのよ」

「……そういうものなんですか」


 普通に考えれば、それはとても信じられない。

 だが、実際目の前でそのような光景を見せられてしまえば、信じざるを得なかった。


「それはそれとして……貴方、これからどうするの? 見たところ、冒険者……よね?」


 モンスターの革を使って作られたレザーアーマーと、腰の短剣からイルゼの素性を予想して尋ねるヴィヘラ。

 イルゼも、自分が冒険者だというのは特に隠している訳でもないので、その言葉は素直に認める。


「はい。もっとも、ランクFの低ランク冒険者ですが」

「……よくそのランクで、ギルムに来るつもりになったわね」

「ええ。探し人がギルムに………いる……」


 ヴィヘラの言葉に、イルゼは思わずといった様子でそう答えそうになり、自分が何を口にしようとしているのかに気が付き、言葉に詰まる。

 イルゼにとって幸運だったのは、復讐の相手や仇ではなく、探し人という表現を使ったこと。そして何より、ヴィヘラが細かいことを気にしなかったことか。


「……ふーん。まぁ、今のギルムは人が多いから、そう簡単に探している人が見つけられるとは思わないけどね。何なら、ギルドにでも依頼を出してみる?」


 何か訳ありだというのは察したヴィヘラだったが、その辺りは特に気にせずそう尋ねる。

 だが、当然イルゼはそんなヴィヘラの言葉に首を横に振る。

 何故なら、既に探し人……仇は見つけているのだから。

 ここでわざわざ、少しであろうと人の注目を集めるような真似はしたくない。


「そう? ……けど、ギルムで妙な騒ぎを起こすのなら、私が出ることになるわ。それを忘れないようにね」


 最後に鋭い釘を刺し、ヴィヘラはビューネと共にイルゼの前から去っていく。

 イルゼは、ただその後ろ姿を黙って見送ることしか出来なかった。

 ヴィヘラの視線に我知らず身体を震わせながら。

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