第1305話
その日、ガラハトはアゾット商会の会頭として屋敷で書類仕事を行っていた。
元々その手の知識は決して多い訳ではなく、会頭となってから暫くは色々と苦労もした。
冒険者としてそれなりに苦労はしてきたつもりだったが、それとはまた違った苦労。
他の商会のお偉いさんと会ったり、それこそこのギルムの領主のダスカーに会ったり……そんな風に、今までとは違った苦労を味わうことになった。
勿論これまでもそのようなお偉いさんに会ったことがない訳ではない。
だが、それはあくまでも冒険者としてであって、実際にアゾット商会の会頭として会うのとは違う。
そのような仕事をこなしていき、ボルンターは色々と問題のある兄ではあったが、それでもアゾット商会を纏めていたというのは凄いと思ったことも少なくない。
それでも何年も会頭として仕事をしていれば、当然のように仕事にも慣れてくる。
今のガラハトは、会頭としてしっかり仕事をこなせるようになっていた。
今日もまた、色々と下から上がってきた書類に目を通し、サインをし、疑問があれば担当の者に尋ねる。
そんな風に仕事をし、少し疲れたこともあって休憩をしていた。
(春、か。冒険者なら今が一番忙しい時季なんだろうな)
自分も冒険者だっただけに、ガラハトは感慨深そうに窓の外を見ながら内心で思う。
冒険者時代の生活を思い出し、少しだけ懐かしく思う。
実力にはある程度の自信があったが、それを知っているボルンターにいいように使われていたのだ。
だが、それでも家族の為であれば……そう思って我慢していたガラハトだったが、その結果が今の自分であり……今はどうなっているのか分からないボルンターの姿だ。
それを行ったのは長年兄の仕打ちに耐えてきた自分ではなく、兄にちょっかいを出されたレイだったのだから、少し面白く思ってしまっても仕方がないだろう。
そのレイとも、今は表だった付き合いはないが、それでも現在の関係はそれなりに良好と言っても良かった。
「……うん?」
レイのことを思い出していたガラハトだったが、不意に執務室に走ってくる足音が耳に入る。
こうして足音を立てているのだから、暗殺者の類ではないのは確実だった。
それでも念の為にと、会頭という立場になってもどうしても手放すことが出来ない長剣に手を伸ばす。
勿論本当にそれが必要になるとは思っていない。
だが、それでも会頭よりも冒険者をやっていた時間の方が長いだけに、どうしても習慣というのは抜けないのだろう。
自分でもそう思って扉に視線を向けていたガラハトだったが……
「ガラハトさん、大変だ!」
扉を蹴破るように執務室の中に入ってきたのは、ムルトだった。
ガラハトを実の兄のように慕っている人物で、アゾット商会がレイと揉めた時も自分と一緒に関わった人物だ。
「どうしたんだ、ムルト。そんなに血相を変えて」
「はぁ、はぁ、はぁ……ガ、ガラハトさん……レイがやって来てる」
「……レイが?」
まさか、レイのことを考えていた今、丁度タイミング良く姿を現すというのはガラハトにとっても驚きだった。
そもそも、今のレイは表だってアゾット商会とは関わらないようにしてる筈だった。
それなのに、何故? と一瞬疑問に思うも、恐らく何かの用事があるのは間違いないと判断して口を開く。
「そうか、なら客室に通してくれ。俺もすぐに顔を……」
「違う! 違うんだよ!」
ガラハトの言葉を遮るように叫ぶムルト。
そこでガラハトもムルトの様子がおかしいことに気が付いたのだろう。
微かに眉を顰めながら、口を開く。
「どうしたんだ? 何があった?」
「俺に報告を持ってきた門番の話だと、レイはかなり怒ってるらしいです。幸い門番の方にまだ被害は出ていないようですが」
「……何?」
以前からアゾット商会で働いている人物で、レイと揉めようと思う者はまずいないと言ってもいい。
当然のように、ガラハトもレイと揉めるような指示を出した覚えはなかった。
つまり、現在の状況は完全に不意打ちのような状況であり……レイの怒りが何をもたらすのかを理解しているだけに、ガラハトの頬が引き攣る。
「誰かレイに手を出したのか?」
「そんな命知らずはいないと思いますが……」
ムルトが完全にそう言い切れないのは、レイとアゾット商会が揉めてから数年が経っているからだろう。
その間に商会に入って来た者達が、自分達なら何とか出来ると判断してレイに手を出した……という可能性は皆無とは言えなかった。
勿論以前からアゾット商会にいる人物から、レイと敵対するような真似をするなと言い聞かされてはいるのだが、若い者に特有の全能感のようなものを持っている者がいないとも限らない。
だからこそ言葉を濁したのだ。
以前よりも規模を縮小したアゾット商会だったが、それでもギルムの中で大きな商会の一つだというのは変わらない。
そうである以上、そこに雇われている人数も膨大なものになるのは当然だろう。
「とにかく、レイがやって来たのなら客室に通してくれ。何があってそこまで怒っているのかは分からないが、俺が話を聞いてみる」
レイが怒っているというのは、胃に優しくない情報だ。
だがそれでも、レイは決して話を聞かない相手ではないというのも、以前の付き合いから分かっていた。
もし問答無用で暴れるのであれば、そもそもこの屋敷は既に廃墟となってしまっていただろう。
それもあって、今のガラハトは少しだけではあるが落ち着くことが出来ている。
……もっとも、怒っているレイと会話をしなければならないというのは、地味にガラハトに精神的なダメージを与えているのだが。
ムルトもそれを理解しているのだろう。すぐに頷くと、そのまま執務室を出ていく。
報告をしにきた新人の門番は、とてもではないが使い物になるような状況ではない。
また、レイに事情を説明するにしても、何も知らない者よりは少しでもレイを知っている人物が直接話した方がいいだろう。
そう判断しての行動だった。
(胃が……)
レザーアーマーの上からだが、ムルトはそっと胃を撫でる。
ガラハト程ではないしろ、今回の件はムルトの胃にも大きなダメージを与えていたらしい。
以前アゾット商会がレイと揉めた時は、最初レイに対して敵対的な行動をとったムルトだったが、今となってはそれがどれ程無謀な行為だったのかは理解している。
……もっとも、レイに敵対的だったのは尊敬するガラハトがレイに蔑ろにされたからというのが大きい。
何の理由もなく、敵対的だった訳ではない。
そしてアゾット商会とのトラブルが続くうちに、ムルトはレイがどのような実力を持つ人物なのかを理解していった。
(胃が、痛い。何だってレイがあそこまで怒ってるんだよ)
屋敷から出て、門の方へと向かうムルト。
表情には出さないが、門の前にいるレイの様子を見れば、先程まで痛んでいた胃が更に痛みを増したように感じてしまう。
それでも痛みを表情に出さないようにして、門の前に辿り着くと口を開く。
「久しぶりだな、レイ」
「ああ。何だかんだとあって、今までこうして直接顔を合わせる機会はなかったからな」
「ははは。まぁ、それでもギルムにいればレイの活躍は耳に入ってくるよ。色々と派手に動いているようだし」
何とかレイとの間にある空気を和ませようと、そう声を掛ける。
だが、それは決してお世辞という訳ではない。
レイの活躍は、それだけ色々と耳に入ってきているのは事実なのだから。
「それで、そっちの美人とお嬢ちゃんが、最近レイと行動を共にしてる人達か?」
「ああ。丁度今日パーティを結成してな。……ただ、折角パーティを結成したその日に、俺の知り合いの錬金術師に瀕死の重傷を負わせて、俺が預けていたマジックアイテムを盗み出していった奴がいてな」
その言葉に、ムルトは何故レイが怒っているのかを理解する。……して、しまう。
元々敵には容赦がないが、仲間に対しては情の厚いレイだ。
それが、今言ったようなことになっているのであれば、ここまで怒っているのは当然だった。
何より、レイのマジックアイテムを盗んだというのが大きい。
アゾット商会が以前レイと揉めた要因が、レイの持つマジックアイテムを奪おうと考えたことだった。
それを考えれば、今回アゾット商会に同じような理由でレイがやってきたことはある種、運命なのかもしれない。
(いや、そんな運命いらないけどな!)
全身全霊でそんな運命を拒否しながら、ムルトは出来るだけレイを刺激しないように……そしてレイ以外の面子にも不愉快に思われないように口を開く。
「それは……馬鹿な奴もいる者だな。ギルムでレイを敵に回せばどうなるのか、分からない奴もいなさそうだけど」
ギルムという括りで考えれば、レイを敵に回すということは暴力的な意味での致命傷と言ってもいい。
更にレイの従魔のセトを可愛がる者達も、当然セトを従魔としているレイと敵対した相手には容赦しない者が多かった。
だが……レイがここにいて不機嫌であるのなら、その致命傷を受ける標的が誰なのかは明らかだ。
(誰だ、そんな馬鹿な真似をした奴は!? ……いや、もしかしたら、何かの勘違いの可能性も……)
ここまでレイが来ている以上、その可能性は恐ろしく低い。
そう理解しつつ、それでも蜘蛛の糸に縋り付くような思いで口にした言葉。
しかし、ムルトのそんな言葉に、レイは深紅の異名持ちと呼ぶのに相応しい、威圧感に溢れた視線を向けて口を開く。
「そうだな。俺もそう思ってたよ。しかも、それが以前同じようなことをして散々な目に遭った商会で、しかも今のその商会の会頭はその時の当事者のガラハトだってのに」
「違う!」
レイが言葉を最後まで言い終わるよりも前に、ムルトは否定の言葉を発する。
それは反射的なものだった。
だからこそ、レイはそんなムルトを前にして違和感を抱く。
自分と敵対するという選択肢を選んだ割りには必死すぎないか、と。
勿論レイは自分がどれだけの力を持っているのかは分かっている。
それだけに、こうして真っ向から敵対するのは分からないでもなかったが、今のムルトの表情はとても演技には見えなかった。
実はムルトが高い演技力を持っているのかもしれないという思いもあったが、こうして見ている限りその可能性はないように思える。
本当に、心の底からガラハトを心配しての言葉。
だが……それで気を緩めたのは一瞬だけ。
「なら、何で錬金術師を襲って、俺のマジックアイテムを盗んだ奴の臭いがこの屋敷の中に向かってるんだ?」
「……何?」
唖然とした言葉が、ムルトの口から漏れ出る。
レイがアゾット商会にやってきた以上、何らかの理由があるのは確実だと思っていた。
だが、それを行った人物がこの屋敷の中にいる……というのは、少し予想外だった。
「それは本当か?」
「セトの嗅覚を疑うのか? 自慢じゃないが、セトの嗅覚は人間は愚か、犬よりも上だ」
猫科の獅子がベースになっているモンスターなのに犬? と一瞬だけ疑問に思ったムルトだったが、今はそんなところに突っ込める訳もない。
慌てて門番に視線を向け、鋭く叫ぶ。
「レイ達がやってくるよりも前に屋敷の中に入った奴はいるか!?」
「えっと、はい。コリスさんが用事があるとかで、少し前に……」
「具体的には、どのくらい前だ?」
「……レイさん達がやってくる数分前といったところです」
「多分それだな」
門番の言葉に、レイが呟く。
元々アジモフを襲った者は、レイ達がアジモフの家にやって来たのと前後するようにしてその場から逃げ出したのだ。
その後、アジモフの怪我をポーションで回復し、マリーナに任せてからセト、ヴィヘラ、ビューネと共に臭いを追ったのだから、時間的に考えてもそれ程おかしくはない。
「ちなみに、コリス以外の奴がやってきたのは?」
「それは……一時間くらい前にソールスさんがやって来ましたけど」
「そっちは除外してもいいだろうな。……とにかく、そのコリスってのが俺のマジックアイテムを奪った奴である以上、話を聞かせて貰いたい」
「落ち着きなさい、レイ」
ムルトに迫る勢いで告げるレイだったが、そんなレイの肩を抑えるようにヴィヘラが窘める。
「この屋敷の中にいるのなら、向こうも逃げ出すに逃げ出せない筈よ。それに、セトがいる以上、もうスレイプニルの靴は戻ってきたものだと思ってもいいでしょ? ……ねぇ、ムルトとか言ったわよね? 今回の件が終わるまで、そのコリスって人を含めて、誰も屋敷の敷地内から出さないようにお願い出来る?」
そう要請されたムルトに出来るのは、自分達が……アゾット商会がレイと敵対しようと思ってないということを示す為に、ただ黙って頷くことだけだった。
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