第1206話

 レイの視線の先にいたのは、凛とした美貌を持つ人物……姫将軍の異名を持つ、エレーナだった。


「キュ!」

 

 レイの腕の中から、イエロが短く鳴くと小さな翼を羽ばたかせてエレーナへと飛んでいく。

 黙ってそれを見ていたレイだったが、やがてエレーナが自分の方へと一歩踏み出すのを見て、レイもまた一歩エレーナの方へと踏み出す。

 周囲では事情が分からずにただ驚いている者達が多いのだが、レイもエレーナもそれに気が付く様子はない。

 中には以前行われたベスティア帝国の戦争に参加したり、それ以外にも何らかの理由でエレーナの顔を遠くから見た者も何人かおり、そこにいるのがエレーナであると知って目を擦っている者もいる。

 もっとも、エレーナは以前にもギルムに来ている。

 その時にエレーナの顔を見た者もいるのだろうが。

 ともあれ、そんな風に視線を向けられているのにも関わらず、エレーナとレイはお互いに近づいていき……やがて、レイが口を開く。


「エレーナ、どうしてここに……」


 そんなレイの言葉に、エレーナは笑みを浮かべる。


「ヴィヘラの件を聞いてから、いてもたってもいられなくてな。ただ、片付けなければならない仕事も多く、なかなか来られなかったが」


 当然ながら、エレーナはヴィヘラの現状を知っていた。

 レイとエレーナは対のオーブを使ってやり取りが出来、毎日のように……とまではいかないが、それでも数日ごとにお互い話をしているのだから、ヴィヘラの事情を知らせるのは当然だった。

 そしてヴィヘラの話を聞いたエレーナは、何とかヴィヘラの意識を取り戻す方法を探そうと公爵家と……そして姫将軍の異名を持つ自分の影響力を最大限に使って、情報を集めていたのだ。

 だが、ヴィヘラが意識を失った原因はアンブリスだ。

 三百年前に一度……それもミレアーナ王国ではなくベスティア帝国で現れた存在。

 詳しい情報を殆ど入手も出来ず、それでも幾らかの情報を入手出来たのはエレーナの名前がどれだけ有名なのかを示しているのだろう。

 そして最低限片付けておかなければならない仕事を急いで片付け、ある程度の余裕が出来たのを見計らい、こうしてギルムへとやってきたのだ。

 今年の春にもそれなりに長期間ギルムに滞在していた為、エレーナが再びギルムに行くのに周辺の者達はいい顔をしなかったのだが、その辺りはエレーナが自分の意志を通した形だった。


「この前は……」

「馬車の中で、だな」


 レイの言葉を最後まで言わせずに、即座に答える。

 数日前に対のオーブで話した時は、既に馬車でギルムに向かっている途中だった、と。


「別に隠す必要はなかっただろ?」

「こういうのは驚かせた方がいいとアーラに言われてな」

「……そう言えば、アーラは?」


 エレーナの忠実な臣下にして親友の姿が見えないことに、レイは違和感を抱く。

 アーラのエレーナに対する想いは非常に強く……いや、強いというか半ば暴走することもある。

 それは、レイが初めてエレーナに会った時、レイとエレーナの視線が合った時のことを思えば当然だろう。


「アーラは現在宿の用意をしている。当然夕暮れの小麦亭だ」

「よく空き部屋があったな」


 現在ギルムはアンブリスの件もあって、その間に来ることが出来なかった商人が多く集まっている。

 そんな商人達の中には当然大商人と呼ぶべき者達も多く、そのような者達が泊まる宿の一つとして、夕暮れの小麦亭がある。

 そのような商人や冒険者といった者達で埋まっていてもおかしくない夕暮れの小麦亭だけに、エレーナが部屋をとったと聞かされてレイは驚く。

 本来ならもっと色々とエレーナと話したいこともあるのだが、こうしていきなりエレーナと再会してしまったせいか、素直に自分の思いを口には出来なかった。


「うむ。幸い商人の中には私を知っている者も多くてな」

「……だろうな」


 情報が命の商人……それも夕暮れの小麦亭に泊まれるだけの金銭的な余裕を持った商人達だ。

 当然エレーナの顔を知っている者もおり、そのような者達にとっては宿の部屋を譲るだけでエレーナとの縁が出来ると言うのは幸運以外のなにものでもない。

 エレーナとの交渉に成功した商人は、他の商人に嫉妬の視線を向けられていたのを見れば、エレーナと知り合いになれたというのがどれ程大きいのか分かるだろう。


「とにかく、ここだと人目もある。宿に戻らないか?」

「そうだな。俺も色々と話したいことがあるし」


 呟きながら、エレーナと会ったことで、自分の中にあった重い何かが少しではあるが薄れているのを感じる。

 勿論エレーナに会ったからといって完全にそれがなくなった訳ではないのだが、それでも今の自分にとってエレーナと話すというのは、何よりの気分転換になると思えた。

 そんなレイの思いを理解しているのか、いないのか。

 ともあれ、エレーナはレイと共に夕暮れの小麦亭へと向かって歩き始める。

 そんな二人の後ろを、子供と遊び終わったセトが頭にイエロを乗せたまま追う。

 二人と二匹……それだけではギルムではそれ程珍しくはなかったが、こうして実際に歩いているレイ達はどうあっても人の目を引く。

 お互いが歩きながらも、何かを話すことはない。

 そんな無言のままに進んでる二人だったが、不思議とレイとエレーナの間に気まずい雰囲気はない。

 いや、それどころかお互いがその沈黙を……レイはエレーナがいるという沈黙を、そしてエレーナはレイがいるという沈黙を楽しんですらいた。

 普通の沈黙ではなく、お互いがいるからこその充実した沈黙。

 レイとエレーナの後ろにはセトとイエロがいるのだが、そんな二人が醸し出す雰囲気に誰も声を掛けようとは思えない。

 普段であれば間違いなくセトに声を掛けているだろう者達でも、だ。

 そうしてお互いが沈黙を保ったままに夕暮れの小麦亭へと到着する。


「グルゥ……」


 少し寂しそうにセトが鳴くも、そのままレイに何も言われずとも厩舎へと向かう。

 そんなセトを不憫に思ったのか、単純に久しぶりに会ったセトともっと一緒に遊びたかったのかはレイにも分からなかったが、イエロはセトの頭に乗ったまま厩舎へとついていったが。

 正真正銘の二人きりになったレイとエレーナは、夕暮れの小麦亭の中に入る。


「……あ、エレーナ様! いつの間にかいなくなっていたと思ってたら、外に出てたんですね!」


 二人きりになった数秒後には、宿の中にいた人物がエレーナとレイの姿を見つけてそう告げてくる。

 その人物が誰なのかは、当然レイも知っていた。


「久しぶり、アーラ」


 エレーナが何かを言う前に、レイはそう告げる。

 そんなレイの様子に、アーラはエレーナに注意する言葉を飲み込まざるをえなくなる。

 そして不承不承、口を開く。


「お久しぶりです、レイ殿」

「今回は俺の件で色々と迷惑を掛けたみたいだけど……正直助かった。エレーナも俺に会う為に色々と無茶をしたんだろうから、少し多目に見てやってくれ」


 レイにそこまで言われれば、アーラも引き下がらざるを得ない。

 アーラはレイに対して色々と恩義があるというのも大きいが、何よりエレーナが笑っているというのが大きい。

 ヴィヘラの件を知らされてからのエレーナは、考え込むことが多くなっていた。

 勿論必要とあれば笑うのだが、それは作り笑いでしかない。

 そんなエレーナが、今は自然な笑みを浮かべていた。

 エレーナが夕暮れの小麦亭に戻ってきた時に一瞬言葉が出なかったのは、エレーナが久しぶりに自然な笑みを浮かべているのを見たからだ。

 もっともヴィヘラの件もあり、満面の笑みという訳にはいかなかったが。

 それでも今のエレーナを見れば、アーラは安堵感を覚える。


(エレーナ様……良かった……)


 内心ではそう思っても、やはりエレーナが一人で街中に出たのは面白くない。

 勿論自分だけに仕事を押しつけて……という訳ではなく、純粋にエレーナの身を心配してのことだ。

 エレーナは誰もが一目で目を奪われる程の美人だ。

 そんなエレーナが街中を一人で歩いていれば、厄介な出来事に巻き込まれる可能性は非常に高い。

 エレーナの強さを考えれば、誰かが何か手を出してきてもどうにも出来ない。

 それは分かっているが、それでも万が一ということもあるのだ。

 特にこのギルムには腕利きの冒険者が集まっているので、万が一ということも有り得る。


「それで、アーラ。部屋の件はもういいのか?」

「はい。こちらに部屋を譲ってくれた商人の方にもきちんとお礼は述べてあります」

「そうか」


 その言葉に頷き、エレーナはレイへと視線を向ける。


「ヴィヘラの様子を見たいのだが、構わないか?」

「ああ。すぐに案内する」


 意識の戻らないヴィヘラは、夕暮れの小麦亭にとっている宿のベッドで眠ったままだ。

 一部には病院に運んだ方がいいのではないか? そんな意見もあったのだが、意識不明になった事情が事情である以上、病院に預けても治療の目処は立たないのでベッドを塞ぐだけだった。

 モンスターの群れとの戦いで多くの者が怪我をし、ベッドが幾つあっても足りないという状況だったのを考えれば当然の判断だろう。

 また、医者は直接口に出さなかったが、ヴィヘラ程の美女を意識不明のままでベッドに寝かせておけば、良からぬ考えを抱く者が出てくる可能性が高いというのもあった。

 普段であれば意識のないヴィヘラにちょっかいを出そうとする相手がいても、ある程度何とかなっただろう。

 だが、怪我人が量産されていた当時の状況ではそこまで手が回らず……結局夕暮れの小麦亭に取っているヴィヘラの部屋のベッドに眠らせるという選択が取られることになった。

 もっとも、夕暮れの小麦亭は高級宿として知られており、当然防犯の意識も高い。

 ヴィヘラにちょっかいを出そうとする者がいても、病院よりはセキュリティが厳しかった。

 また、何も食べていない、飲んでいないにも関わらず痩せるようなことはなく、汗の類も掻かないという不思議な状態だったのも夕暮れの小麦亭に運び込まれることになったのに影響しているのは間違いないだろう。

 現在は、もし何かあった時にヴィヘラの面倒を見る為に女を一人雇って、ヴィヘラの部屋で待機して貰っている。

 雇ったのが女なのは、当然血迷ったりしないようにだ。

 尚、部屋の中にいてヴィヘラに何かあったら即座に知らせるだけにも関わらず報酬が高いこの仕事は、募集した時に当然競争率が高かった。

 夕暮れの小麦亭の女将のラナに面接をして貰い、認められた人物が現在はヴィヘラの担当として部屋の中にいる。

 レイとエレーナの二人は、そんなヴィヘラの部屋の前に立つ。

 最初はアーラも少し来たがったのだが、レイとエレーナ、ヴィヘラ……そしてここにはいないが、マリーナの関係は知っている。

 ここで自分が無理についていっても迷惑になるだけだと判断し、部屋の荷物の整理を行っていた。


「いいか?」

「うむ」


 レイの言葉にエレーナが頷き、それを確認してから扉をノックする。

 周囲に響く音。

 少しすると、扉の向こうから声が聞こえてきた。


「どなたでしょうか?」

「俺だ、レイだ」


 レイが名乗ると、扉が開く。

 確認するように扉の隙間から視線を向けてきたのは、四十代程の中年の女。

 中肉中背……と呼ぶには若干横に大きいが、その表情に浮かんでいるのは優しそうな笑みだ。


「レイさん、今日は随分と早いですね」

「ああ。ちょっとヴィヘラのお見舞いに来てくれた相手がいてな」


 身体を横に寄せ、後ろにいるエレーナを中年の女に見せる。

 いきなり目の前に現れたエレーナの美貌に、女は大きく目を見開くが……すぐに我に返って口を開く。


「まぁ、随分と別嬪さんですね。ヴィヘラさんの他にもこんな美人がいるなんて……ヴィヘラさんが目を覚ましたら怒りますよ?」

「ふふっ、心配はいらない。私もヴィヘラと同じくレイと将来を誓い合った仲だ」

「……あらまぁ。レイさんは随分と……」


 面白そうな笑みを浮かべた女だったが、レイはそっと視線を逸らす。

 このままではからかわれると分かっていたからだ。

 目の前の女が世話好きで他人の恋について強い興味を持っているというのは、ここ暫くヴィヘラの世話をして貰っていることで十分に理解していた為だ。


「とにかく、悪いけど一旦席を外してくれないか?」

「ええ、構いませんよ。少し待ってて下さいな」


 部屋の中へと行き、レイが来るまで編んでいたのだろう編み物を手に持ち、部屋から出る。


「では、用事が済んだら呼んで下さい。一階の食堂にいますので」

「悪いな。……これでお茶でも飲んでくれ」


 レイが銅貨を数枚渡すと、女は笑みを浮かべて去っていく。

 それを見送り、レイとエレーナは部屋の中へと入る。

 部屋の中にベッドが二つあるのは、この部屋はヴィヘラとビューネが借りている為だ。

 もっとも、ビューネは今ギルムにいないが。


(ビューネが戻ってきたら、ヴィヘラのことを話さないといけない、か)


 そんなことを考えながら、レイはベッドに視線を向ける。

 そこでは、眠っているようにしか見えないヴィヘラの姿があった。

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