第1174話

「二回目……いえ、これで三回目ね、こうして空を飛ぶのも」


 セトの前足に掴まりながら、ヴィヘラは呟く。

 遙か下にあるのは、夏らしい緑の草原。

 少し離れた場所には街道の姿も見える。

 もっとも、少し離れたというのは高度百mを飛んでいるセトに掴まっているからこそ言えることであり、普通なら街道を見ることは出来ないだろう。

 空を見上げれば、そこにあるのは一面の雲。

 今までには見たこともない程に近い位置にある雲の姿に、ヴィヘラは興味深く視線を向ける。

 雨雲ではないが、それでもこうして視界一杯に雲があるというのは、何だか奇妙な気分をヴィヘラに抱かせた。


(ベスティア帝国を出奔してから、随分と経つけど……レイと一緒になってからは、これまで以上に見たことがない物を見ることが出来るし、戦ったことがない強敵と戦うことも出来ているわね。……一緒になった、か)


 ふと自分が胸中で呟いた一緒になったという言葉に、薄らと頬を赤くする。

 普通であれば、一緒になったというのは結婚をした時に使われる言葉だと理解したからだ。


(けど、レイの正妻はエレーナで、私とマリーナは側室や妾といった存在になるんでしょうね)


 市井の女であれば、複数いる妻の一人というのは不満を抱く者もいるだろう。

 だが、生憎とヴィヘラは市井の女ではない。既に出奔しているが、元々はベスティア皇族の出だ。

 一夫多妻が当然という文化の中で育ってきている為、その辺りに忌避感は存在しない。

 また、もし自分と同じくレイを愛する女が見て分かる程に駄目な女であれば、もしかしたらヴィヘラも排除しようと考えた可能性がある。

 だが、エレーナにしろマリーナにしろ、とてもではないが駄目と表現出来るような女ではない。

 能力、容姿、性格。その全てにおいて平均点以上……いや、満点に近いと言ってもよかった。

 そして何よりヴィヘラが他の二人を受け入れるのに抵抗がなかったのは、やはりエレーナとマリーナの二人が自分に負けず劣らずの強さを持っているということがある。

 食欲、性欲、睡眠欲。

 人間にはこの三大欲求が備わっているが、ヴィヘラの場合はそこに戦闘欲と呼べる欲求が存在している。

 戦いを好むというヴィヘラの欲求を考えると、エレーナとマリーナの二人はこれ以上ない存在だった。

 そして何より、レイがいる。


(この四人で暮らすことが出来たら、楽しいでしょうね。……けど、それが叶う日がやって来るのかしら?)


 夏の風を感じながら束の間の想像に身を委ねるが、すぐにそれが難しいということを思い出す。

 自分はいい。既にベスティア帝国を出奔しているのだから、今は一冒険者として活動をしているのだから、レイがどこかに行くのであればいつでもそれについていくことが出来る。

 マリーナはギルドマスターという立場にいるが、それでもあくまでもそれだけだ。

 勿論ギルドマスターという立場は重いのだが、それでもマリーナがその気になれば辞めることは難しくはない。

 実際、マリーナは現在ギルドマスターを辞めて冒険者に戻ろうと考え、自分の後釜になる人物を探している。

 また、世界樹の巫女とでも呼ぶべき血筋もあるが、そちらは今のところ特に知られていないので問題にはならないだろう。

 だが……そんな風に自由な身になりやすいマリーナに比べると、エレーナはそう簡単に自由の身になることは出来ない。

 貴族派を纏めているケレベル公爵家の令嬢であり、貴族派を象徴する姫将軍という異名持ち。

 とてもではないが、立場を捨てます、はいそうですかという風には出来ない。

 何より、エレーナはケレベル公爵家の一人娘であり、跡継ぎという立場でもある。


(エレーナが私達と一緒に動けるようになるまで……どれくらい掛かるのかしらね)


 雲の隙間から太陽の光が降り注いでいるのを見ながら、ふとそんな疑問を抱く。

 それでいながら、エレーナが最終的に自分達と一緒に行動をすることになるというのは、全く疑っていなかった。


「ねぇ、レイ」

「うん?」


 セトの背に跨がっていたレイが、ヴィヘラの呼び掛けに答える。

 セトを挟んで上下にいるので、二人共がこうして会話をしていてもまだ慣れてはいないのだが。

 それでもこうしてレイと共に行動する以上、必ず慣れなければいけないというのは理解してるのか、ヴィヘラの口から文句は出ない。


(ヘスターとは比べものにならないな。……いやまぁ、それは当然か)


 ヘスターとヴィヘラを比べるという行為そのものが意味がないと理解し、レイは改めてヴィヘラの凄さ……思い切りのよさに感心する。


「ワーウルフの群れだけど、ワーウルフリーダーは二匹以上いるかしら?」

「どうだろうな。今までの経験から考えれば、何匹ものリーダー種がいてもおかしくないと思うけど」


 これまでレイが戦った群れは、ゴブリン、コボルト、リザードマン。

 その中でコボルトの群れ以外では、複数のリーダー種が存在していた。


(集団で行動するコボルトが単独だったのは多少疑問も残るけど)


 ただ、それは偶然単独の群れで行動していたのだと言われれば、まだ納得出来なくもなかった。


「まさか、今回も他の冒険者が襲われている……なんてことはないわよね?」


 リザードマンリーダーの率いる群れと戦闘になったときのことを考え、呟くヴィヘラの言葉はレイにもきちんと聞こえていた。


「あの時は他のモンスターの群れの調査をしている冒険者パーティが襲撃されたんだろ? 可能性としてはないとは言えないけど……どうだろうな」

「ワーウルフは群れで戦うって話だし、その辺を考えれば可能性は十分にある、かしら?」

「……グルルルゥ」


 ヴィヘラの言葉に答えたのは、レイではなくセト。

 視線の先にあるのは、ギルムから大分離れた場所……それこそ馬車で一日程度の場所である、林の中。

 もっとも、規模から考えると林と森の中間と表現した方がいいだろう広さを持つ。

 馬車で一日程度の距離であっても、空を飛ぶセトであればそこまで時間は掛からない。

 勿論ヴィヘラがセトの前足に掴まって移動しているので、レイとセトだけで移動している時に比べれば速度は出ないが、それでも殆ど影響は出ていない。


「あの林、ね。……レイ、あれって」


 林を見た瞬間、ヴィヘラはレイへと声を掛ける。

 その疑問が何を意味しているのかは、レイにも十分に理解出来ていた。

 何故なら、林の中では隠しようもないくらい派手に戦いが繰り広げられていたのだから。

 もしかして、また冒険者が襲われているのか? と先程の話を思い出したレイだったが、その疑問はすぐに消える。

 何故なら、そこで戦っていたのは周囲の木々と同じくらいの大きさのサイクロプスだった為だ。


「……サイクロプス、か」


 呟いたレイの口調に残念そうな色が混ざったのは、仕方のないことなのだろう。

 サイクロプスの魔石に関しては、既にセトもデスサイズも吸収している為、倒しても旨味がないのだ。

 いや、サイクロプス自身はそれなりに高ランクモンスターで、肉も相応に美味いし、素材も高値が付く。

 そういう意味では、間違いなく美味しい獲物といえる。……倒せれば、だが。

 その巨体相当の膂力を持ち、振るわれる拳の一撃は周囲に生えている木であれば容易に叩き折る。

 現に、今こうしてレイが見ている視線の先でも、サイクロプスの振るった腕の一撃が容易く木々を叩き折っているのだから。

 そんなサイクロプスだったが、無傷という訳ではない。

 身体中に何匹ものワーウルフが噛み付き、牙で肉を食い千切っては離れていく。

 だが、勿論そんな真似を全てのワーウルフが出来る筈もなく、深く噛み付きすぎて牙でも食い千切れない状態になったワーウルフは、サイクロプスがまるで身体に止まった蚊を叩き潰すかのような一撃で容易に身体を……そして何よりも頭部を砕かれる。

 サイクロプス自身が流している血と、ワーウルフが叩き潰されて流した血。

 その二種類の血で、サイクロプスの身体は血塗れになっていた。


「うわぁ……何て言えばいいのかしら」


 戦闘を好むヴィヘラにとっても、サイクロプスにワーウルフが群がっている光景は思うところがあったらしい。


「あの数を考えれば、ワーウルフの群れは複数あると見てもいいようだな」

「そうね。……ただ、あそこに突っ込むのはちょっと面白くないわ」

「そうか? ヴィヘラなら、喜んで突っ込んでいきそうだと思ったけど」

「あのね、私をどんな目で見てるのよ?」


 レイの言葉に少しだけ不満そうに呟くヴィヘラだったが、言葉とは裏腹に口元は微かな弧を描いている。

 強敵と一対一で戦うのも好きだが、乱戦も嫌いという訳ではない。


(多分喜んでるんだろうな)


 セトの背の上でヴィヘラの様子を予想しながら、改めて地上へと視線を向ける。

 そこでは、数秒前よりも多くのワーウルフがサイクロプスへと食らいついていた。

 このまま時間が経てば、どちらが勝つのかはともかく漁夫の利を得られなくなる。

 そう考えたレイだったが、いつものようにセトの背から飛び降りることは出来ない。

 林に生えている木のおかげで、どこに今回の標的のワーウルフリーダーがいるのか分からない為だ。

 勿論このまま飛び降りても逃がすとは思えないが、それでもいざという時のことを考えれば、出来るだけ最初に一撃でワーウルフリーダーを倒しておきたかった。


「ねぇ、どうするの?」

「そうだな、出来れば一撃で仕留めたかったんだけど……ワーウルフとの戦いの邪魔にならないように、サイクロプスの方を先に仕留めてしまうか?」


 ワーウルフの群れと戦っている間に、背後からサイクロプスが攻撃してきては手痛い一撃を受ける危険がある。

 そう考えたレイの言葉に、ヴィヘラもすぐに賛成する。

 万全の状態のサイクロプスであれば戦ってみたいとも思うのだが、今のサイクロプスは身体中に怪我をしており、とてもではないが戦うに値する相手とは思えなかった。

 何より、サイクロプスとは以前戦ったが、ワーウルフとの戦いはこれが初めてだというのもある。

 速度を活かして接近し、鋭い牙や爪で攻撃を加えると即座に離脱していく攻撃方法。

 それを集団で行うのだから、非常に厄介な相手であるのは間違いなかった。

 だが、普通の者にとっては厄介な相手であっても、ヴィヘラにとっては違う。


「じゃあ、十分に楽しませて貰いましょうか」


 レイのサイクロプスを仕留めるという言葉と、ヴィヘラの戦闘を望む意欲。

 それらを身体の上下で感じたセトは、翼を羽ばたかせながら地上へと向かって降下していく。


「セト、悪いけどお前はサイクロプスの方を片付けてくれ。俺とヴィヘラはワーウルフリーダーを倒す」

「グルゥ!」


 レイの言葉に鋭く鳴き、やがて地上が近づいてきたところでレイは背から飛び降り、ヴィヘラはセトと結ばれている紐を切って降下していく。

 普通であれば、死んでもおかしくない高さ。

 だが、レイはいつものようにデスサイズと黄昏の槍をミスティリングから取り出すとスレイプニルの靴を使用して落下速度を殺し、ヴィヘラは木の枝を使って落下速度を殺す。

 二人共が問題なく林の中に着地するのと、セトがサイクロプスに向かって前足の一撃を放つのは殆ど同時だった。

 落下速度と、セト自身の腕力、マジックアイテムの剛力の腕輪……これらの効果が合わさり、振るわれた前足の一撃はスキルを使った訳でもないのに容易にサイクロプスの頭部を砕く。

 地面に着地したレイが内心で『あー……』と呟く。

 サイクロプスの眼球や角は、それなりに高額で売れる素材だからだ。

 だが、今回の件はレイがセトに頭部以外で倒すようにと言ってなかったのもあるし、ワーウルフの攻撃により眼球付近や角に多少なりとも傷が付いていたという問題もある。


(ま、仕方ないか。どのみち今回の本命はワーウルフリーダーだった訳だし)


 右手にデスサイズ、左手に黄昏の槍を手にしたレイは、周囲を見回す。

 そこには、突然の乱入者に対して警戒しているワーウルフ達の姿があった。


「グルルルルルルゥ」


 セトと似ているようで、明らかに違う鳴き声を口に出すワーウルフ。

 サイクロプスの血で染まった爪や牙を剥き出しにしながら、目の前に現れたレイの隙を窺っている。

 そんなワーウルフの集団を前にしても、レイは特に緊張した様子を見せず、寧ろ笑みすら浮かべて口を開く。


「どうした? 来いよ。お前達の獲物だったサイクロプスはこっちで仕留めた。それを理解している以上、お前達は俺を許せないよな? ……まぁ、サイクロプスを倒したのは、俺じゃなくてセトだけど」


 挑発の意味を込めて笑みを浮かべたレイに向かい、ワーウルフ達はそれぞれ威嚇の声を上げながら襲い掛かるのだった。

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