第1039話
エレーナとヴィヘラがマリーナに対して疑いの眼差しを向けた翌日早朝。レイは自分に与えられた家で起き上がり、いつものように三十分程寝ぼけながらも身支度を済ませ、外へと出る。
レイが借りている家には厩舎があり、その厩舎へと向かうと……
「キュ?」
何故かセトの背中の上に寝転がっているイエロの姿があった。
「お前、何でここにいるんだ?」
そう尋ねつつも、レイは何故イエロがここにいるのかを理解している。
イエロはセトと仲がいい。
つまり、遊びに来たのだろうと。
一応エレーナ達が泊まっている家にも厩舎の類はあるのだが、そこには馬車とそれを牽く二頭の馬が存在している。
その二頭の馬と一緒にいるよりは、少し離れた場所であってもセトと一緒にいたいという思いがイエロの中では強かったのだろう。
(エレーナとかと一緒に家の中で寝るってのもあるんだろうけど……セトと一緒にいたかったんだろうな)
セトの背の上で寝転がっているイエロを眺めつつ、レイはそっと手を伸ばして抱き上げる。
硬質な鱗へと触れると、微かに冷たさを感じる。
子供であってもドラゴンの子供というだけはあり、その鱗にはしっとりとした滑らかさのようなものがあった。
同じ鱗であっても、レイが日本にいた時に触った事のある蛇や蜥蜴の鱗とは全く違う。
似て非なる物と呼ぶのが相応しい鱗だ。
「キュ? キュキュキュ!」
鱗を撫でられたのが気持ちよかったのか、イエロは嬉しそうに鳴き声を漏らす。
「グルゥ……」
そんなイエロの様子を見ていたセトが、自分も撫でて欲しいと寝転がっている状態から起き上がり、頭を擦りつける。
「分かった分かった。セトは相変わらず甘えん坊だな。……ほら」
セトの背中にイエロを戻したレイは、セトの頭へと手を伸ばす。
セトを撫でながら完全にリラックスしている今のレイの姿は、深紅という異名を知っているだけの者が今のレイを見ても一瞬誰か分からないだろうという雰囲気を持っている。
数分程セトの頭を撫でていたレイだったが、腹の虫が自己主張したのを聞いて手を離す。
「このままここでセトと遊んでいるのもいいんだけど、そうすれば朝食を食べ損なうな。ただでさえ、今日は世界樹の治療を行うんだから、食べられる時にしっかりと食べておかないと」
「グルゥ? ……グルゥッ!」
一瞬もう終わり? と残念そうに小首を傾げたセトだったが、朝食を食べ損なうと言われてはこれ以上駄々をこねることも出来ない。
レイと同様、セトもまた朝食前で腹が減っているのだから。
そうしてセトの背にイエロを乗せたまま、レイはエレーナ達が借りている家へと向かうのだった。
「うん? イエロ、いないと思ったらセトに会いに行っていたのか。いないから探そうと思っていたぞ」
エレーナ達が借りている家の前で、レイはエレーナの出迎えを受ける。
口では探そうと思っていたといった風に言っているが、実際には予想していたのだろう。
もっとも、意外と好奇心旺盛なイエロのことだ。もしかしたらダークエルフの集落を好き勝手に見回っていたかもしれないという思いもあったのだが。
「俺が厩舎に行ったら、セトの背中をベッドにして眠ってたよ」
「……もしかして、今朝じゃなくて昨夜セトの所に行ったのか?」
「どうだろうな。それでも俺は驚かないけど」
イエロがセトを大好きだというのは、その態度を見れば誰にでも理解出来ることだ。
それは当然エレーナも同様だったのだろう。口元に小さく笑みを浮かべて、セトの背から飛び上がって自分の方へと飛んでくるイエロを受け止める。
「全く、仕方のない奴だな。……それより、そろそろ食事が出来る。今日はいよいよ世界樹の治療だからな。しっかり食べて英気を養わねばな」
「しっかりと、ねぇ。いやまぁ、俺としては嬉しいんだけど。セトには」
「そちらも問題はない。マリーナが集落の者に用意させてある。オークの丸焼きだそうだ。随分と嬉しそうに料理をしていたぞ」
「……だろうな」
集落へとやって来る途中でセトがオークと戦っている時のジュスラの様子を思い出せば、ダークエルフがオークへどんな感情を抱いているのかというのは、考えるまでもない。
ジュスラの感情が同時にダークエルフ全体の感情ではないというのはレイにも分かっていたが、それでも多かれ少なかれオークを憎む気持ちは同じなのだろう。
唯一オークを好むのは、こうして死んで食材になったオークに限るらしいと知ると、ふとレイは日本にいた時に見た小説か何かの台詞を思い出す。
(いい何とかは、死んだ何とかだけだ……ってのがあったよな)
何とかの場所には色々な言葉が入っていたのだが、今回の場合はオークが入るのだろう。
実際、オークの肉というのはそこまで高ランクモンスターというわけではないのに、かなり味がいいのも事実だ。ダークエルフがそれを好んでもおかしくはないのだろう。
「グルルゥ!」
セトも朝からオーク肉を食べることが出来るというのは嬉しいのか、上機嫌に喉を鳴らす。
「じゃ、そろそろ食事にするか」
そう告げ、家の中へと入ろうとするレイを見て……エレーナは小さく笑みを浮かべる。
その笑みの正体が何なのかというのは、家の中に入ったレイにもすぐに理解した。
何故なら、食卓を囲む者の中に一人だけ決定的なまでに場違いな人物がいた為だ。
本来であれば、自分と敵対している……いや、正確には敵対ではないのかもしれないが、それでも昨日のことを考えれば、間違いなくここにはいないだろう人物。
そんな相手の名前を、レイは口にする。
「ラグド、だったよな? ここで何をしてるんだ?」
その言葉が不満だったのか、ラグドは不機嫌そうに口を開く。
「君が世界樹を治療するのを見届けるようにと長老に言われたんですよ。どこかの誰かさんの差し金でしょうが」
ラグドの視線が向けられているのは、自分の正面に座っているマリーナ。
朝だというのに相変わらず艶っぽい雰囲気を醸し出しており、もし今が夜であれば政治的に敵対するラグドですら血迷ってしまいかねない。
だが、マリーナはそんなラグドの言葉に視線を向けて笑みと共に口を開く。
「あら、でも私に好意的な人が見届け人になれば、後で貴方が何を言うか分からないでしょう? なら、最初から貴方が立ち会った方が話は早いじゃない」
それは間違いのない事実ではある。
同時に、レイであれば世界樹を治療出来ると確信しているからこその行動でもあった。
マリーナの魂胆が分かっているだけに、ラグドはマリーナから視線を逸らして苦々しげに溜息を吐く。
その溜息の中には、政治的に敵対している相手にも関わらずマリーナに見惚れてしまう自分への不甲斐なさ、またマリーナの側に座っているヴィヘラや、レイと共に部屋に入ってきたエレーナといったマリーナと同等の美しさを持つ二人に視線を奪われそうになるのを我慢するという思いも込められている。
そんなラグドに向かい、レイは不思議そうな表情を浮かべていた。
「いや、立会人ってのは分かるけど、何でここにいるんだ? 別に一緒に朝食を食べる必要はないだろ?」
「……マリーナ様に聞いて下さい」
不満そのものを口に出したといった感じで告げるラグドに、レイはマリーナの方へと視線を向ける。
だが、そんなレイに対してマリーナは特に気にした様子も見せずに口を開く。
「どうせなら一緒に食事をした方がいいでしょ?」
「そうか? いや、別に俺は構わないんだけど」
そう言いつつも、レイの視線はラグドに向けられる。
昨日の件もあって、どうしても歓迎したいとは思えない相手なのは間違いない。
それでも文句を言わなかったのは、マリーナが決めたことであり、今回の世界樹の件はマリーナの指示に従うのが最適だと判断していた為だ。
その後は微妙な雰囲気になりながら、それでもマリーナとビューネの作った料理をたっぷりと腹の中へと収めていく。
……当然レイやビューネの食欲を間近で見たラグドは驚愕に顔を歪めていたが。
そして朝食が終わり、食休みを終えれば世界樹へと向かうことになる。
「普通なら、こういう時は気合いを入れていく必要があるんだろうけど」
「グルゥ?」
家の外で準備を整えたレイに、セトがどうしたの? と喉を鳴らして視線を向けてくる。
そんなセトの頭を撫でながら何でもないと首を横に振るレイだったが、側でイエロを撫でていたエレーナが笑みを浮かべて口を開く。
「普通ならそうかもしれないが、今回の場合は別に敵のいる場所に突っ込む訳ではないのだろう? 世界樹があるのがこの集落の中……いや、少し離れた場所で、モンスターが入ってこないように障壁の結界が展開されている以上、緊張しろという方が無理だと思うがな」
楽観視するのはどうかと思うが、と告げるエレーナにレイも頷きを返す。
「それでも今までの経験から考えると、大抵何かや誰かがいたりするんだよな。モンスターじゃないなら人とか」
これまでレイはこのエルジィンにやって来てから、多くの騒動に巻き込まれてきた。……いや、巻き込まれ続けていると表現した方が正しい程の経験をしてきている。
そう考えると、本当にもしかして……と思ってしまうのも当然だろう。
「あまり不吉なことを言わないで欲しいわね。もし本当に世界樹に何かあったとしたら、ちょっと洒落にならない出来事なんだから」
少し呆れたように呟きながら、マリーナが家から出てくる。
その後ろにはラグドの姿もあり、こちらははっきりと不愉快そうな表情を浮かべていた。
「全く、この集落に暮らしていない者は気楽ですね」
「そう言われてもな。それが事実だし……」
レイの口から出た言葉に、ラグドが目を吊り上げて何かを言おうとし……それよりも前に、再びマリーナが口を開く。
「さて、いつまでもこうしていても仕方がないし……行きましょうか」
「世界樹ね。以前に噂話で聞いた時はあったけど、直接この目で見るのは初めてだわ。……まぁ、こうして遠くからなら、昨日から何度も見てるんだけど」
ヴィヘラが今いる場所からでも見える、巨大な木へと視線を向けながら呟く。
そんなヴィヘラの視線を追い、皆が納得の表情を浮かべる。
特にラグドはこの集落で生まれ育っている為に、世界樹が見える景色に何の違和感も抱かない。
そうして世界樹へと向けて出発すると、当然のようにこの集団は目立つ。
エレーナ、ヴィヘラ、マリーナといった美女が三人も揃っており、セトやイエロといった存在もいる。
また、ラグドも昨日の件でマリーナと敵対したのを多くの者が見ており、そんな二人が共に行動をしておきながら目立たない筈がない。
「マリーナ様、そんな集団でどこに行くんだい?」
「世界樹よ」
「あら、それってもしかして……」
「ええ、予想通りだと思ってもいいわ」
話し掛けてきたダークエルフとそんな会話を交わしながら道を進んでいき、やがて話し掛けてくるダークエルフの数も少なくなってくる。
そして……やがて、レイ達は世界樹の下へと辿り着く。
「これが……世界樹?」
呆然と呟いたのは、アーラ。
目の前に広がる世界樹の大きさに、ただただ唖然とした表情を浮かべることしか出来ない。
病気で弱っているという話は聞いていたが、アーラの目から見てとても弱っているようには思えない。
青々とした葉が茂っており、どこから見ても元気なように見えていた。
そんなアーラの横で、昨日来たばかりのマリーナは一日でも若干世界樹から感じられる生命力が回復しているのを感じ取る。
「……やはり衰弱していますね」
世界樹を見たラグドが呟く。
その言葉に隠しようのない悲しみの感情が混ざっていることに気が付いたレイは、少しだけ意外そうな表情を浮かべる。
昨日の件もあってラグドにいい感情は抱いていなかったのだが、それでもマリーナが口にした通りこの集落のことを思っているのは事実なのだろうと。
(だからって、それで昨日の件が許せるかどうかってのは分からないけどな)
世界樹に目を奪われているラグドから視線を外し、改めてレイも世界樹へと視線を向ける。
見上げても枝や葉に覆われて世界樹の先端を見ることは出来ない。
「さて、じゃあそろそろ始めましょうか。レイ、お願い出来る?」
世界樹に目を奪われていたレイは、マリーナのその声で我に返る。
「分かった。……あまりこういう作業とかには慣れてないんだが……」
呟きつつ、世界樹の幹……と表現するより、間近で見た場合は壁と表現した方が正しいだろう幹へと触れる。
「いい? 最初だから一気に魔力を込めすぎないで、少しずつお願い」
マリーナの注意に頷き、そっと……それこそマジックアイテムの類を使う時のように魔力を流す。
ドクンッ、と。
レイが障壁の結界に入った時のように、再度脈動が起こる。
その脈動に驚き一瞬手を離そうとしたレイだったが、離そうとした手の上にマリーナの手がそっと重ねられる。
「離さないで。大丈夫。……大丈夫よ。この脈動は世界樹がレイの魔力を喜んで吸収している証だから。ゆっくり……ゆっくりと世界樹に魔力を流していって」
マリーナの言葉に従い、レイは世界樹へと魔力を流していく。
そうして数分が経つと、世界樹全体が淡い光を放つようになっていく。
そこから更に数分。やがて一瞬だけ世界樹が強く輝き……そして次第にその光は薄らとしたものへと変わっていく。
そんな世界樹を眺めながら、レイは呟く。
「やったか?」
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