第1036話

 最初、その光景を見ているダークエルフ達の殆どは、レイが何をしているのか全く分からなかった。

 ただ指に嵌まっている指輪をそっと引き抜いただけ。

 それだけで、今のこの状況がどうにかなるのかと。

 ラグドの一派の者は、レイが自ら墓穴を掘ったと。これでより強くマリーナを責めることが出来ると喜ぶ。

 それ以外の大多数のダークエルフは、レイの行動でマリーナがこれからどうなるのかと不安に思う。

 この場にいたダークエルフの殆どがそのどちらかの態度をとっていた。

 だが……殆どというのは全員という訳ではない。

 この広場に存在していた魔力を感知する能力を持つ者達や、それに類似した何らかの手段で相手の魔力を知ることが出来る者達は、目の前にいるのがとてもではないが普通の人間とは言えない人物であることを知る。

 例えるのであれば、どこまでも広がっている青い空。もしくは、生命の全てを燃やしつくす噴火した火山。

 海を見たことがある数少ない者達は、どこまでも……それこそ永遠と呼べるだけの圧倒的な広さを持つ大海原を連想する者もいた。

 そのような能力により、レイがどのような存在なのかを知った者は声も出せない程に驚く。

 それどころか気の弱い者にいたっては、自らの意識から手を離して気絶という道を選ぶ。

 そして……ラグドにレイが殆ど魔力を持たないと教えたレジュームは……


「ひっ、ひいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃっ!」


 ラグドへと向けられている視線が自分にも向けられていると感じ取り、悲鳴を上げながら腰を抜かして地面に尻餅をつく。

 それどころか、尻餅をついたレジュームの下半身を中心として水たまりが広がる。

 ダークエルフの中でも、魔力を感知出来る能力を持つ者は決して多くはない。

 勿論人間よりも魔力に慣れ親しんでいる為か、人数としては多いのだが、それでも全体的に見ればやはり数は少なかった。

 ましてや、この広場には大勢のダークエルフ達が集まっているが、これがこの集落に住んでいる全てのダークエルフという訳でもない。

 それ故、レイの魔力を感知した人物はどうしても人数としては非常に少なく、他のダークエルフ達が異常に気が付くのには若干の時間が掛かった。

 そんな中でも、真っ先に魔力を感知出来る能力の持ち主達の異常に気が付いたのは、当然のようにレイがどれだけの魔力を持っているのかを知っているエレーナ達だった。

 一行の中には魔力を感じ取る能力を持っていない者もいるが、それでもこの一行にいる以上、レイの魔力がどれ程のものなのかは当然知っている。

 そして次に異常を感知したのは、レイから少し離れた場所にいるオプティス。

 他のダークエルフ達程にレイから離れていなかったおかげもあるのだろう。

 何人ものダークエルフが、それぞれ驚愕という言葉では言い表せず、狂乱とでも表現すべき状態に陥っているのがはっきりと見えていた。

 それでも魔力を感知する能力を持ったダークエルフ達が大きく騒がなかったのは、最初にラグドの部下が騒いだということにより、若干だが我に返ることが出来たというのが大きいだろう。

 そして次に勘の鋭い何人かのダークエルフが異常に気が付き、ラグドもそのすぐ後に自らの部下の異常に気が付く。


「おっ、おい! どうした! おい!」


 地面を濡らしている自らの部下に、信じられないといった視線を向ける。

 当然だろう。レジュームは普段から自分によく仕えてくれる男であり、その稀少な能力もあって非常に有能な男だったのだから。

 とてもではないがこんな醜態を晒すような性格はしていなかった筈であり……


(つまり、あのレイとかいう男が何かをしたらこうなった。手段は分かりませんが、これを仕掛けてきたのは間違いなく……)


 自分の中で結論づけると、ラグドの視線はレイの方へと向けられる。

 つい先程はレイから発せられる迫力に身動きも出来なかったラグドだったが、少しの時間が経過して多少は慣れ、そして何より自らの部下を何らかの手段で害したレイを決して許すことは出来なかった。


「おい! レイ! こいつに何をした!」


 部下を害された怒りから普段の丁寧な口調を崩して叫ぶラグドだったが、それに対するレイの返答は指輪を再び嵌め直し、小さく肩を竦めるだけだった。

 それが余計にラグドの怒りを増したのだろう。ダークエルフらしい褐色の肌を、怒りで赤く染めながらレイへと詰めようとして……


「いけません、ラグド様!」


 そんなラグドの手を掴んで止めたのは、つい数秒前まで地面を濡らしながら恐怖に怯えていたレジューム。

 ラグドに対する忠誠心で、何とか恐慌の状態から脱したのだろう。

 レイという人物がどのような存在なのかを知ってしまった今、あのような化け物に対して喧嘩を売るような真似だけは絶対に避けるべきだった。

 魔力を感知する能力を持つレジュームはそれを理解出来るのだが、生憎とラグドはそのような能力を持ってはいない。

 レイが何か怪しげな力を使って自分の部下に危害を加えたと思ったのだ。 

 だというのに、その部下が自分の行動を止めてくるという事に若干の困惑の表情を浮かべる。


「どうしました? あの者が貴方に何かをしたのでしょう? なら、そのことを後悔させてやるべきではありませんか?」


 その言葉に、レイは笑みを浮かべてラグドを止めようとしているレジュームを一瞥する。

 決して射竦めるといった視線を向けた訳ではなかったのだが、視線を向けられたレジュームにとってはそれだけで十分だった。


(ただの人間があのような魔力を持っている? そんな、馬鹿な……いや、今はラグド様を落ち着かせなければ。奴と敵対するのは絶対に避けるべきだ!)


 股間が濡れているのも気に掛からない様子で、レジュームは必死にラグドへと言い募る。


「違います! あの男は……レイは何もしていません! ただ、俺が……俺がレイの持つ魔力に圧倒されただけです!」


 レジュームが何を言っているのかと、ラグドは首を傾げる。

 ラグドにとって、レジュームは腹心と言ってもいい程に重用している男だ。

 その大きな理由の一つが魔力を感じる能力であり、それ故に先程レジュームがレイの魔力が少ないと告げ……と考えたラグドは、レイが指輪を外したことを思い出す。

 あまりにも……あまりにも意味ありげなその行為は、考えてみればどう考えても何かあると態度で示しているも同然だった。

 それに気が付かなかったのは、それだけレジュームを始めとして他のダークエルフ達の異変が強烈な印象を残したからだろう。

 それらの要素を考えれば、レイが何をしたのかは考えるまでもなかった。


「あの指輪……魔力を抑える能力を持つマジックアイテムですか?」

「……はい。ですが、マジックアイテムはマジックアイテムでも、あれだけの能力を持つマジックアイテムは見たことがありません。もしかして、森の外にはあのようなマジックアイテムが幾つもあるのでしょうか?」


 レジュームは他大勢のダークエルフと同様、森から出たことがなかった。

 それでも自分達ダークエルフは魔力を操るのに長けていると思っていたのだが、もしかして人間の世界ではあのような高い能力を持つマジックアイテムが幾つもあるのか、と疑問に思ったのだろう。

 ダークエルフにも錬金術を使ってマジックアイテムを作り出すことが出来る者はいるが、それでもあのようなマジックアイテムを作れるとは思わなかった。

 勿論それは完全に誤解であり、レイが持っているのは古代魔法文明の遺産……いわゆるアーティファクトと呼ばれる物であり、森の外でも非常に稀少な代物だ。

 だが説明もされていないのだから、ラグドがそれを分かる筈もない。


「分かりません。ですが、レジュームがそこまで言うのであれば、あのレイという男は世界樹を回復させるのに十分な魔力を持っている……ということでいいのでしょうか?」

「はい」


 ラグドの言葉に、レジュームは即座に頷く。

 そして次の瞬間には慌てて首を横に振る。


「いえ、すいません。少し違います。あのレイという男は……世界樹を回復させるどころか、より活性化させることすら容易に出来るだけの魔力を持っています。それどころか、そこまで魔力を使ってもまだ大きな余裕が存在すると思われるかと」

「何ですって?」


 レジュームの魔力を感じる能力には全幅の信頼を置いているラグドだったが、それでも聞き返さずにはいられない。

 それ程信じられない出来事だった為だ。

 世界樹を回復させる為の魔力というのは、この集落にいるダークエルフが総出で掛かっても、何とか病の進行を遅らせるのが精一杯の代物だった。

 だというのに、それを全快にし、その上で更に活性化させるという話は、とてもではないがまともに信じられるものではない。


(もしかして、さっきの衝撃で混乱してるのでしょうか?)


 そんな風に思ってレジュームの方を見るが、レイが指輪を外した当初はともかく、指輪を填め直して自分と話をしてからは混乱しているようには見えない。


(つまり……レジュームの言うことは真実だということだと?)


 ラグドはじっと腹心のレジュームの方を見てから、やがて改めてレイの方へと視線を向ける。

 視線を向けられたレイは、先程見せた怒りは何だったのかと言いたくなるくらいに悠然と構え、自分とレジュームの会話が終わるのを待っていた。

 ラグドの視線に気が付いたのか、レイは笑みを浮かべて口を開く。


「どうした? もういいのか?」

「……ええ。生憎と私には魔力を感じ取る能力はありませんので。ですがこの者はその能力を持っていて、私はそれを信用しています。である以上、君が世界樹を回復させるだけの魔力を持っているというのは確実なのでしょうね」

「それで?」


 そんな言葉には興味がないと言いたげな態度で先を促すレイに、ラグドは不愉快そうに眉を顰める。


「それで、とは?」

「お前がこの人数の前で散々責めたマリーナに謝罪の一つもないのか? お前の自分勝手な思い込みで、お前の部下と思しき奴等に散々責められたんだぞ?」


 レイの口から出たのは、マリーナに対する謝罪の要求。

 それは決しておかしなことではなかったが、同時にラグドを一段と追い詰めるものでもあった。

 ここで謝れば、自分の落ち度は大きい。これで周囲に対する影響力がなくなるとは言わないが、それでも確実に影響力に差が出てくる。

 これだけの大人数の前で多くに慕われているマリーナを糾弾したのだから、その辺りに影響が出てくるのは確実だった。


(何かないか? 何か……)


 謝るにしても、何とか取り繕って謝る必要がある。

 被害を最小限にする為にどうすればいいのか迷ったラグドの視線が向けられたのは、レイ。……正確にはその指に嵌められている指輪。

 今回の件の原因となったその指輪を見ながら、ラグドは口を開く。


「そ、そもそも君がその指輪で魔力を隠してなければ今回のような問題は起きなかったと思いませんか? その指輪で魔力を隠すという行為をしていたからこそ、君が世界樹を治療するだけの魔力がないと誤解されたのだから」

「……もし俺が新月の指輪を身につけてなかったら、この集落に入ってきた時点で今の光景が広がっていたんだが?」


 レイはそういいながら、周囲にいるダークエルフ達を一瞥する。

 その視線の先には、レイが新月の指輪を使って魔力を隠蔽したおかげでようやく安堵して自由に動けるようになったダークエルフ達がいた。

 魔力を感知する能力を持っている者は、軒並みレイへと畏怖の視線を向けている。

 それでも唯一の救いだったのは、レイに向けられている視線の多くは畏怖ではあっても嫌悪の類ではないということか。


「それは……ですが、その指輪の為にこちらが魔力を感知出来なかったのは事実です。その辺についても情状酌量の余地を求めたい」


 きっぱりと言い放ったラグドは、だがすぐに溜息を吐いて口を開く。


「しかし、今回は私の方で見抜けなかったのは事実。魔力の扱いに長けたダークエルフとしては恥じ入るばかりです。そうである以上、私もマリーナ様にはきちんと謝罪をしましょう。……すいませんでした、マリーナ様。今回の件に関しては、魔力の隠蔽を見抜けなかったこちらのミスです」


 皆の前で堂々とマリーナに謝るその様子に、周囲にいる他のダークエルフ達は感心したようにそれぞれ態度を示す。

 レイもまた、そんな者達とは別の意味でラグドに感心するような視線を向けていた。


(ここで更に言い訳を重ねて来ない辺り、中々だな。もしここでそんな真似をしていれば、間違いなく求心力は下がったんだろうけど)


 レイは、ラグドがどのような立場にいるのかというのはよく知らない。

 だがそれでもマリーナを責めているのを見れば、マリーナと対立しているというのはすぐに分かった。

 しかもこんな場所で吊し上げのような真似をするのを見れば、良い感情を抱ける筈もない。


「……では、このままここに私がいても色々と気まずいでしょうし、この辺で失礼させて貰います。レジュームの件もありますし」


 そう告げると、ラグドはレジュームを連れて広場を出て行く。

 何人かの、ラグドの部下と思しきダークエルフ達もその後に続く。

 それを見ながら、レイはここでも結局面倒なことに巻き込まれるのか……と溜息を吐くのだった。

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