第979話
緑の絨毯を眼下に、セトは飛ぶ。
大きく翼を羽ばたかせるその姿は、地上から見れば鳥にも獣にも見えるだろう。
春らしい青空を飛びながらも、レイの視線は地上へと向けられていた。
森から脱出した者達の姿がないのかという思いからだったのだが、元々サイクロプス達がいたのは森の中でもかなり奥深い場所であり、その森から出るだけでもかなりの時間が掛かるだろう。
また、それぞれが個人で動いたということは、森の中でモンスターと遭遇しても個人でどうにかしなければならないという訳でもある。
もっともサイクロプスと正面から自分だけで戦うよりは十分に勝算は高いのだろうが。
「グルゥッ!」
森から少し離れた場所にある草原、街道まではまだもう少しある場所へと視線を向け、セトが鋭い鳴き声を上げる。
その鳴き声に、レイはセトの見ていた方へと視線を向け……地上を走っている一人の冒険者の姿が目に入った。
「あれは……」
見覚えのあるその人物は、当然ながら元遊撃隊の一人だ。
森を抜け出た後も必死に走っているその姿は、少しでも早くギルムへと向かってサイクロプスの脅威を知らせる必要があると、体力の限界を超えて走っていた。
「セト」
その一言だけでセトはレイが何を言いたいのか、そしてどのような行動を望んでいるのかを理解し、翼を羽ばたかせながら地上へと向かって降下していく。
「グルルルルルルゥ!」
地上を走っている者の注意を引くように鳴き声を上げるセト。
当然その声は、周囲の様子を警戒しながら走っている男の耳にも届く。
いきなり聞こえてきた声に、男はすぐに足を止めて周囲の気配を探る。
だが、今聞こえてきた声に聞き覚えがあるとすぐに気が付いたのだろう。信じられないといった表情で空を見上げる。
そうして向けられた視線の先には、当然のように背中にレイを乗せたセトの姿があった。
「レイさん! セト!」
喜色満面といった様子で叫ぶ男。
身につけているレザーアーマーは森の中を全速力で走ったことによりかなり汚れている部分もあったが、そんな汚れなど何するものぞといった喜びがその表情には浮かんでいた。
当然だろう。元遊撃隊の男はレイの実力を幾度となく目の当たりにし、心に刻み込まれているのだから。
「実は、森の中で……」
「サイクロプスの件だろ? 安心しろ、それはもう片付いた。……いや、お前達が見た以外にもサイクロプスがいる可能性はあるから完全に片付いたとは言えないだろうけど、ヨハンナ達は全員無事だ」
「……え?」
いきなりレイの口から出た言葉が信じられなかったのか、何を言ってるんだろうといった視線がレイへと向けられる。
自分達の行動を先回りしたとでも言いたげなレイの言葉だったのだから、男がそう思ってもおかしくはない。
だが、すぐにレイならそれくらいはしても不思議ではないと納得の表情を浮かべる。
そんな男の誤解を解く為にレイは口を開く。
「ギルドに行ったらディーツがやって来たんだよ。それで話を聞いて、な」
「……ディーツ、間に合ったんですね」
安堵の息を吐く男。
このままではサイクロプスによってギルムが被害を受ける可能性も、そして何より自分達が生き残れないという可能性を考えていた為、ギルムへと戻ったディーツが無事に援軍を……それもレイというこれ以上ない程に強力な援軍を呼んできてくれたというのは、男を安堵させるのに十分だった。
もっとも、次にレイの口から出た言葉に男の動きは止まるが。
「ああ。ヴィヘラもいたから戦力的には十分だったしな」
「ヴィヘラ様!? えっと、そのヴィヘラ様って俺が知ってるヴィヘラ様ですよね? ベスティア帝国の……」
「そうだな。俺はお前が言ってるヴィヘラ以外に、ヴィヘラという名前の持ち主は知らないし」
「何でヴィヘラ様が……あ、そう言えば俺達がギルムに来る時、春になったら来るとか言ってたような」
何故ヴィヘラがギルムにいるのかを理解した男は、偶然に感謝する。
ヴィヘラのおかげで自分達は助かったのだと。
勿論ヴィヘラだけではなく、目の前にいるレイやセトに関しても感謝はしていたのだが。
そんな男の様子を気にした様子もなく、レイは話を続ける。
「ともあれ、だ。サイクロプスに関しては取りあえず心配いらない。ミレイヌが言った、ギルムに知らせるってのはやらなくてもいい。それを伝える為に俺はセトに乗って移動してきたんだけど、他の面子とはやっぱり一緒じゃないのか?」
「え? はい。皆それぞれ散らばって逃げたので。……そういう意味では、よくレイさんはミレイヌに会えましたね。やっぱり森の中で俺みたいに逃げているところを?」
男の口から出た言葉に、一瞬何を言っているのか意味が分からないといった様子の表情を浮かべるレイだったが、すぐに理解する。
つまりミレイヌ達は他の者には何も言わず、サイクロプスに仲間を追わせないように殿を勤めたのだろうと。
「いや、俺が会ったのはミレイヌ、スルニン、ヨハンナの三人だ。サイクロプスの足止めをしていた、な」
「……え?」
一瞬前にレイが浮かべた、相手が何を言っているのか分からないといった表情と同じような表情を男は浮かべる。
だが、男も元遊撃隊として活動していただけに、頭の巡りは決して悪くない。
すぐにレイの言っている意味を……ミレイヌ達が何の為にその場に残ったのかを理解すると、それ以上は言葉に出来ずに天を仰ぐ。
そこに広がっているのは、春らしい青空。
「全く……何だかんだとお人好しな奴」
呟きつつも、その表情に浮かんでいるのは苦笑。
そのまま数秒が経ち、ようやく空からレイへと視線を向けて口を開く。
「それで、三人は無事だったんですよね?」
確信を込めた言葉は、レイやヴィヘラの実力を信用しているからこそのものだろう。
そんな問い掛けに、レイは頷く。
「ああ。かすり傷とかはあるけど、致命傷や大きな怪我の類はないな」
「そうですか。……あーよかった。取りあえずギルムに戻ったら食べ物でも奢ってやるか。金の余裕はあまりないんだけど」
「そうしてやれ。で、俺はギルムに向かうけど……」
「あ、はい。そうですね。俺が最初に森を抜けたって訳じゃないかもしれないですし、そっちの方がいいかもしれません。討伐隊を結成するにも金とか掛かりますから」
レイの言葉にすぐにそう言葉を返せるということは、男も討伐隊を結成する際の問題点は理解していたのだろう。
「じゃ、俺はそろそろ行くけど、もし他の奴に合流出来たらその辺の事情説明を頼む」
男へとそう告げ、レイは再びセトの背へと跨がる。
するとセトは男に頑張ってと一鳴きしてから、助走を始める。
数歩の助走の後に翼を羽ばたかせ、空へと舞い上がっていく。
その姿を地上から見上げていた男は、セトとレイの姿が小さくなると気持ちを切り替えてギルムの方へと向かって歩き出す。
別の方向に逃げた仲間と合流出来るように祈りながら。
「さて、他の面子にも会えればこっちとしてはギルムまで戻らなくてもいい分、楽なんだけどな。……ま、そう簡単にはいかないか」
「グルゥ!」
緑の草原を見下ろしながら呟くレイに、セトは同意の声を漏らす。
そのまま翼を羽ばたかせて空を飛んでいると、不意に腹の鳴る音が聞こえてくる。
考えてみれば既に午後も半ばを過ぎており、もう少しで夕方になるという時間帯だ。
だが、ミレイヌ達を助ける為にギルムを飛び出てきた為、昼食を食べている時間はなかった。
そう考えれば、レイの腹が空腹を主張してくるというのはおかしな話ではない。
ヴィヘラ達を案内している間に色々と買い食いはしていたのだが、それでもレイやセトの腹を満たすことは出来なかったのだろう。
「グルゥ……」
そんなレイの腹の音を聞き、セトもまた自分が空腹であることを思い出したのか、お腹減ったと鳴く。
後ろを向き、自分の背中に乗っているレイへと円らな瞳で空腹を訴えるセト。
そのような視線を向けられれば、レイもまた何かセトに食べさせてやりたくなる。
レイも空腹だというのが大いに関係していたのだろうが。
「取りあえずギルムでの用事を済ませたらどこかの店で食べるとして……それまでの繋ぎだ。ほら」
ミスティリングから取り出したのはサンドイッチ。
出来れば鍋に入った肉の煮物なり、シチューなりといった料理をセトに食べさせたいし、レイも食べたいといった思いはあった。
だが、そのような料理は基本的に鍋に入れて貰って購入している。
つまり、どうしてもそんな料理を食べたいのであれば、地上に降りて昼食の時間を作るか、下手をすれば鍋ごと地上に料理を零してしまうのを覚悟の上でセトの背の上で鍋を出すしかない。
食べ物を粗末にするのは……それも、レイが認めて纏め買いした料理を台無しにしてまで今食べたいのかと言われれば、答えは否だ。
それにサンドイッチも作りたてのものをミスティリングに保存してあった以上、味が落ちているということはない。
出来たてのサンドイッチは、口の中でパンの柔らかな食感と挟まれている幾つもの具材が合わさって空腹の腹がもっと欲しい、もっと食べたいと要求する。
そのまま食べ続けたいのを我慢し、レイはサンドイッチをセトへも食べさせる。
レイの手に乗ったサンドイッチを器用にクチバシで咥え、そのまま口の中で咀嚼するとセトはその美味さに喉を鳴らす。
「グルルルルゥ!」
レイの腹同様、セトももっともっととサンドイッチを要求する。
そんなセトにサンドイッチを与えながら自分も食べている内に、すぐにギルムが見えてきた。
セトの飛行速度を考えれば当然なのだろうが、セトはレイの合図で翼を羽ばたかせながらギルムの門へと向かって降下していく。
……それでも尚サンドイッチを食べていたのは、セトがセトたる由縁だろう。
門の前には当然のように中に入る手続きをしている者がいる。
夕方近くになっているので、依頼を終えた冒険者の数もそれなりにあった。
そのおかげで、セトが地上へと降りてきても驚くような者は殆ど存在していない。
もっとも……
「レイ君! 降りる時は門から少し離れた場所でってお願いしただろう!?」
騒ぎに気が付いて出て来たランガに注意はされたのだが。
「悪い、ランガ。ちょっと急用があったんだ。……いや、ランガが来てくれたんなら丁度いいのか?」
そう呟いたレイの表情が、決してふざけたものではないと理解したのだろう。
ランガの表情が怒りながらも困っている様子から、疑問へと変わる。
「どうかしたのかい?」
「俺がサイクロプス討伐の援軍に行ったのは知ってると思うけど……」
「ああ、勿論。……もしかしてサイクロプスを逃がしたとか言うのかな?」
ザワリ、と。
ランガが口にした瞬間、周囲でレイとランガのやり取りを眺めていた冒険者達がざわめく。
その表情に浮かんでいるのは、驚愕。
当然だろう。このギルムを拠点としている冒険者で、レイとセトの実力を知らない者は殆どいない。
いるとすれば、ギルムにやって来たばかりでレイの噂は聞いていても実際にその姿を見たことのない者だろう。
……そのような者でも、レイがセトを連れていれば勘違いはまずしない。
「いや、違う。サイクロプスの方はもう片付けた。ただ、別の問題が起きたんだ」
レイの言葉に、ランガが微かに嫌そうな表情を浮かべる。
レイが関わった問題は大抵大事になるというのを、これまでの付き合いで知っている為だ。
その経験があるからこそ、何か厄介な問題が起きたのではないかと思ったのだろう。
ランガの中にある不安は当たっていて、それでいて外れていた。
正確にはそこに問題が……赤いサイクロプスだったり、実はサイクロプスが七匹いて、更にまだ他にもいるかもしれないといった問題があったが、その殆どは既に解決済みだ。
ただ、他にもサイクロプスがいるかもしれないというのは、そのままなのだが。
「その、問題とは?」
「サイクロプスが五匹じゃなくて七匹いて、更に稀少種か上位種と思われる個体がいた」
「っ!?」
何か問題は起きたのだろうと予想してはいても、直接聞くとやはり驚いてしまうのは当然だろう。
サイクロプスはランクCモンスターであり、それが七匹いて、更に希少種か上位種と思われる存在すらいると言われたのだから。
それは周囲でレイとランガの話を聞いていた者達も同様だった。
「ああ、安心してくれ。そのサイクロプスは全部倒したから。ただ、俺達が到着する前に討伐隊の連中がそれぞれ別々に逃げたらしくてな。そいつらがサイクロプスの討伐は自分達の手に負えないって報告をする為に来るかもしれないんだよ」
「ああ、なるほど。それを止めたいと」
「そうなる」
レイの言葉に安堵の息を吐くランガは、少し考えてから口を開く。
「それなら安心してもいい。君達が出て行ってから戻ってきた面子の中に、サイクロプスの討伐に向かった人達はいなかったからね。もしそんなことになっているのなら、戻ってきた時にすぐに分かるだろうし」
その言葉に、レイは安堵の息を吐き……取りあえずギルドの方にも知らせておいた方がいいだろうと判断し、ギルムの中に入る手続きを行うのだった。
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