第960話

 レイ達が泊まる宿の裏側にある庭。

 いや、草木が生え放題になって全く手入れがされていないのを見る限り、庭とは呼べないだろう。

 放置されていた空間と呼ぶべきか。

 それでもまだ春になってそれ程時間が経っていない為か、雑草の類はあまり生えてはいない。

 代わりに雪の重みで折れた木の枝がその辺に転がっていたりするのだが。

 そんな庭とは呼べないような庭で、レイとマギタは向かい合っている。

 少し離れた位置にはヴィヘラとビューネ、それと二人の商人の姿もあった。

 本来であればヴィヘラとビューネはともかく、二人の商人はレイに付き合いたくはなかったのだが、マギタを押しつけられた仕返しにと、レイが自分の実力を見たいと言ったんだからきちんと見て貰おうと告げたことによりこのような展開となっている。


「さて、お前の我が儘でこうやって戦うことになった訳だが……改めて尋ねるが、面倒臭くないか?」

「は? 面倒臭いって何がだよ?」

「いや、俺が勝つに決まっている勝負をわざわざやる必要もないだろうって思ってな」


 真実のみを述べたというレイの言葉に、マギタの額に血管が浮き出る。


「へぇ? 俺が負けるって?」


 一般人が聞けば竦み上がるだろう迫力の声も、ノイズと渡り合ったレイには何ら効果がない。


「ああ。どう戦っても俺が負ける要素は見当たらないな」


 これが挑発する目的で言ってるのならともかく、レイは特にそのつもりなく自然にそう告げている。

 それが分かったのだろう。マギタの額に浮き出ている血管は更にくっきりとその姿を強調していた。


「……分かった。なら俺が負けたらお前の命令を何でも聞く。その代わり、お前が負けたらお前も俺の命令を何でもいいから一つ聞け。いいな?」

「いいのか? まぁ、特に頼みたいことは……いや、食い物を買ってきて貰ったりするのは便利か。そういうことなら俺も戦いをするのを嫌がったりはしないぞ」


 既に自分が勝つという前提で告げるレイに、マギタの怒りは更に増す。

 レイには自分が勝つので、胸を貸す。そんな雰囲気すら漂っている。


「はっ、はは……ここまで馬鹿にされたのは随分と久しぶりだ。いいだろう、お前に吠え面をかかせてやるよぉっ」


 苛立ちの叫びと共に、マギタは地面を蹴って一気にレイとの間合いを詰める。

 その速度は自分の実力に自信を持つだけあって、かなりの速度と言っても良かった。

 狼の獣人だというのも、この速度に影響しているのだろう。ただ……


「遅い」


 これまで幾多の戦いを繰り広げてきたレイの目から見れば、どう見ても遅い速度でしかない。

 炎帝の紅鎧を使う以前の、素の状況でもその動きを見切るのは難しくはなく、自分の顔面へと向かって真っ直ぐに伸びてくる拳を右手であっさりと弾く。

 拳を拳で弾くのではなく、平手で叩いて弾くという行為は周囲に高い音を響かせる。

 肉と肉がぶつかった音とは思えないような、そんな音。

 マギタも回避されるか防がれるかというのは予想していたのだろうが、まさか平手で叩かれて弾かれるというのは予想外だったのだろう。

 予想外なだけに、マギタは拳に感じた痛みに驚いて拳を引く。

 拳を引くという動きに合わせるように、レイは前へと進み出る。


「なっ!?」


 まさか、レイが自分から前に出て――それも自分が拳を引いたタイミングに合わせて――くるとは思っていなかったのだろう、完全に意表を突かれた様子のマギタへと伸ばされた手は、動きやすさを重視して身につけているレザーアーマーの胴体へと吸い付くように触れる。


「はっ!」


 気合いと共に放たれる一撃により、マギタは空中を三m程吹き飛んで近くに生えていた木へと背中をぶつけ、そのまま地面へと崩れ落ちていく。


「……駄目か」


 マギタを吹き飛ばしたにも関わらず、レイの目に浮かんでいるのは嬉しそうな表情ではない。

 いや、寧ろ悔しさすらある。

 自分より大きな相手を吹き飛ばすといった真似をしたのに、何故得意そうな表情ではなく悔しそうな表情なのか。

 商人の二人はそんなレイを不思議そうに見ていたが、その隣にいるヴィヘラは違っていた。


「あら。……まだまだね」

「ん」


 ヴィヘラが面白そうに笑みを浮かべて今の一撃を批評し、ヴィヘラと再会してから何度かそのスキルを見たことのあるビューネも同意するように小さく頷く。

 レイがやったのは、ヴィヘラの持つスキルの浸魔掌を真似したもの。

 だが、レイの放った一撃はとてもではないが浸魔掌と呼べるようなものではなかった。

 本来であれば魔力を利用してレザーアーマーや服、皮膚といったものを無視して体内に直接衝撃を叩き込むというスキルなのだが、今レイがやったのは単純に掌で押して相手を吹き飛ばしたにすぎない。


(いえ、ただ押すだけで自分よりかなり大きな男をああも吹き飛ばすというだけで、十分に凄いとは思うんだけど)


 強引に腕力だけを使ってあれだけの威力を出せるのであれば、浸魔掌を使う意味はないのでは。

 そんな風に思うヴィヘラだったが、次の瞬間には地面に倒れていたマギタが立ち上がったのを見て驚きの表情を浮かべる。


「また……熊や猪の獣人でもないのに、随分と頑丈ね」

「ん」


 同意するように頷くビューネ。

 ビューネの目で見る限り、マギタはどう考えてもレイの敵ではなかった為だ。

 もしレイが本気を出していれば、恐らく一撃で意識を刈り取られていた筈。

 そこにある力の差は圧倒的で、どうやっても覆しようがない。

 そうである以上、例えレイが浸魔掌の失敗作……にもなっていない、純粋なる突き飛ばしであっても、それを食らって起き上がれるとは思えなかった。


「食堂で客の話を聞く限り、サブルスタだけで戦う相手を探していたって話だったから、てっきり少し強いのにのぼせ上がったお馬鹿さんがいるだけだと思ったんだけど……まさか本気ではないにしても、レイの一撃を受けて立ち上がってくるなんてね」


 ヴィヘラはレイと戦って負けている。

 また、去年のベスティア帝国で起きた内戦でも同じ陣営で共に戦い抜いている。

 だからこそ、レイの実力がどれ程のものなのかというのは十分に承知していたのだ。

 それだけに、本気ではないにしろレイの一撃を受けながら立ち上がってくるというのはヴィヘラにとって純粋な驚きだった。

 そして、レイもヴィヘラ同様に驚きの表情を浮かべてマギタに視線を向ける。


「今のは決して軽い一撃って訳じゃなかったと思うんだけどな。それでも立ち上がるとなると、口だけじゃなかった訳か」

「へっ、へへ……俺は負けられない。絶対に負けられないんだよ! 今はこの程度の相手にも勝てないけど、決して負けはしない!」


 この程度の相手と言われたレイは、小さく笑みを浮かべる。

 まさか立ち上がるのもやっとな一撃を受けて、それでも尚自分のことをそんな風に言うとは思っていなかった為だ。


(俺が異名持ちだってのを知らないのは確かだろうけど、それでもこうして立ち上がってくる相手ってのは少し新鮮だな)


 レイが放った一撃は浸魔掌にもなりきれていない……ただ突き飛ばしただけだ。

 それでも突き飛ばされた速度と、木にぶつかった衝撃はかなりのものの筈だった。


「俺に負けない、か。いいだろう。面白い。少しお前に興味が湧いてきた」


 目の前で足を震わせながらも立ち上がっている男にどのような事情があるのかは分からない。

 それでも、レイの興味を引いたのは確実だった。

 それが幸運なのか不運なのかは現時点では不明だが、それでも男にとっては何らかの影響を与えるのは間違いないだろう。


「お前がどこまで持ち堪えるのか……それをもう少し俺に見せてくれ」


 呟きながらマギタの方へと向かって歩き出すレイ。

 その速度はあくまでもゆっくりであり、先程マギタが見せたような踏み込みの速度という訳では決してない。

 それでもマギタは自分に近づいてくるレイを前に、何か行動を起こすことは出来なかった。

 ただ自分に近づいてくる相手を見ていることしか出来ない。

 何か行動を起こそうにも足が震えて動かないというのもあるし、それ以前に近づいてくるレイから感じる得体のしれない何かに気圧されるかのように身動きが出来ない。


(何だ? 俺は一体何で動けない? 何がどうなっている? 動け、ほら、動けよ俺の足。奴は俺の方に近づいてきてるんだぞ! 動けよ、このクソ足がぁっ!)


 内心で動かない自分の足を叱咤するものの、動く様子は全くない。

 動けば死ぬ。そう思っているかのように身動きが出来ないでいた。

 そんなマギタへと近づいてきたレイは、そっと手を伸ばす。


「動けないのか。……どうやらここまで、か」


 マギタの身体に触れても、全く動く様子がないのを見て取ったレイは、見込み違いだったかという思いと共にレザーアーマーに包まれた腹へと触れる。


「眠れ」


 その一言と共に、振るわれる右手。

 だが、今回の一撃は先程と違って突き刺すといったものではない。

 拳を握り、レザーアーマーの上から腹部を殴りつけたのだ。

 放たれた一撃はマギタの内臓を揺らし、容易に地面へと崩れ落ちる。


「げっ、げほっ……」


 そのまま地面へと胃の中のものを吐き出すが、レイは既にマギタからは興味を失っていた。


「強い相手を求めるなら、ギルムに来るんだな。そうすればお前程度を倒せるような者はその辺に幾らでも転がっている。ま、最初の一撃を受けて立ち上がったのに免じて命令云々の話は忘れてやるよ」


 それだけを告げ、未だに吐き続けているマギタをその場に残してヴィヘラ達の方へと近寄って行く。

 その視線が向けられたのは、今回の件を企んだともいえる商人の方。


「俺の実力を見たいって話だったけど、これで満足して貰えたか?」

「……あ、ああ」

「そうか、理解して貰えたようで何よりだ。次からはこういう下らない茶番は出来るだけ避けてくれれば俺も嬉しいな」


 それだけを告げると、レイは二人の商人をその場に残して宿の中へと戻っていく。


「しょうがないわね。……じゃあ、私達も行きましょうか」

「ん」

「……あら? どうしたの?」


 戻ると言ったのに、何故かその場から動かない二人の商人を疑問に思って尋ねるヴィヘラだったが、戻ってきたのは沈黙のみ。

 数秒待つも、動く様子がないのを疑問に思うが、マギタの戦意がへし折れているように見える以上、ここに二人を残していっても特に問題はないだろうと、そして男同士で話したいこともあるのだろうと判断し、ヴィヘラはビューネを連れて宿の中へと戻っていく。

 そしてヴィヘラとビューネの姿が消えてから十数秒が経ち、やがてぶっきらぼうな方の商人が口を開く。


「強かったな」

「実は向こうが弱かったって可能性は?」

「ないだろ。大体、お前にあいつの動きが分かったか?」

「いやいや、僕は商人だから。少し強い人の動きなんて見切れないよ」

「それもそうか。……にしても、深紅か。噂ってのは基本的に広がれば広がる程に大きくなっていくんだけど、あいつの場合は噂そのまま……もしくは噂の方が大人しい感じだな」

「そうだね。でもまぁ、そんな人が僕達の護衛をしてくれるって言うんだし、いいじゃない?」

「……まあ、な」


 言葉を濁すのは、やはりヴィヘラのことが気に掛かっているからだろう。

 人当たりのいい方の商人もヴィヘラに対して好意を抱いていたのだが、こちらはもう完全に割り切ったらしく、特に気にした様子はない。

 少なくても表に出すような真似はしていない。

 お互いに無言で地面に踞っているマギタの方へと視線を向ける。

 吐くものがなくなったのか、ようやく落ち着いてきた様子のマギタへと。


「……行くか」

「ああ、そうだね。食事もまだ終わってないし。明日の朝も早い。しっかりと眠っておくに越したことはないだろうし」


 このままここにいても大丈夫だとは思うが、もしかしたら絡まれるかもしれない。

 マギタと顔を合わせてからの態度を考えると、そんな風に考えてしまっても仕方がないだろう。

 そう判断し、二人の商人はその場を去って行く。

 また、食事の途中だったのも事実であり、空腹を癒やす為にもいつまでもここにいても意味はないという思いが強い。

 食事の続きをするべく去って行く二人だったが、宿へと戻っていく自分達の後ろ姿をマギタがじっと見つめているというのは最後まで気が付くことはなかった。


「そうか……明日の朝か……朝、明日の朝……なるほど」


 マギタの口からこんな言葉が出ているというのも。






『ほう、また随分と偶然に偶然が重なった結果になったものだな』


 宿にあるレイの部屋に、そんな声が響く。

 聞いているだけで嬉しくなるような、澄んだ声音。

 それでいながら、しっかりとした存在感を持ったその声は、だが今日に限っては少し複雑な色を宿していた。

 嬉しさと嫉妬が混ざっているような、そんな声。

 その声の原因が、レイの近くで笑みを浮かべながら口を開く。


「ふふっ、久しぶりねエレーナ。元気そうで何よりだわ。ビューネも心配してたのよ?」

「ん!」


 レイの近くに座っているヴィヘラと、そのヴィヘラの膝の上に座っているビューネ。

 そんな二人、特にビューネとのやり取りが出来たのは嬉しかったのだが、それでもやはりエレーナにとっては自分よりも早くヴィヘラがレイと合流してしまったのは羨ましいという思いが強い。


『ビューネも元気そうで何よりだ。……私も出来れば早いところそちらに向かいたいのだが、色々と立て込んでいることがあってな。少し遅れそうだ』

「そう? まぁ、私としてはレイと過ごす時間が増えるから嬉しいけど……あまり遅いようだと、レイを誘惑するわよ?」


 そう告げ、男であればほぼ確実に見惚れるだろう艶然とした笑みを浮かべるヴィヘラ。

 エレーナはそんなヴィヘラに対して文句を言い、ビューネとの久しぶりの再会に眦を緩めることになる。


『それで、レイだけではなくヴィヘラも聖光教の刺客と思われる者に襲われたと?』

「ええ、もっとも捕り逃がしてしまって正体は分からなかったけど。ただ、このままエグジルに置いておくのは危険だからってことで、私と一緒にギルムに行くことにしたのよ」

『……私の方は襲われてはいないが』

「冒険者や出奔した皇族に比べると、狙いにくいんでしょ」


 聖光教や、この冬に起きたことといったような話をしながら夜が過ぎ……


「師匠! 俺を弟子にしてくれ!」


 翌日の早朝、サブルスタから出発しようとしたレイ達にそんな声が掛けられるのだった。

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