第810話
時は少し戻る。
メルクリオ軍と討伐軍が戦っている、ブリッサ平原。
その中央付近での戦闘は、暫く前……水竜のディグマが倒されてからは物量戦へと持ち込まれており、メルクリオ軍は次第に押し負けそうになっていた。
何とか持ち堪えてはいたものの、それでも時間が経つにつれてメルクリオ軍の不利に戦況は動いていたのだが……そんな中でまず最初に起きた変化は、中央でメルクリオ軍が息を吹き返して討伐軍に逆襲を行ったことだろう。
これまでは自分達の攻撃で押し込んでいただけに、最初は討伐軍側でも何が起きているのかは分からなかった。
だが、間違いなくメルクリオ軍から受ける圧力が変わったのだ。
これまでは強引に攻め寄せて力尽くで敵を押してきたのだが、ふと気が付けば何故か押していた自分達の方が被害が多くなっているという、そんな現状。
「くそっ、一体何が起きたんだ!? さっきまでこっちが圧倒的にって訳じゃなくても有利だったじゃないか!」
前線で長剣を振るって敵と戦っていた兵士の一人が、苛立たしげに叫ぶ。
その言葉通り、つい先程までは自分達が圧倒的な物量にものを言わせて攻めていた筈なのに、何故かいつの間にか自分達が攻められる側へと移っていた。
そんな怒りの籠もった兵士の叫びだったが、それに対する答えが耳に入ってくる。
「数の差に任せて戦闘の流れをきちんと読まなかったからでしょう? もっとも、この戦闘の成り行きを考えればしょうがないのかもしれないけど」
「……え?」
耳に響いたのは、思わず目を……ではなく、耳を奪われてしまうかのような美しい声。
その声の聞こえてきた方へと視線を向けると、そこにいたのは向こう側が透けて見えるような薄衣を身につけた、戦場であるにも関わらず……いや、戦場にいるからこそと言うべきか、目を奪われるような美貌と息を呑むような身体をこれでもかと見せつけているような服装をした、一人の女だった。
その人物が誰なのかというのは、ベスティア帝国の人物である以上その兵士も知っていた。
「ヴィヘ……」
視線の先にいる人物の名前を口に出そうとした瞬間、何故か少し離れた場所にいた筈のその人物が自分のすぐ側、それこそ手を伸ばせば触れられる場所にいたのに気が付き、甘い体臭に思わず息を呑み……その人物の手が自分の鎧へと触れたと思われた次の瞬間には、意識を失って地面へと崩れ落ちる。
「戦況の変化は、人に聞くんじゃなくて自分で感じ取るのね」
意識を失って地面へと倒れている兵士を一瞥し、呟くヴィヘラ。
だが、今は既に戦闘力を失っている敵にこれ以上構っている余裕はないとして、すぐに口を開く。
「私が敵軍を斬り裂いていくから、皆は私の後ろについてきなさい。槍の穂先となって敵陣を貫くわ」
『おおおおおおおおおおおおおおおっ!』
ヴィヘラの言葉に、周囲のメルクリオ軍の兵士達が喚声を上げる。
叫んでいる者の中には、つい少し前まで白薔薇騎士団とシュルス直属の騎馬隊で行われていた戦場に姿を現して好き放題に暴れていたグルガスト達の姿もあったのだが、ヴィヘラは特に気にした様子もない。
元々第2皇女派という扱いだった頃から、グルガストは好き放題に暴れていたのだ。
そんなグルガストだけに、細かく指示を出すのではなく、大まかな方針だけを伝えた後は好きに動いて貰った方が結果的には大きな戦果を得ることが出来るとヴィヘラは知っている。
また、グルガストと共に行動をしているティユールにいたっては、ヴィヘラを崇拝すらしている人物だ。
ヴィヘラが兵士達を率いて敵陣に突撃するというのをどこからか察知して駆け付けてきても、それは寧ろ当然でもあった。
「さぁ、行くわよ!」
その言葉と共に、兵士達を率いたヴィヘラが前へと進む。
馬に乗っているだけに、討伐軍の前線が見る間に近づいてくる。
そんなヴィヘラの後を追うようにして続く兵士達。
現在前線で討伐軍の兵士と戦っていたメルクリオ軍の兵士達は、自分達の後ろから戦女神とでも呼ぶべき存在が駆けてくるのに気が付くと、自らの士気を高める為、そして敵の士気を挫くために大きく叫ぶ。
「ヴィヘラ様だ、ヴィヘラ様が来たぞぉっ! これで勝てる、間違いなく俺達の勝ちだぁっ!」
その叫びにメルクリオ軍の兵士は喜び、討伐軍の兵士は絶望を覚える。
そんな叫びを聞きながら、ヴィヘラは討伐軍へと向かって突っ込んで行く。
「はぁっ!」
馬から転げ落ちるようにして地上へと着地し、その勢いのままに討伐軍の兵士の鎧へと掌を触れる。
その一瞬で体内へと魔力を叩き込まれ、意識を失う兵士。
浸魔掌という技は触れるだけで効果を及ぼすため、多数を相手にするのには便利だった。
一人、二人、三人、四人……触れるや否や、地面に崩れ落ちる討伐軍の兵士。
当たるを……いや、触れるを幸いと敵兵士を倒していくヴィヘラは、次々と討伐軍の兵士を倒しながら敵陣の中へと向かって突き進む。
ヴィヘラの背後を守るように他の兵士達が動き、ふと気が付けば討伐軍の陣形を穿つ一本の槍の如く奥まで突き進んでいた。
「防げ、防げ、防げぇっ! これ以上中に突っ込まれるな!」
驚異的な突破力に兵士達の隊長が叫ぶが、それで急に実力が上がる訳でもない。
寧ろ、メルクリオ軍の先頭になって討伐軍の陣形を突き破っているのがヴィヘラだけに、討伐軍側の兵士でも尊敬している者がおり、どうしても戦意が掻き立てられない者すら存在している。
……逆に、ヴィヘラを倒してその身を自分の物にしようと考えて戦意を掻き立てるような者もいるのだが。
もっとも、そんな者達は軒並みヴィヘラの手によって重傷を負うなり、運の悪い者は命すら奪われる。
更に……討伐軍の不運は続く。
「後ろ、後ろだああああああああっ!」
戦場となっている場所に響いたその声は、命の危険を感じる程に切羽詰まっていた。
それこそ、討伐軍だけではなくメルクリオ軍の兵士までもが視線を向けてしまう程に。
「何だ、何があった!」
必死に陣地を貫通しようと攻め込んでくるヴィヘラ達に対処していた隊長は、苛立たしげに叫ぶ。
ただでさえ今の自分達は目の前にいる相手をどうにかするので手一杯であるというのに、その上更に何かあったのかと。
だが……背後を見たその隊長は、思わず動きを止める。
ぶわり、と。何か熱波のようなものが襲い掛かってきたように思えたからだ。
事実、耳を澄ませば戦場となっている前方だけではなく、背後からも大きな悲鳴が聞こえてくる。
そして何より、後陣の上空で地上へと向かってファイアブレスを吐いているのはグリフォンではないか、と。
少し前にはセトが後陣の上空を飛んでいったのを見た者が声を上げていたのだが、ヴィヘラへの対処に集中しており、隊長はそれに気が付くことはなかった。
元々レイとセトがノイズと戦っていたのも後陣であり、その後陣を移動していたのだから気が付かなかったのも無理はないのだが。
だが今は、その後陣が問題だった。
上空を飛んでいるグリフォン。
隊長が先程感じた熱波のようなものは、もしかしたらそのグリフォンが原因ではないかとも一瞬考えたのだが、すぐにそれは違うと本能的に悟る。
この隊長にしても、幾多もの戦場を乗り越えてきただけに直感は優れていたのだろう。
だからこそ……本来であれば知らない方が幸せだったことを、理解してしまう。
(グリフォンを従魔にしているのは、深紅。つまり……この感覚は深紅によるものか?)
隊長の疑問に答えるかのように、視線の先……後陣では何人もの人が空中に吹き飛ばされているのが分かる。
その光景を、隊長は見たことがあった。
当時は反乱軍と名乗っていたメルクリオ軍の陣地を攻略しようと、討伐軍側でも幾重にも策を重ねて行われた作戦。
その作戦は概ねが成功し、当初予想した通りに進んでいたのだが、最後の最後でいきなり乱入してきて戦場を目茶苦茶にした存在。
その時にもこれと同じ光景を目にしていたのだ。
だからこそ、隊長はその名前を口にする。
「深紅」
苦々しげな感情が、これでもかと込められたその言葉は、聞く者がいればどれだけの憎悪が込められているのかを理解出来ただろう。
だが、隊長の周辺では前からヴィヘラが率いる部隊、後ろからは深紅が単独で暴れ回っており、更には上空ではグリフォンがファイアブレスを吐き、それ以外にも氷の矢を飛ばしたり、水の塊を飛ばしたりと、好き放題に攻撃をしている。
とてもではないが、隊長の憎悪が籠もった言葉を聞いていられるような状況でない。
(何故だ、つい先程までは上手くいっていた。水竜のディグマは倒されたが、それでも兵士の数で相手を押し切る方法でメルクリオ軍を追い詰めていた筈だ。それが、何故)
少し前までは自分達が有利だった戦場は、瞬く間にその形勢を引っ繰り返された。
それは、隊長にとっては絶対に許せることではなく……
「隊長っ!」
すぐ近くで部下の声が聞こえ、頭に血が上っていた隊長は反射的にうるさいと怒鳴りつけようとし……
「戦場で考えごとなんて、随分と悠長ね」
すぐ近くでそんな声が聞こえてきた瞬間、そのまま意識を失うのだった。
「全く、幾ら何でも戦場で気を抜きすぎじゃないかしら。ベスティア帝国の兵士も、質が下がったものね」
呟くヴィヘラの視線の先には、地面に崩れ落ちている三十代程の男。
自分がすぐ近くまで近づいてきているというのに、全く気が付いた様子もなく考え込んでいた人物だ。
「……まぁ、無理もないけど」
チラリ、と視線を討伐軍の後陣、その上空へと向ける。
そこでは、セトが上空からファイアブレスを吐き、思う存分討伐軍を蹂躙しているところだった。
「セトがあそこにいるということは、あっちの騒ぎは間違いなくレイでしょうし。全く、随分とこっちを焦らせてくれるわ。恋愛だけじゃなくて、戦いでも焦らし上手とか。エレーナも苦労するでしょうね。……私が言えたことじゃないでしょうけど」
「はい? 何か仰いましたか?」
喋っている途中で追いついてきたティユールの言葉に、ヴィヘラは何でもないと首を振って、視線を空へと向ける。
その視線を追ってセトの姿を見たティユールは、小さく笑みを浮かべて口を開く。
「カバジード殿下とシュルス殿下を相手にしている以上、最後まで油断は出来ませんが……どうやらこの戦い、勝敗が決まりましたね」
「ええ。このまま、特に何もなければ確かにこちらの勝ちは決まったでしょうけど……」
呟くヴィヘラの顔には、どこか憂いの色がある。
ヴィヘラの知っているカバジードという人物は、何を考えているのかよく分からないところがあり、自分が追い詰められたこの場で何をしでかすかというのが全く予想出来なかった為だ。
聡明な兄であり、もし皇帝になればきちんとベスティア帝国を治めるだけの実力があるのは間違いない。
第1皇子としての教育を受けてきているし、これまでにも実績を上げてきているのは事実なのだから。
だが……それでも、ヴィヘラはカバジードに対して得体の知れなさ……もっと言えば、どこか仮面を被っているかのような印象すら受けていた。
だからこそ、メルクリオを軟禁されて命を狙われているとテオレームから聞いた時、それを行った人員の中にカバジードがいるというのを知った以上は放って置く訳にはいかなかった。
「それにしても、彼は随分と出番が遅かったですね」
ヴィヘラが少し沈んだ気分になったのを理解したのだろう。弓を引き絞って矢を射ながらも、ティユールは話題を逸らす。
そんな心遣いを理解したのか、ヴィヘラも自分に向かって槍を突き立てんと突っ込んできた攻撃を半身になって回避し、手甲の爪が槍の穂先を切断する。
そのまま懐に飛び込み、浸魔掌で意識を奪いながらティユールに向かって笑みを浮かべる。
「しょうがないわよ。レイがここまで遅れたということは、相応に強力な敵と戦っていたのは間違いないでしょうし」
「相応に強力な敵、ですか?」
「ええ」
敢えてディグマから聞いたノイズの名前を出さずに告げるヴィヘラに、ティユールは訝しげに首を傾げる。
この戦いで、レイと互角に戦えるような存在がいたのかと。
だが、ヴィヘラに視線を向けても、本人はそれに答えるつもりはないらしく、薄らと笑みを浮かべながら敵陣へと視線を向けていた。
そうして、ヴィヘラが討伐軍のほうへと視線を向けていると、不意に周囲の気温が急激に上がっているのに気が付く。
同時に、悲鳴が敵の奥からも徐々に聞こえ……やがて、敵を割るようにして、深紅の魔力を身に纏ったレイが姿を現す。
レイもここでヴィヘラに遭遇するのは予想外だったのか、驚きの表情を浮かべ……
「待たせたか?」
そう告げたのだった。
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