第745話

「グルルルルルルルゥッ!」


 森の中に響くセトの雄叫び。

 帝都からある程度距離がある為にそちらまでセトの声が聞こえる心配はないが、森の中に冒険者がいれば話は別だろう。

 セト本人は全く気にしていないようだが、セトの雄叫びを聞いた冒険者はそれなりに存在した。

 この森は帝都からそれ程遠くない――それでも徒歩半日程度――の場所にある森であり、帝都の側にある森ということでそれ程強いモンスターは暮らしていない。

 その代わりに薬草の類がそれなりに多く生えているということもあり、帝都で冒険者になったばかりの者はこの森で薬草を集め、モンスターではなく野生の動物を倒して肉や毛皮を売って稼ぐというのが一般的だった。

 そんな森だけに、セトの鳴き声を聞いてもモンスターではなくどこかの野生動物が吠えていると認識されたのは、セトにとって幸運だったのだろう。

 もっとも、セト本人はレイと別れてから数時間。空腹を満たす為に森の中にいる動物を仕留めるのに集中していて全く気にしていなかったのだが。


「グルルルルゥ」


 パワークラッシュを使った前足の一振りで頭部が吹き飛んだ熊の死体を前に、セトは満足そうに喉を鳴らす。


「……グルゥ?」


 だが、すぐに何かに気が付いたかのように首を傾げ……自分では毛皮を剥ぐという行為が出来ないことに気が付き、残念そうに俯く。

 レイと共にこの手の狩りをしている時は、獲物を倒せばレイが剥ぎ取りをしてくれる。

 そうすれば肉から毛皮の類を剥ぐのもレイがやってくれる為、セトとしては肉を食べる時に毛皮が邪魔をするようなことはない。

 普通の動物に比べると、肉を食べるときに毛皮が邪魔になるというのは贅沢でしかないのだろう。

 だが今のセトはその贅沢に慣れてしまっている為に、出来れば誰か毛皮を剥いでくれる相手が欲しかった。


「……グルゥ? グルルルゥ」


 だが幾ら帝都の近くにある森であっても、セトが現在いるのはそれなりに奥深い場所だ。

 そうなれば当然初心者が多く入ってくる場所だけに、ここまで来る者も少ない。


「グルルルルゥ……」


 そのことに気が付いたのだろう。セトは残念そうに喉を鳴らし、視線を熊の死体へと向ける。

 もっとも、ここに冒険者がやってきたとしてもセトの思うようにはならなかった筈だ。冒険者になったばかりの者達がグリフォンを間近で見れば、当然パニックに陥るだろう。

 下手をすれば、そのパニックのせいでセトに攻撃してくる者がいたとしてもおかしくはない。


「グルルルゥッ!」


 結局は前足の爪を使って熊の毛皮を剥ぎ、クチバシで肉を啄んでいく。

 野生の獣の中では強力な熊であっても、ランクAモンスターのグリフォンにしてみればちょっとしたおやつでしかない。

 これがある程度ランクの高いモンスターであれば、魔力の存在で肉自体の旨味が増すのだが……


「グルルゥ」


 熊の右腕の肉を食べながら、残念そうに鳴くセト。

 もっとも、この森にいるモンスターは低ランクモンスター程度だ。純粋に肉の味では今セトが食べている熊の方が圧倒的に上だろう。

 熊の肉を食べつつ、塩や胡椒といった味がないことに若干の不満を覚えるのは、やはりレイと共に街中で暮らし続けてきた弊害だった。


「グルゥ?」


 それでも食べないよりはいいということで熊肉を食べていたセトだったが、不意に何かに気が付いたかのように周囲を見回す。

 それなりに遠くからだが、人の声が聞こえてきたのだ。

 熊肉の方へと残念そうな視線を向けたセトだったが、それでもこのまま見つかると面倒なことになると理解したのだろう。聞こえてくる声の方へと耳を澄ます。


「ねぇ、本当に行くの? あんな鳴き声の獣、聞いたことがないわよ?」

「大丈夫だって。この森は俺達みたいな初心者が来るような場所だぜ? そんな場所にいるような獣なんか、どうってことないだろ」

「モンスターだったらどうするのよ?」

「それこそ有り得ないさ。ここは帝都のすぐ近くだぞ? もしランクCくらいのモンスターがいるんなら、今頃帝都から騎士団や軍が派遣されてるだろ」

「この森に来たばかりのモンスターだったらどうするの?」

「全く、ニーナは心配性だな。そんなことある訳ないだろ?」


 そんなことあるんですけど。

 もしもセトが言葉を発することが出来れば、恐らくそう呟いただろう。

 近づいて来るのがモンスターであれば、対処するのも難しい話ではなかった。

 だが、人間……それも別に自分に敵対しているだろう相手ではないとなれば、セトにしても襲うつもりにはなれない。

 それにレイと離れているのがどれくらいの長期間になるのかはまだ不明だが、ある程度の日数が必要になるかもしれない以上、出来ればまだ騒がれたくはなかった。


「グルゥ……グルルルルゥ……」


 クチバシと前足の鉤爪で乱暴に毛皮を剥いだ熊の死体。

 まだ肉は殆ど食べておらず、このまま置いて行くのは勿体ない。

 だが……


「グルルルゥ」


 短く喉を鳴らし、結局その場を後にする。

 熊の死体を持って行けば良かったのだろうが、そんなことをすれば当然目立つ。

 幸い、我慢できない程に空腹だった訳ではないし、セトであれば再び狩りの獲物を見つけるのはそう難しい話ではないのだから。

 それを理解していても、立ち去る瞬間に一瞬熊の死体へと視線を向けてしまうのは、やはりセトが食い意地が張っている証拠なのだろう。


「グルゥ」


 若干残念そうに鳴きながらその場を後にすると……


「おわぁっ! 何だこの熊の死体! 何だってこんなになってるんだよ!」

「ほら、だから言ったじゃない! この熊を殺せるような存在がこの近くにいるかもしれないのよ! さっさと森から出た方がいいわ!」

「お、おい、引っ張るなって。分かった、分かったから! ちょっとだけ待て!」

「何でよ! 危険なんだからすぐに……」

「見ろ。ここにあるのは死体だけで、これをやった奴はもういない」

「けど、戻ってきたら……」

「大丈夫大丈夫。いざとなったら俺が守ってやるって。それに、折角なんだからこの熊の死体から売れる場所を採っていこうぜ」

「……本気!?」


 背後から聞こえてくる声を聞きつつ、セトは次の獲物を求めて森の奥の方へと進んでいく。

 その際、自慢の翼で飛ぶのではなく地面を走っているのは、飛んでいるところを見つけられればグリフォンである自分がここにいるというのを知られてしまう為だ。

 レイに早く会いたいと考えつつも、セトがその希望を叶えられるのはもう暫く先になるのだった。






「ふっ!」


 鋭い呼気と共に振るわれたデスサイズは秋の早朝の爽やかな空気を斬り裂くかのような速度で振るわれる。

 もしも今のレイの動きを見ていた者がいたとすれば、振るわれる刃の速度に死を連想し、同時に動きが止まらない演舞の如き動きに見惚れるだろう。

 帝都へとやってきて、二日目。やるべきことはなく、いつもであれば暇な時に遊ぶセトの姿もない。

 だからこそ昨夜は早く寝て、早朝にはもう目を覚ましてしまう。

 それでいて朝食もまだ届かずにいる為、朝の運動とばかりにデスサイズを使った訓練に励んでいた。

 庭師を含めて自分に観察するような視線を向けてくる者がいるのは理解していたが、それでもレイは視線を気にせず伸び伸びと訓練を行う。

 自分の戦闘力を見たいのなら見ればいい。ちょっと見た程度でどうにかなる程に簡単なものではないのだから、と。


「はぁっ!」


 デスサイズの石突きが地面を這うかのような勢いで振るわれ、ピタリと止まる。

 次の瞬間には石突きが地面へと突き刺さり、その反動を利用してデスサイズの巨大な刃の切っ先が空中を……人がいれば首があるだろう部分を貫く。

 一mを超える長さを持つ刃の切っ先が首に突き刺さるのだ。普通であれば……いや、普通ではなくても致命傷だろう。

 デスサイズに魔力を流していれば、その殺傷能力は更に上がる。


「しっ!」


 刃の切っ先が相手に突き刺さった状態から、一気にデスサイズを横薙ぎに振るう。

 もしデスサイズの刃の切っ先が突き刺さった状態のままでそんなことをされれば、間違いなく首や頭部。胴体であっても切断されるだろう一撃。

 そんな行為を幾度となく、それこそ幾つものパターンを繰り返す。

 演舞ならぬ演武。舞は武に通ず。

 レイが今行っている動きを見た者であれば、自然とそんな思いが脳裏を過ぎるだろう。

 事実、周囲でレイを監視し、護衛している庭師達は、その殆どがレイの動きに見惚れていた。

 そして……レイの動きが一旦止まったのを見計らったようにパチパチパチ、という拍手の音が庭に響く。


「いや、凄い動きだった。以前に戦って貰った時の動きも凄いと思ったけど、今日の動きはまた一段と凄い。今のがレイ殿の本気、ということか?」


 拍手を止め、手を叩くのに邪魔な為に地面へ置いてあったバスケットに手を伸ばしながら告げるウィデーレ。


「そこまで大層なものじゃないさ。単純に朝の運動みたいなものだし」

「……それを朝の運動と言われると、私達としては色々と思うところがあるのだが……」


 先程の、流れるような連続攻撃の動き。自分もそれなりに腕には自信があるが、同じ真似をしろと言われて出来るかと言われれば、答えは否だった。

 いや、全く同じ動きを真似しろと言われれば不可能ではないが、それはただの物真似でしかない。

 決まった型のない、自由な動き。それこそがレイの動きの根本にあるものだ。

 もっとも、長さ二mというデスサイズを振り回すのだ。自然と振るう型のようなものは出来るのだが。


「それで用件は? まぁ、どのみち暇していたんだし、話し相手になってくれるというのでもありがたいけど」


 あれだけ動き回っておきながら、汗すら掻かずにデスサイズをミスティリングへと収納し、ウィデーレに尋ねる。

 だが、ウィデーレは持っていたバスケットをレイの方へと手渡すと、首を横に振る。


「いや、私は朝食を届けに来ただけだ。もしかしたらまだ眠ってるのかと思ったら、随分と早いな」

「こんな場所だし、やることもないからな。昨日はゆっくり眠らせて貰ったよ」

「こんな場所って……一応、ここはフリツィオーネ殿下の隠れ家的な場所なのだが」 


 レイの言葉に思わず溜息を吐くウィデーレ。


「まさか街中に出て行ったり、ましてや城の中を歩き回る訳にもいかないだろ? 酒とかを飲めれば良かったんだろうが、あんなののどこが美味いのか理解出来ないし」


 バスケットを受け取り、中に焼きたての黒パンと鶏肉を味付けして焼いた料理を始めとして何種類かの料理が小分けにされて入っているのを見て、レイは笑みを浮かべる。


「酒が苦手なのか、珍しい。一応薄めたワインとかであれば子供の頃から飲むのは珍しくないのだが、レイは違ったのか?」

「……ああ。俺は魔法の師匠に子供の頃から山奥で育てられたから、その辺の事情には疎いんだ」


 久しぶりに思い出した設定を口にし、誤魔化すレイ。

 幸いウィデーレにはその辺を気が付かれなかったらしく、なるほどと頷かれるだけで済ませられる。

 レイは何とか誤魔化せたと思いつつ、バスケットの中にある黒パンへと手を伸ばす。

 ドッシリとした重みを感じるのは、イメージ的なものかもしれないが黒パン特有のものだろう。


「食事をするのであれば、汗を……」


 黒パンを手に取ったレイを見てウィデーレがそう告げるが、その時になって初めてレイの顔に汗の一滴すら浮いていないのに気が付き、言葉を止める。

 自分が見ている間も激しく動いていたのだ。当然自分がここに来る前から動いていたのを考えると、相当な運動量になるだろう。

 なのに、全く疲れた様子がないということに、改めてウィデーレは目の前にいる人物が色々な意味で規格外の人物なのを理解する。


(もっとも……グリフォンのセトを従魔にしている時点で普通とは違うのは明らかだろうけど)


 内心の思いに、自分自身で納得してしまう。


「うん? どうしたんだ?」


 地面に座り、早速とばかりに黒パンを千切っては口に運んでいたレイが、ウィデーレの様子に首を傾げて尋ねる。


「いや、何でもない。それよりも昼食は何か食べたいものがあるか? ここに閉じ込める……というのはちょっと言い方が合わないかもしれないが、ここにいて貰うんだ。出来るだけ要望を聞くようにとフリツィオーネ殿下から言われている」

「……なるほど。じゃあ次から料理はもっと多目に頼む」

「それよりも、か?」


 ウィデーレが持ってきたバスケットはそれなりに大きく、普通の人であれば三人分くらいの料理の量はある。

 帝都へとやって来る時にもよく食べているというのは理解していたが、今はそれ以上に食べているように思えた。


「ここにいると食べるくらいしか楽しみがないしな。幸い俺の身体は食べても太るってことがないし」

「……その言葉、くれぐれもアンジェラ隊長の前では言わないように」


 真面目な表情で忠告されたレイは、思わず頷くのだった。

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