第724話

 その日、シュルスは身代金の交渉をしている貴族達との会議を終え、他にも皇子としてやるべきことを全て終えて横になったのは、この世界の者はほぼ全てが眠りについている真夜中……いや、既に東の空が明るくなってきているのを考えると、早朝と表現してもいいような時間だった。

 皇族と言えば当然羨ましがられることが多いのだが、この面倒な仕事を毎日やらなければならないと知っているのか? 自分は副官のアマーレがいるから何とか回しているが……そんな風に考えつつ、襲ってきた睡魔に気持ちよく身を委ねかけたところで……

 ドンドンドン、と絶え間なく扉を叩く音が寝室の中に響き渡り、今にも眠りに落ちそうになっていたシュルスの意識を急速に引き戻す。


「何だ!」


 眠りを邪魔されたのだ。シュルスの口から発した声が不機嫌になったのはしょうがないだろう。

 普通の者であれば萎縮せざるを得ない不機嫌な声も、幼い頃から共に過ごしてきた人物にとっては萎縮するようなものではない。


「シュルス殿下、討伐軍に同行させていた騎兵隊が帰還してきました。至急殿下に報告をと」

「……何?」


 扉の向こうから聞こえてきたアマーレの声に、一瞬シュルスは自分がまだ眠っていて、これは夢なのではないかと疑う。

 何故なら、討伐軍が出発したのは今日――既に日が変わっているので、正確には昨日――なのだから。

 だというのに、何故もう戻ってきている? そう思ったシュルスの疑問は当然と言えた。


「詳しい話はまだ聞いていませんが、討伐軍は壊滅したそうです」

「……何?」


 再びシュルスの口から出る声は、今度こそこの報告をしてきたアマーレがどこかおかしくなったのではないかと考える。

 確かにここ暫くは、前回の討伐軍敗北の影響……より正確には身代金の交渉に関して話し合いをすることになっており、忙しかったのは事実だ。

 シュルスがそんなことを考えていると、それを見抜いたかのように扉の向こうから再び声が聞こえてくる。


「シュルス殿下、私は別にどうにもなっていません。討伐軍は野営をしているところを反乱軍の夜襲を受け、文字通りの意味で壊滅状態になったのです」


 見抜いたかのようにではなく、実際に見抜いているのだろう。

 シュルスがアマーレと共に生まれ育ってきたということは、アマーレもまたシュルスと共に生まれ育ってきたのだから。

 だからこそ、シュルスはアマーレが寝ぼけていたり冗談を言ったりしている訳ではなく、本気で討伐軍が壊滅しているのだと言っていることを理解する。

 そこまで聞けば、シュルスの脳も頭の中に残っていた眠気を強制的に排除して思考を通常状態に戻す。

 慌ててベッドの上から起き上がり、扉を開ける。

 その服装は寝間着なのだが、シュルスにとって今重要なのはそこではない。今夜夜襲されたというのが重要なのだ。


「つまり、それは……反乱軍の奴等が全軍を挙げて帝都に進軍しているってことか!」


 叫びながら扉を開けると、そこにはまだ朝日が昇りきっている訳でもないのに、一分の隙もなく服を着こなしているアマーレの姿があった。

 そんなアマーレの姿に、シュルスは一瞬いつ寝てるんだと疑問に思ったものの、今はそれを追求しているような暇はない。

 アマーレにしても、寝室から出てきたシュルスの姿は寝間着であったのだが、気にした様子はなく口を開く。


「いえ、討伐軍に派遣した騎兵隊からの報告によれば、夜襲を掛けてきたのは一人のみ」

「……何?」


 正気かお前。思わずそう尋ねそうになったシュルスだったが、目の前にいる女がそんな血迷った真似をするような女ではないことは、シュルスが一番よく知っていた。

 だからこそ、言葉には出さずに視線で話の先を促す。


「襲撃して来たのは、深紅のレイ。その襲撃方法は春の戦争で行われたように炎の竜巻を使ったものです。ただし、前とは違って今度の炎の竜巻は好き勝手に動いたとか。それも、討伐軍が築いた陣地から外には出なかったことを考えると、動きも完全に制御されていたものだと思います」

「ちっ、よくよく祟る男だな」


 レイが反乱軍へと協力しているかもしれないという情報は、既に宰相から聞かされて知っていた。

 元々前回シュルスが派遣した討伐軍にしても、レイが反乱軍に与しているのかどうかを見極めるという目的もあったのだから。


「俺達の時に出てこないで、今回は出てきた。さて、その理由はなんだ? やっぱり前回の戦いの時はまだ反乱軍に合流していなかったのか? だとすれば、カバジード兄上は不運としか言いようがないな」


 今回の討伐軍の派遣は、向こうに広域殲滅戦を得意とするレイがいないと判明したからこそ派遣されたという一面もあった筈だ。

 それだけ一軍を相手に出来る戦闘力を持ち、更にはグリフォンを従魔にしている影響で高い機動力を持っている深紅という人物は厄介だった。

 だというのに、この結果……何でも完璧にこなすカバジードにしては珍しい程の失態と言えるだろう。

 そんな兄の失態に、思わず笑みを浮かべる。あの完璧と言える兄でも見通せないことがあるのか、と。


「そうですね。カバジード殿下の懐刀とも言われていたソブル殿が撤退途中に殺された……あるいは捕虜になったという情報があります」

「……その情報の精度は?」


 数秒前に浮かべていた笑みを消し、真面目な表情で問い掛けるシュルスに、アマーレは即座に答える。


「こちらから派遣した騎馬隊からの報告なので、間違いはないでしょう」

「そうか。兄上にとっては討伐軍を失ったことよりも痛い結果となったな。それでこっちの被害は?」

「派遣された騎兵隊は全員が無事帰還。多少の火傷や軽い裂傷、打撲を負った者はいますが、軽傷の範囲です。数日休めば、すぐにでも復帰出来るかと」

「そうか、それは何よりだ。ゆっくりと休んで疲れを癒やすように言っておいてくれ」

「はい」


 短く言葉を交わすと、シュルスは一旦アマーレをその場に待たせて寝室へと戻り、着替えをする。

 軍人でもあるシュルスは、一般的な皇族のようにメイドの手を借りなければ着替えられないなどということはない。

 メイドが用意してあった服に素早く着替え、そのまま寝室を出てアマーレと合流し、執務室へと向かう。

 その途中でもシュルスは一言も発さず、何かを考えながら廊下を進む。

 アマーレも、自分の主君であるシュルスが今の様な態度をしている時は何かを考えているのだと理解している為に、邪魔にならないよう後を追う。

 そのまま歩き続けて執務室へと辿り着き、シュルスは執務机……ではなく、部屋に置かれている来客用のソファへと座る。

 それを見たアマーレは、慣れた様子で部屋にある道具を使って紅茶を淹れていく。

 執務室の中に紅茶の匂いが広がり、カップに入れられた紅茶がシュルスの座っているソファの近くにあるテーブルへと置かれた頃、シュルスはカップへと手を伸ばしながら口を開く。


「アマーレ、恐らくだが……今回の夜襲に参加した人数はそう多くない。深紅を入れても七十……いや、もしかすれば五十を切っているかもな」

「……本当ですか? 討伐軍は六千人もいたのですよ? それを相手に、百人にも満たない人数で挑むなど正気とは思えません」


 シュルスの向かいのソファへと腰を掛け、自分の分の紅茶に伸ばしかけていたアマーレの手の動きが止まり、思わず問い返す。

 六千対七十、あるいは五十。普通に考えれば自殺行為にしか思えない。

 だが、シュルスは何らかの確信があるかのようにアマーレの言葉に首を横に振る。


「夜襲で必要なのは、人数よりも練度。量よりも質だ。勿論どっちも揃っているのに越したことはないが、どちらかしか揃えられないのだとすれば、質の方が重要になる」

「お話は分かります。ですが、百人に満たない数で夜襲を仕掛けるというのは……」

「忘れるな。敵の中で実質的に攻撃を行ったのは深紅一人だけだ。他の者達は外で陣地から焼け出された者を仕留めていただけ。……それに、夜襲が行われたのは帝都から一日……それも、軍隊のゆっくりとした行軍速度で一日の場所だ。そんな場所まで数百人、千人を超えるだけの人数が移動していれば、発見出来ない方がおかしい。こちらの探索の目を掻い潜るのであれば、どうしても少人数にならざるを得ない」


 特に自分達に見つからないように帝都の近くまで来るというのは、大人数では不可能だろう。

 シュルスの説明には、アマーレにしても納得せざるを得なかった。


「これから、事態はどう進むと思われますか?」

「俺、カバジード兄上という順番でここまで来たんだ。無難に考えればフリツィオーネ姉上が討伐軍を出すだろうが……さて、どうだろうな。元々フリツィオーネ姉上が抱えている戦力は少ないし、何よりフリツィオーネ姉上自身が戦いを望まない性格をしている」

「確かに」


 シュルスと共に育ってきたアマーレだけに、当然シュルスの姉でもあるフリツィオーネと接したことは多い。

 その時の経験から考えると、この状況でフリツィオーネが討伐軍を編成するかと言われれば、首を傾げざるを得ない。

 何より、使えない者達を処分するためにシュルスが派遣した討伐軍はともかく、カバジードが本気で送り出した討伐軍までもが為す術もなく壊滅したのだ。

 勿論このような奇策がそう何度も通用する筈もない。今回のような夜襲を仕掛けてくると知れば、何らかの対抗策を用意するのも難しくはないだろう。だが……今回の夜襲はともかく、既に反乱軍に深紅がいるというのが判明した以上、次の戦いからは当然反乱軍の他に深紅をも相手にしなければならない。

 それは、実質的に二つの軍を同時に相手にしなければならないのと同じということだ。

 ただでさえカバジードやシュルスよりも抱え込んでいる戦力の少ないフリツィオーネに、そんな反乱軍を相手に戦えるとは思わなかった。


「俺は身代金の交渉、カバジード兄上は戦力の立て直し、フリツィオーネ姉上は戦力不足。……これは暫くの間停滞状態になるか?」

「順当に考えればそうなるかと」

「……だが、今ここで時間を空ければ、それだけメルクリオにとって有利になる。何か手を打った方がいいのは事実だが……」


 紅茶を飲みながら、シュルスは再び考えに熱中するのだった。






 シュルスが連絡を受けているのと同じ頃、当然カバジードもまたブラッタからの報告を受けていた。

 シュルスは朝方ということもあって寝ようとしていたところだったが、カバジードはこの時間でもまだ執務室で書類を読み、そこにサインをしていた。そこにブラッタが戦場から戻って真っ直ぐにやって来たのだ。


「……なるほど」


 穏やかな顔立ちをしており、見るからに優しそうに見える貴公子。それがカバジードを見た者が感じる印象だろう。

 確かにそれは事実だが、内面と外見は比例していないというのをこれ程現している者も珍しい。カバジードと親しく付き合ったものは、怜悧な……冷酷とすら言ってもいいカバジードの性格を知ると、そう思う者が多い。

 ブラッタからの報告を聞き、カバジードは小さく溜息を吐く。

 カバジードにしても、まさか自分達が出した討伐軍がこうもあっさりと壊滅に近い被害を受けるとは思ってもいなかったのだろう。


「ブラッタ、君だけでも無事に帰ってきてくれて何よりだよ」

「殿下……ですが、俺はソブルを守り切ることも出来ず、数少ない竜騎士すらも……」


 悔しげに呟き、俯くブラッタの顔からは涙が数滴絨毯へと落ちる。

 執務机の前に立っているブラッタだったが、俯いた状態から絨毯へと落ちた涙はシミを生み出す。

 その絨毯の値段を知っている者がいれば、とてもではないが許容出来なかった行為ではあったが、カバジードはブラッタを責めるような真似はせず、椅子から立ち上がってブラッタの肩へと手を置いて口を開く。


「確かに今回の戦いで失われた者達は残念だ。だが、その中でもブラッタが生き延びてくれたことはせめてもの救いと言えるだろう。もし君が深紅に向かって挑み、敗れていたら……私には何故討伐軍が負けたのかを知ることが出来なかったのだから」

「それは……ソブルが知らせた方がいいと……」

「ああ。君とソブルの二人がいたからこそ、今回は情報を得ることが出来たんだ。それに……恐らくソブルは殺されずに捕虜になっている可能性が高い」


 そう告げてくるカバジードの言葉に、ブラッタは思わず俯いていた状態から視線を上げる。


「本当ですか!?」

「絶対とは言えないが、ね。君達が脱出に成功したのは、既に夜襲の終わる頃だったのだろう?」

「はい、既に殆どの者達は反乱軍の者達によって……」

「なら、多分大丈夫だよ。向こうにしてもこちらの情報を得たいとは思う筈だ。そして、戦いの終盤に偶然捕虜とするのに相応しい……それも、私の懐刀として有名なソブルを手に入れられたんだ。情報を引き出すにしろ、私と交渉するにしろ、これを逃すような真似はしないだろう」

「ソブルが……」


 最悪の悪夢の夜と表現しても良かっただろう、深紅による夜襲。

 それが行われた中で唯一得ることが出来た明るい予想に、ブラッタは前向きな思いを宿す。


「さあ、とにかく明日……いや、もう今日か。とにかく今日からは色々と忙しくなるだろう。ブラッタも少し休んでおきなさい」

「……分かりました。それと、これを」


 呟き、ブラッタが差し出したのは討伐軍が出発する前にカバジードから渡された地図。

 夜襲が起きた時に、何とか持ち出したものだ。

 その地図を受け取ったカバジードは、小さく頷いてブラッタに一言二言言葉を掛け、その身体を休ませるべく執務室を出て行かせる。

 ブラッタの背を見送るカバジードは、口元に薄い笑みを浮かべたままブラッタの後ろ姿を見送っていた。

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