第700話
討伐軍と反乱軍の戦いの結果は帝都でも密かに広がっていた。
元々向こうの手の内を見ることが出来ればいいという敗戦前提の戦いであった為に、シュルスにしても大々的に発表するつもりもない。
それでも噂というのは完全に止められる筈もなく、先の戦闘で逃げ戻ってきた兵士達、あるいはその敗走する様子を見ていた街道沿いの村や街の者達からの話で、帝都の中には討伐軍敗走という話は密かに広まっていた。
もっとも、シュルスにしても人の口を完全に封じられるとは思っていない。もし本当に一切の情報の流出を避けるのであれば、先の戦いに参加して生き残った者達を全員殺し、更にはその逃げ延びた様子を見ている村や街の住人達も全員殺さなければならない。
ともあれ、事実上の敗戦という噂はある程度以上の情報収集能力がある者であれば知っている……知る人ぞ知るというよりは公然の秘密という状態になっていた。
そんな中……
「駄目ね。やっぱり反乱軍に深紅が潜んでいるという話は聞かないわ」
帝都の中にある、とある建物の一室でそんな声が響く。
「……だが、奴がヴィヘラ皇女と親しいのは事実なんだろう? そのヴィヘラ皇女が反乱軍に協力している以上、深紅が向こうに合流している可能性は高い」
「確かにそうだとは思うけど、実際に戦いでは出てきてなかったのよ?」
「まだ合流していないか、もしくは何か別の場所で行動しているか……恐らくそんなところだろう」
「本来なら尾行とかをして行方を捜すんだけど、グリフォンという移動手段があるのが厄介よね。どうやってもこっちが後手に回るし、向こうがどこにいるのかの情報を得て向かっても、既にそこからは消えてるし」
女は溜息を吐きながら皿の上にある果実へと手を伸ばし……ふと、その手を止め、目の前にいる男へと気遣わしそうに尋ねる。
「シストイも食べる?」
「いや、いい。あの件から食欲があまりなくてな」
呟き、シストイは女……ムーラの視線を向けられたまま意識を背中に集中させる。
そんな相棒の姿を見て、ムーラはそう、とだけ小さく口の中で呟く。
闘技場でレイを襲撃した、鎮魂の鐘のメンバーのムーラとシストイ。
だがレイの馬鹿げた戦闘力により襲撃は失敗に終わり、その際にシストイは自分達が使っていた毒の短剣をレイに奪われて投擲され、傷を負った。
裏社会の中でも腕利きの刺客として生きてきたシストイだっただけに、致死毒を塗られていた短剣の毒にも何とか耐えて死ぬことはなかったのだが、それでも全く何の影響がない訳でもない。
食欲の減退というのも、その悪影響の一つだった。
それが一時的なものなのか、それとも毒の後遺症として自分の人生についてまわるのかは分からなかったが、それでもシストイにしてみれば命が助かっただけでも幸運だったという思いが強い。
食欲の減退にしても、別に食事が出来なくなるという訳ではなく、食べようと思えば普通に食べられるのだから。
ムーラが自分を心配しているというのが分かったのか、シストイはそれ以上自分の身体についての話題をするのを止め、話を元に戻す。
「とにかくだ。俺達が受けた深紅殺害の命令はまだ続いている。そうである以上、何とかその側に近づく方法を考えないといけない」
その言葉に、ムーラは口の中に入っていた甘酸っぱい果実を飲み込みつつ、眉を顰める。
まるで食べた果実が渋かったり、苦かったりしたかのように。
「難しいわね。何よりも痛いのがシストイの顔を向こうに知られていることよ」
「……それに正直な話、あいつに近づくことが出来ても正面からではどうにも出来ないというのが大きい。可能性としてはやはり毒だが……一度使って失敗している以上、向こうだって警戒しているだろう」
「人形の方も、あんな腕利きになると対抗出来るのがないしね」
この二人のうち、実際に身体を張るシストイではどうやってもレイに勝てず、不意打ちをするにしても向こうにはグリフォンのセトがいる。
他人を洗脳し、人形として使うムーラであれば危険は少ないが、そもそもレイが人形でどうにかなる筈もない。
八方塞がり。それが、ムーラとシストイの感じていることだった。
「けど、この命令を達成出来なければ、今度はこっちが危なくなる」
「そうね」
鎮魂の鐘は裏では有名だが、その分だけ掟の類も厳しい。
闘技場の控え室の襲撃より前の襲撃に関しては、向こうの戦力を確認するという大義名分があった。
実は控え室での襲撃に関しても、表向きは相手の戦力や手札を見る為の襲撃ということにしてある。
そんな言い訳がいつまでも通じる筈はなく、最近は途中経過を報告しに行った時に向けられる視線が次第に疑惑に満ちてきているというのも感じていた。
「全く、大体あんな化け物を相手にするのに私達だけってのが無茶なのよ。本気で深紅をどうにかする気があるのなら、もっと人数を回して欲しいわね。それも、その辺にいる一山幾らといった奴じゃなくて、腕利きの人材を」
「無茶を言う」
そう言葉を返すシストイだが、その口調とは裏腹に口元には小さな笑みが浮かんでいる。
自分達こそが現在の鎮魂の鐘の中でも最高峰の腕を持つ者であると理解しているからこその笑み。
(もっとも、そうではあっても現状では全く何の意味もないんだけどな。他の腕利きはそれぞれ仕事を抱えているし。結局は俺とムーラでやる以外に選択肢はない、か)
内心で呟くと、とにかく自分達が取るべき行動を口に出す。
「どうやって深紅に手を出すにしても、結局はその近くにいなければならないのは事実だ。その為には深紅の行き先を調べるのが最優先なんだが……」
「結局はそこに行き着く訳ね」
「幾ら腕利きだとしても、そもそも標的がいなければどうにもならないだろう。そういう意味では、まさか深紅がラルクス辺境伯の下を離れるというのは予想外だった」
「さっきも言ったけど、多分反乱軍にいると思うわよ? 私達が反乱軍に入り込むのは顔を知られている以上色々と問題があるでしょうから、組織の方から人を出して貰う?」
「やむを得ない、か」
悩んだ結果、シストイは頷く。
標的がいなければ結局任務を達成出来ない以上、どうしてもレイがいる場所は見つけなくてはならない。
それを理解しているからこその、決断。
正直な気持ちを言えば、シストイとしては他のメンバーとレイを接触させたくなかったのだが。
自分とムーラが一度襲撃を失敗しているのを知られるかもしれないという思いがあるし、もし下手な真似をしてレイに正体を見抜かれれば、色々と不味いことになるという思いもある。
そんな風に考えているシストイに、ふと何かに気が付いたようにムーラが口を開く。
「ねぇ、今ちょっと思ったんだけど……もしも深紅がどこか適当なところでモンスターを狩っているだけだったりしたら、どうする?」
「どうすると言われてもな。……どうする?」
「いや、私が聞いたんだから、質問を質問で返さないでよ」
そう告げるムーラだったが、確かにもしそのような状況になっている場合、どうしようもないのが事実だ。
反乱軍にいるのであれば、拠点となっている場所がまだ分かる。
だが、もしも今ムーラが口にしたようにどこか適当な場所――恐らくは山や森といった場所だろうが――でモンスターを狩っている場合は、手の出しようがない。
更に悪いことに、ムーラはレイの趣味の一つに魔石集めがあるという情報を仕入れている。
それを思えば、十分に有り得ることなのだ。
もしそうなった場合、それこそグリフォンに乗って自由に移動するレイを見つけるのは困難どころではないだろう。
「……想像もしたくないな」
「同感」
お互いに短く呟き視線を交わし……どうか反乱軍にレイがいるようにと祈るのだった。
同時刻、帝都の中でも貴族の屋敷が集まっている一角。
そこにある屋敷の中で、怒声が響き渡る。
「ふざけるなぁっ!」
同時に、何かが壊れる音。
ここは執務室であり、盗聴防止の意味も込めて完全な防音設備となっている。だからこそ、部屋の外に音は漏れ聞こえていなかったが、もし防音でなければ、恐らく屋敷で働いている者達は大きく目を見開き、驚きを露わにしただろう。
普段は思慮深いと言われている筈の自分達の主が、何故ここまで荒れているのかと。
この人物……シュヴィンデル伯爵が荒れている理由は幾つもある。
例えば、自分の娘の婚約者を殺した相手が闘技大会で準優勝という結果を収め、帝都中から称賛されていること。
だというのに、身の程知らずにも城で行われる表彰式に出席しなかったこと。
その上で自分が護衛する筈の人物を放り出したこと。
そして何よりも、その人物……深紅は行方不明となり、消息が完全に絶たれたこと。
鎮魂の鐘に始末を依頼したというのに、その報告も一切ない。
表彰式に出てこなかった時は、あるいは……とも思って鎮魂の鐘の方に問い合わせてもみたのだが、結果としてはまだ依頼は達成されていないというものだった。
ならばもしかして他の貴族が雇った刺客が殺したのでは? そうも思った。
今は帝都で持ち上げられている深紅だったが、その正体は春の戦争で帝国軍に多大な被害を与えた男なのだから。
自分以外にも恨んでいる者がいたとしてもおかしくはない。寧ろ自然だと思ったのだが……それもまた、帝都から堂々と出て行ったという情報を得てしまっては否定せざるを得ない。
つまり、自分の怨敵に等しい人物は完全に行方不明。下手をしたら、このままベスティア帝国から出てミレアーナ王国に帰ってしまうのではないかという思いすらもある。
普通であれば考えすぎだと、心配しすぎだと言われかねない不安なのだが、深紅にはグリフォンの従魔がいる。
空を自由に飛べるそのグリフォンの飛行速度は、竜騎士の乗るワイバーンをも圧倒していると聞く。
そうである以上、深紅が行方不明となってから既に十日以上が経っている今、ミレアーナ王国に戻っていると考えても不思議ではない。
「それだけは……それだけは許さん! 許してたまるものか!」
その言葉と共に怒りの赴くままに振るわれた手は、机の上にあった水差しを弾き飛ばして床へと叩きつける。
ガラスで出来ているその水差しは、床に叩きつけられた衝撃で割れ、周囲に水を零す。
だがシュヴィンデル伯爵はそんな床の様子に全く気が付いた様子もなく苛立ちのままに暴れ、部屋の壁に掛けられていた絵画へと椅子を投げつけると、その絵画は破れて床へと落ちる。
もしもいつもシュヴィンデル伯爵の周囲にいる取り巻き達がこの光景を見れば、目を疑うだろう。
それ程の怒りをシュヴィンデル伯爵は爆発させていた。
娘の婚約者が死んだという報告を聞いてから、娘はそのショックのあまり部屋に閉じ籠もっている。
数年前に妻を病気で亡くしてからは、娘の幸せのみがシュヴィンデル伯爵の望みだった。
婚約者だった貴族とも政略結婚という形になっているが、その実は物心つくかどうかといった年齢くらいからの幼馴染みだ。
幼馴染みから婚約者へ、そして恋人へ……順番としては多少前後するが、それは貴族である以上はそうおかしな話でもない。
そして春の戦争が終わった後は結婚というところまできて……あの敗戦を迎えた。
その結果が現状だった。
勿論シュヴィンデル伯爵にしても、戦争での恨みをここまで引きずるのがいいことではないというのは理解している。
だが、それでも……それでも、娘があのような状態になったことは、許せることではない。
「深紅……深紅めが。どこに行った。どこに消えた! ええいっ、鎮魂の鐘の者共は一体何をしているんだ! あれだけ高い前金を取っておいて、未だに奴を仕留められないとはどういうことだ! 裏社会の中でも腕利きの組織ではなかったのか!」
誰もいない場所へと向かって叫ぶが、当然それに答える者はいない。
それがまた余計に苛立ちを募らせ、部屋の破壊へと繋がっていく。
もしもこの時、レイがヴィヘラの下へ……反乱軍にいるというのを知っていれば、あるいはシュヴィンデル伯爵は反乱軍へと向かって手勢を率いて突撃していたかもしれない。
それこそ、自分の領地が帝都から離れた場所にあるのすらも気にせず、帝都に連れてきているだけの手勢を引き連れて。
だが幸い、シュヴィンデル伯爵にはレイがどこにいったのかを探る術は持たず、それ故にただ屋敷の中で苛立ちのみを抱え込んで部屋の破壊行為に走るしかなかった。
そんな状態であれば、当然顔にもその苛立ちが現れるのは当然であり……日を追うごとにシュヴィンデル伯爵の苛立ちは強まり、屋敷で働いている者達は不安を抱くことになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます