第529話

 雲1つ存在しない夜、煌々と降り注ぐ月光の下で唇を重ねているその様は、まるで1枚の絵画のようでもあった。

 どれ程の間、口付けを交わしていただろう。少なくても1分や2分といった時間ではない筈だ。

 だがそんな時間もやがて終わりを告げ、ヴィヘラはそっとレイから身体を離す。

 レイとヴィヘラの唇の間に繋がる銀糸の滴。

 月の光に照らされるそれは、淫靡というよりもどこか美しさすら感じさせていた。

 もっとも、本人としてはやはり恥ずかしかったのだろう。ヴィヘラは薄らと頬を赤く染めて銀糸の滴を拭う。

 それはレイも同様だったのだろう。ヴィヘラの突然のキスに驚きながらも、ヴィヘラと同様にお互いを繋ぐ銀糸の滴を拭って口を開く。


「どういうつもりだ? 何故、いきなりあんなことを?」

「あら、私は前から言っていたわよ? 私を手に入れることが出来るのは、私よりも強い者のみだって」


 艶然と微笑むヴィヘラは、その言葉通り既に自分はレイのものであると視線で告げてくる。


「……お前の気持ちは嬉しい。だが、そんなことで自分の相手を決めてもいいのか?」


 勿論ヴィヘラはエレーナに負けない程の美貌を誇っており、そのような人物が自分にその身を委ねると言われて嬉しくない訳がない。

 だが、それが自分よりも強い相手だからというだけの理由であると聞かされれば、どこか納得出来ない思いがあるのも事実だ。


「レイ」


 そう尋ねるレイだったが、それに言葉を返したのはレイにとっては完全に予想外の人物。

 後ろから聞こえてきたその声は、レイにとっても聞き覚えのある声。

 否、本来であれば先程の行為を見て真っ先に怒ってもおかしくない人物。

 だが、その人物は黄金の髪を月光で煌めかせながらも、レイに向ける視線に咎める色は無い。

 勿論先程の行為を全面的に認めているという訳でもなく、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべているのだが。


「エレーナ?」

「……あまり女に恥を掻かせるな。察してやれ」


 そんな表情とは裏腹に、エレーナの口から出てきたのは自分以外の女と唇を交わしたレイを咎めるでもなく、寧ろレイを責めるものだった。

 確かにこれまでもヴィヘラはレイを誘うような言動をとっていた。それは事実だ。

 だが、今のヴィヘラはそれまでとは全く違う雰囲気を出している。

 そう、エレーナは……いや、エレーナだからこそ気が付いた、その様子。

 ヴィヘラの中で決定的なまでに意識が変わったのは、やはり前日のマースチェル家での戦いの時なのだろう。

 オリキュールとの戦いが終わった後に起こった、いつもと同じような軽口のやり取り。

 だが、ヴィヘラと相対していたエレーナには、どこかいつもと違うものを感じていた。

 そう、恐らくは自分がレイに対して感じているのと同種のものを。

 だからこそエレーナは、ヴィヘラの想いを流そうとしたレイへと口出ししたのだ。

 本来であればそんな真似はしたくなかったのだが、それでもレイに対して同じ想いを抱いている者として、ヴィヘラからの宣戦布告を堂々と受け取るつもりだった。


(……もっとも、最後のキスに関しては色々と納得いかない部分もあるのだが)


 内心でそう思いつつ、それでも月明かりに照らされたキスという、ある意味では演劇でありそうな場面を邪魔しなかったのは、エレーナの女としての矜持故だろう。

 小さく溜息を吐き、取り合えず今はこの話題は一旦脇に置くことにしてヴィヘラへと視線を向けて尋ねる。


「それよりも、傷は大丈夫なのか? レイの力で思い切り殴られていたが」


 エレーナのそんな言葉に、ヴィヘラはキスの余韻で薄らと頬を赤くしたまま自分の腹へと視線を向ける。

 薄衣が幾重にも重なって出来ている服だけに、腹部に作り出された青黒い痣は月明かりしかないこの場所でもエレーナからはくっきりと見えた。

 見ただけで痛そうに感じるその痣は、普通の者が見たら思わず眉を顰めるだろう。

 だが、ヴィヘラはまるでその痛々しい痣が愛しいものであるかのように、そっと撫でる。


「ん」


 そんなヴィヘラへと近づいてきたビューネが、手に持っていた容器を手渡す。

 ポーション。それも店で売っているよりかなり高ランクの代物だ。


「ありがと。レイと戦うってことだったから一応用意しておいたんだけど……結局殆ど使う必要は無かったわね」


 呟き、薄衣をたくし上げて青黒い痣の上へとポーションを掛ける。

 本来であれば痣のように身体内部がダメージを受けている場合は、外からポーションを掛けたとしても効果は薄い。

 掛けるのではなく、直接飲用するのが最善の選択肢だった。

 だが、ポーションの不味さを考えれば、痣程度で自らの味覚を犠牲にするような者は少ない。

 それはヴィヘラもまた同様だった。

 ……だが、違うのはそこから。

 本来であれば痣の上から掛けたとしても効果が殆ど無い筈のポーションが、ヴィヘラの痣を急激に消していったのだ。

 それは、ヴィヘラの使ったポーションが街中で売られているような安物ではなく、かなりランクの高いポーションであることの証。

 そんなポーションを持っているヴィヘラに、エレーナは思わず問い掛ける。


「ヴィヘラ、そのポーションは?」

「レイとエレーナが離れていても会話が出来るマジックアイテムを貰ってたでしょ? 私が貰ったのがこのポーションだったのよ」


 ある意味、納得出来る話を口にするヴィヘラ。


「確かにあれだけマジックアイテムが多くあったんだから、効力の高いポーションがあっても不思議じゃ無いか」

「そ。……まぁ、実際には痣に使うことになったんだけどね」


 小さく肩を竦めてレイの言葉に答えた後、ヴィヘラの視線はエレーナへと向けられる。


「これで私と貴方は正真正銘同じ場所に立った訳だけど、改めて宣戦布告をさせて貰うわね。私はレイに好意を抱いているわ。これがまだ愛と呼ばれる程のものなのかどうかは分からない。けど、それでも私がこの先レイと共に生きていきたいと思っているのは事実よ」

「それは私とて同じだ。いや、私は既にレイに対して抱いているこの気持ちは愛だと断言出来る。その点、私の方がお前よりも1歩前に進んでいるようだがな」


 すぐ近くにいるレイを置き去りにして女の戦いを始めるエレーナとヴィヘラに、レイは何と言っていいものかを迷う。

 だが、やがて意を決したかのようにヴィヘラへと向かって話し掛ける。


「俺のことをそこまで想ってくれるのは、正直嬉しい。けど、生憎と俺とエレーナはもうすぐエグジルを去ることになってるんだ」

「あら、そうなの?」


 確認するかのように尋ねるヴィヘラに、エレーナは小さく頷き、口を開く。


「ヴィヘラもシルワ家で見た、対のオーブ。私達がこのエグジルにまでやって来たのは、あのマジックアイテムを手に入れる為だったからな」

「ふーん……それで離れていても、いつでもレイと話をしようと思っている訳ね」


 あまりに簡単に見透かされたエレーナだったが、自分に恥じ入るところはないとばかりに頷く。


「そうだ。私とレイの関係を思えば当然だろう?」

「なるほど。エレーナとレイが離れた場所でもいつでも話が出来るんなら……そうね、私はレイについていこうかしら」

「……何?」


 ヴィヘラの口から出たのが予想外の言葉だった為だろう。エレーナは思わずと言った様子で問い返す。

 その隣では、レイもまた驚きに目を見開いていた。

 唯一、ビューネだけは驚きを見せずに小さく頷いていたのだが。


「そんなに驚くことかしら? 大体私はこう見えても冒険者なのよ? なら、別にエグジルだけにいる必要はないじゃない。そもそも私がエグジルに来たのだって、ダンジョンにいる強いモンスターとの戦いを楽しむ為なんだし」

「それは……そうだが……」


 ヴィヘラの口から出た正論に、エレーナは何も言い返せない。

 そのまま周囲を見回し……不意に、痴話喧嘩には付き合っていられないとばかりに、セトとイエロを撫でようと向かおうとしていたビューネへと視線を向ける。


「そうだ、ビューネはどうするのだ? フラウト家がどうなるかは分からぬが、それでもビューネがまだ子供なのは変わらない。そうである以上、ヴィヘラの協力は必要だと思うが」

「その辺に関しては確かにちょっと心配だけど……でも、シルワ家がフラウト家の復興に全面的に協力してくれるって話だし、それ程心配はしてないわよ?」


 2人の話を聞いていたレイは、ふと疑問に思う。

 確かに現状でエグジルを治めている家が足りないというのは事実だ。だが、それにしてもフラウト家の復興に全面的に協力するというのは奮発しすぎではないかと。

 ただでさえシルワ家はここ暫くの抗争によって、その資産の多くを消費している。

 ボスクを兄貴と慕っている冒険者達や、ギルドで雇った冒険者への報酬、抗争で被害を受けた者達に対する補償。それ以外にも必要経費としてかなりの額が跳んでいっているのだ。

 なのに、ここで更にシルワ家の資産を使うというのは、レイに違和感を抱かせるのに十分な話だった。

 もっとも、それはボスクがフラウト家に……より正確にはビューネの両親に対して恩を感じており、その恩を娘であるビューネに返そうとしているのを知らないからこその思いなのだが。

 そんな風にレイが内心で考えている間にも、エレーナとヴィヘラの話は次第に熱くなっていく。


「大体、私とレイは既に結ばれているのだ。だと言うのに、そこに図々しくも割り込んでくるとは慎みというものを知らないのか!?」






「へぇ……結ばれている、ねぇ」


 エレーナの言葉に、ヴィヘラは舐めるようにエレーナの肢体を眺める。

 鎧やマント、靴、といった防具に包まれているとはいっても、隠しきれない程に豊かな、男好きのするボディラインを描いているエレーナの身体を。

 その様は、寧ろ眺めると言うよりも視姦と呼ぶ方が正しい。


「そ、その視線は何のつもりだ?」

「……一応聞いておくけど、結ばれたっていうのはレイに抱かれたってことでいいのよね?」

「……」


 エレーナにとってはあまりにも直接的なその言葉に、思わず顔が朱に染まる。

 それを見て、すぐに納得したのだろう。ヴィヘラは艶然とした笑みを浮かべて口を開く。


「あら、どうやら結ばれたという言葉の意味は、私とエレーナだと違うみたいね」

「そ、それは……」


 言葉に困るエレーナに、ヴィヘラは更に追撃の言葉を口にする。


「もしかして結ばれたって理由はキスだけだったりするのかしら? それなら、私もレイと結ばれたことになるけど……」

「む……」


 その言葉にエレーナは先程の光景を……そして、ヴィヘラとレイが始めて戦った時にイエロの記憶を通して見た光景を思い出す。


「まあ、確かにレイと一緒にいられないエレーナの焦りは分かるけどね」

「別に私は焦ってなど……」

「あらそう? なら別に私がレイと一緒に行動しても構わないのよね?」

「……だが、お前の格好は人目を引く。ただでさえレイは揉めごとに巻き込まれやすいというのに、お前のように男を挑発するような格好をした者が近くにいれば、騒動が起きる可能性は大きくなるばかりだ」

「ん」


 それは確かに、とセトの頭を撫でながらビューネが頷く。

 興味の無い振りをしてセトを撫でてはいたものの、やはりヴィヘラのこれからに関係してくる以上は気になっていたのだろう。

 ビューネにとってヴィヘラは、自分に無条件で協力してくれ、更には戦闘技術も教えてくれたのだ。

 友であり、姉であり、師匠であり、家族。

 数年程度ではあったが掛け替えのない存在だったのも事実。

 これまで共に過ごしてきた記憶が脳裏を過ぎり、恐らくヴィヘラ以外の者には分からないだろう程の微かな悲しみの表情がビューネの顔には浮かんでいた。


「あらあら、全く私も罪な女ね」


 そんなビューネの表情に目敏く気が付いたヴィヘラが、小さく笑みを浮かべながらビューネへと近づいてその頭をそっと撫でる。


「ん」


 自分の髪を撫でてくるその様子に、姉ではなく今は亡き母の姿を幻想した。……そう言葉にすれば恐らくヴィヘラは困った顔をしながらも怒った振りをするのだろう。

 自分はビューネのような大きな子供がいる年齢ではないと口にして。

 そんな風に思いつつ、ここ数年間違い無く自分を色々なものから守ってくれたその手に撫でられる感触を楽しむのだった。






 結局この日の出来事は、ビューネのこの行動によりあやふやなままで終わりを迎える。

 ヴィヘラがレイに対して愛を告白し、自ら積極的に動くと宣言したままで。

 それに対してエレーナは不満そうではあったが……どこかその不満そうな様子すらも楽しんでいるような一面があるのもまた、事実だった。

 幾らエレーナがアーラを始めとした護衛騎士団の者達に好かれているとしても……やはりそれは、自分と同格の友人というものがいなかったというのも大きかったのだろう。

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