第396話

 ダンジョンで女王蜂の一件があった日の夜。既に夜も更け、夏特有の茹だるような暑さの中をレイは宿の外へと向かっていた。

 本来であれば日が暮れた夜の街というのは酔っ払いが暴れていたりして危険である。だが、レイにとってはそんな相手がいたとしても特に問題では無いし、何よりも理由は不明だが眠気がさっぱりと襲ってこないのだ。

 あるいは、エレーナが起きていれば2人で話しても良かったのだろう。レイにしてもエレーナに対して好意を抱いているのは事実であるし、数度の唇を許されたことでエレーナがレイに好意を抱いているのも何となく分かっているのだから。

 だが、幸か不幸か今日は色々と精神的に疲れたのか、部屋に行ってみると既に眠っているらしくノックに返事がなかった。

 そのまま何をするでもなく暇を持て余したレイは、エグジルで夜遊びと洒落込んでみることにしたのだ。

 既に時刻は午後9時近い。夏とは言っても完全に周囲は闇に包まれており、所々でマジックアイテムを使った明かりが見える程度だ。

 そのマジックアイテムを使っているのは基本的には歓楽街であり、酒場や娼館といったところが主だろう。

 そんな中、大通りに存在している屋台がレイの目に止まる。


「へぇ、夜に屋台ってのは珍しいな」


 夜の屋台と聞けば、どうしても現代日本での祭や夜店といったものを思い出すレイ。タコ焼きやお好み焼き、焼きそば、綿飴、イカ焼き等々。

 中にはドネルケバブのような珍しい屋台もあるという話だが、少なくてもレイの住んでいた地域では基本的な屋台しか存在していなかった。

 ちょっと珍しいところではおでん、あるいは鮎やイワナ、ヤマメといった近くの川で獲れる魚の塩焼きだろうか。


「いらっしゃい。坊主、何か食ってくかい?」


 屋台の方をじっと見ているのに気が付いたのだろう。40代程の威勢のいい中年の男がレイへとそう声を掛けてくる。

 一瞬迷ったレイ。一応宿の食事でそれなりに腹は膨れているが――レイを腹一杯にするということで宿の食堂は戦争状態になっていた――まだ余裕が無い訳では無い。

 幸いというか、屋台で扱っているのはサンドイッチやスープといった軽い物がメインのようであり、恐らくは酒を飲んだ後に軽く腹に物を入れるのを目的にしているのだと納得する。


(確かに良く酔っ払いはラーメンを食いたくなるって言うしな。……ん? それを考えれば、うどん辺りを持ってくれば稼げそうだな。いや、ギルムでは既にその辺で屋台が出てるんだし、意外と酔っ払いを目当てにしてもう展開しているかもしれないな)


 脳裏を満腹亭のうどんが過ぎるが、さすがにあれ程のうどんをここで食べられるとは思わず……と言うか、そもそもうどん自体が知られてない以上はここでうどんを食べるというのが無理であると気が付き、そのままサンドイッチを注文する。

 夜だからだろう。食べる場所は屋台で提供しておらず、しょうがないので近くにある建物の壁に寄り掛かりながらハムとチーズのサンドイッチを口に運ぶ。

 恐らくは辛子やマスタードのようなものが入っているのだろう。ピリリとした辛みにチーズのまろやかさとハムの塩気が口の中で1つになり、その後味を引く味に思わずもう1口、2口と口へと運んでいく。

 そんな風にサンドイッチを味わいつつ、明かりのマジックアイテムによって照らされている通りを歩いている者達を眺める。

 レザーアーマーを装備した冒険者や、身軽さを重要視して鎧ではなく服を装備している盗賊と思しき男。槍を手に持っている男は酒を飲みすぎたのだろう、石突きの部分を杖のようにして頼りない足取りで歩いている。

 冒険者以外にも商人やエグジルの住民といった者達もそれなりに多くおり、それぞれが夜に特有のもわっとした暑さを吹き飛ばすかのようにワインやエールといったアルコールを飲み、騒ぎ、歌い、中には喧嘩をしている者もいた。

 そんな様子の大通りを眺めていると、不意に横からすっと手が伸びてくる。一瞬その手を掴もうと反応しそうになったレイだったが、すぐにその手の持ち主には殺気の類が無いのを感じ取り、そのままにさせる。

 するとその手はレイの手の中にあった袋の中からサンドイッチを数個抜き取り、自分の口へと持っていく。

 夏だというのに日焼けの1つすらもしていない、艶めかしい程の白い腕。その腕を向こう側が透けて見える程の、極端に薄い生地を幾重にも重ねた衣装で包んでいる。

 顔を見ないでも、それが誰の腕なのかは予想出来た。何しろあれだけ強烈な印象を残していたのだから、忘れろという方が無理だ。

 ただ、それでも確信がなかったのは、その女の特徴とも言える手甲が身につけられていなかったからだろう。


「ヴィヘラ、とか言ったな。こんな所でどうしたんだ?」

「うふふ。お酒を楽しみながら歩いてたら、見覚えのある子を見つけたからね。ご挨拶よ、ご挨拶」


 ニコリ、とその攻撃的な美貌に笑みを浮かべてサンドイッチを口に運ぶヴィヘラ。

 サンドイッチを食べるという、ただそれだけの光景。だというのに、レイは不思議な程に洗練されたものを感じていた。

 もっとも、それはサンドイッチを食べ終わった後に指をペロリと舐めている光景であっという間に霧散してしまったが。


「酒を楽しみながら……ねぇ。その割には血の臭いを漂わせているようだが?」


 クンッと軽く鼻を鳴らしてヴィヘラへと視線を向けるレイ。目の前にいる女からは、アルコールの匂いやヴィヘラが付けているのだろう香水の匂いに混じって間違い無く血の臭いが漂ってきていた。


「へぇ。良く分かったわね。君、随分と鼻がいいみたいだけど……もしかして獣人?」

「いや、純粋に人間だよ」


 正確には人造人間とでも呼ぶべきなのだろうが、まさかそれを口に出す訳にもいかずにそう答える。


「そう? それにしては嗅覚以外も随分と鋭そうに見えるけど」

「さてな。で、血の臭いを漂わせているのはやっぱり誰かと戦ってきたからなのか?」


 横で嬉しそうに笑みを浮かべているヴィヘラへと尋ねるレイだが、その手はいつでもミスティリングからデスサイズを取り出せるように準備しながらの問い掛けだ。

 出会ったのは1度であり、それも数分程度のものでしかなかった。それでも、レイは目の前にいる美貌の女が血を……より正確には戦闘を好む相手だと理解していた。

 だが、ヴィヘラはその攻撃的な美貌に笑みを浮かべて小さく肩を竦める。その際大きな双丘が揺れ、その様子は大通りを歩いている酔っ払い達の視線を集めるが、本人は男に向けられる不躾な視線に慣れているのか、特に気にした様子も無い。

 ただでさえレイがこれまで見て来た中でも3本の指に入る美貌を持っているのだ。そんな美貌の持ち主が向こう側が透けて見えるような、踊り子が着ているような服を着ており、肌も露わにしていれば……更に、今の時間帯が夜であり大通りには酔っぱらいの姿が多ければ……


「おい、姉ちゃん。そんな坊主じゃなくて俺と一緒に遊ばねえか? 金はたっぷりあるぜぇ? ……ヒック」


 このように声を掛けられることになるのはある意味で必然だった。

 20代後半、あるいは30代前半程の身長2mに僅かに届かないくらいのがっしりとした体格の男が、酔いに頬を赤く染めながらも舐めるような視線で男を惹き付ける肢体を見回し、舌なめずりをする。

 飲む為に出て来たということもあり、男の持ってる武器は腰に下げられた長剣だけだ。だが、男の体格自体が凶悪な武器であると言ってもいいだろう。


「貴方みたいに弱くて鈍くさい人は好みじゃないのよ。ごめんなさいね」


 それでも、ヴィヘラはあっさりとそう告げる。

 自分が目を付けた人物でもあるレイと話していて邪魔をされたくないというのもあるが、それ以上に見ただけで男の力量が知れたのだ。

 確かに体格が良く、力自体は強いだろう。だが幾ら酔っ払っているとは言っても、身体を動かす仕草を見る限り技術自体はそれ程無い。つまりは典型的なパワーファイターだろうと。そして、その力に関しても自分に劣ると判断する。

 それを見て取ったヴィヘラはあっさりと男に対しての興味を失い、出て来たのが今の言葉だった。

 だが、そんな言葉を聞いて男が黙っていられる筈も無い。自分の強さに自信があるだけに、見目麗しいと言ってもヴィヘラはとても戦闘を行うような者には見えない。それ故に男は酔っ払った頭へと一瞬にして血が上る。

 この時に不幸だったのは、ヴィヘラが手甲と足甲を外していたことだろう。もしもそれらを身につけていれば、踊り子風の衣装に手甲、足甲というミスマッチとしか言えない姿に、男もヴィヘラが何者なのかを気が付いたかもしれない。

 だが、不幸にも男はそれに気付くことなく自分を無視して隣にいる子供へと笑みを向けている女へと手を伸ばし……次の瞬間、ふと気が付けば手の先に女の姿は無く、何故か男の手はレイへと向かって伸ばされていた。

 自分に伸ばされた男の手を回避し、そのまま地を滑るかのような巧みな足捌きで壁により掛かっているレイの反対側へと移動したのだ。

 もしも男が素面であったのなら、今の動きを見ただけでヴィヘラの実力を察知してそのまま引き下がっていただろう。だが、完全に酔っ払っている状態では判断出来る筈も無い。それ故に、自分を差し置いて極上の美女と仲良く話をする姿を見せつけているレイ――あくまでも男の視線からだが――へと向かってついでとばかりに殴り倒すべく伸ばした手を握りしめ、拳へと変えてそのまま伸ばす。


「ったく、俺を巻き込むなよな」


 溜息を吐きつつも自分へと伸びてくる拳を右手でそのまま掴み、強引に引っ張って男のバランスを崩して素早く足を刈る。

 確かに男は己の力に自信があったのだろう。事実レイやヴィヘラは知らなかったが、男は多少とは言っても名の知れたランクDの冒険者なのだから。

 だが、その程度の力がレイの膂力に勝る筈も無く、酔っ払っていた影響もあってあっさりと足を払われて地面へと尻餅をつく。


「うおおっ!」


 そのまま地面に倒れた男の鳩尾を足の裏で押さえつけ、多少の力を入れて動けなくする。


「は、離せ! くそっ、この! な、何をしたんだ!」


 顔を赤くしながらレイの足をどけようとする男だが、寝転がっている状態ではそれ程の力が出せる筈も無く、無様にジタバタと動くだけだった。

 レイはそんな男の様子を小さく溜息を吐きながら眺め、視線を横にいる人物へと向ける。

 自分の力だけでこの程度の男には呆気なく勝てる筈だったのに、何故かわざとレイを巻き込んだヴィヘラ。

 それでも直接口に出して文句を言わないのは、あのままヴィヘラが男をあしらっていても結局は自分が巻き込まれていただろうと判断した為だ。

 何しろ自分の外見は15歳程度であるというのを、これまで幾度となく絡まれてきた経験から理解していたのだから。


「あら、さすがね。私が見初めただけあるわ」


 見初めたという単語を聞き、周囲で一連のやり取りを見守っていた野次馬の視線がレイへと向けられる。

 その視線に込められているのは嫉妬。あるいは好奇といったところか。前者が男で後者が女と綺麗に分けられているのが野次馬達の性格を素直に表していると言ってもいいだろう。

 最後に再び軽く足に力を入れて男を気絶させてから、レイは口を開く。


「お前の言っている見初めたってのは、絶対に俺が知っているのと意味が違うと思う」

「さて、どうかしらね? もしかしたら本当かもしれないわよ?」


 そんな風にやり取りをしている2人だったが、やがて周囲の野次馬連中がざわめくのが聞こえそちらへと視線を向ける。


「ったく、また酔っ払いの騒ぎか。夏になるとどうしてこうも騒ぎが多くなるんだか」

「まぁ、今更言ってもしょうがないだろ。ほら、あの気絶している奴がそうだろ。連れていくぞ。はいはい、お前さん達も散った散った。騒ぎはおしまいだ」


 警備兵と思しき2人が、溜息を吐きながらも周囲にいる野次馬へと声を掛けながらレイとヴィヘラの方へと近付いてきて倒れている男を2人掛かりで抱え上げる。


「俺達はいいのか?」


 自分達を全く無視して気絶した男を連れて行く警備兵に、思わず声を掛けるレイ。

 捕まえられるとまではいかなくても、てっきり事情を聞かれるくらいはされると思っていたのだ。だが、それも無いままに気絶している男だけを連れて行く様子を見て、疑問に思っての問い掛けだったのだが。


「ああ、気にしなくていい。事情についてはあそこのサンドイッチ屋から聞いているからな。それに、この状況を見れば大体分かるし」


 肩を竦めようとして、気絶している男の身体が邪魔でそれが出来ずに苦笑を浮かべる警備兵。

 勿論これが昼間なら事情を聞くくらいはしたかもしれない。だが、今は夜であり同じような騒ぎが毎夜ごとに数回、十数回、下手をすれば数十回も起こっているのだ。この辺、荒くれ者の冒険者が多く集まっている以上はしょうがないのだろう。

 それ故に、この程度の騒ぎでは特に事情を聞くでもない……より正確には事情を聞いている暇もないというのが正確なところだった。

 そのまま気絶した男と共に警備兵達は去り、騒動が終わったと判断した野次馬達も消えて行く。

 ……尚、数人の男はヴィヘラの扇情的な格好に未練たっぷりの様子だったが、今の出来事を見れば粉を掛ける気を無くしたのだろう。結局そのまま去って行くのだった。

 そんな様子を見送っていたレイの耳元でヴィヘラが囁く。


「ね、ちょっとお姉さんといいことしない?」

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