第276話

 セレムース平原、ベスティア帝国軍陣地。

 その最奥付近にある天幕の中で、椅子に腰を掛けた1人の男が薄らと笑みを浮かべて目の前にある地図へと視線を向けている。

 艶のある黒髪を背まで伸ばしており、もし他の誰かが男の容姿を見れば女とすら判断するかもしれない程に整った顔。だが、その目には敵対する者全てを滅ぼしても尚足りぬと、苛烈な意志が宿っている。この視線を向けられた者で男を侮るような者はまずいないだろう。それ程の鋭さと意志と、底知れぬ程の畏怖を見た者に与える視線だ。

 長年ベスティア帝国とミレアーナ王国との間で戦闘が繰り広げられてきた地だけに、両軍共セレムース平原においてはかなり詳細に地形を把握し、地図を所有していた。

 その中でも、この男の前にある地図は男がとある者達を使って極秘裏に作りあげたものであり、恐らくはこの世界で最も詳細なセレムース平原の地図だろうと男は判断している。

 そんな男の視線の中にあるのは、今回の戦いの主戦場となるであろうセレムース平原の中央……では無く、どちらかと言えばミレアーナ王国側寄りにある地域だった。


「……準備の方はどうなっている?」


 男の呟きに、横に立っていた20代半ば程の女が素早く口を開く。


「はっ、既に転移陣の準備は完了し、いつでも発動が可能です。閣下の命令があれば、いつでもミレアーナ王国軍の背後に転移、奇襲を行えます」

「転移陣の隠蔽は問題無いのだな?」

「ギルゴスが転移陣のある場所で待機しているので問題はないかと」


 冷静極まりない己の副官の説明に、薄らと笑みを浮かべる男。

 本来であれば、男の端正な顔立ちと共に艶やかと表現するべき微笑。だが、この男が浮かべた笑みは背筋を凍らせるかのような凄みが宿っている。


「そうか。ギルゴスがいるのなら転移陣がミレアーナ王国軍の者共に見つかる可能性は少ないだろう。……時間は?」


 主の言葉に、懐から時計を取り出して時刻を確認する女。

 本来であれば高価なマジックアイテムである時計だが、ベスティア帝国では急激に発達していった錬金術により軍の士官であれば持つのは難しくない程度のコストダウンに成功していた。


「予定通りなら、開戦まで約20分といったところです」

「そうか。ならばミレアーナ王国軍の息の根が止まるまで1時間掛からないな」

「それはあくまでも我々の計算通りに進めばです。特にこちらに入って来ている情報ですと、ミレアーナ王国軍の中にはケレベル公爵の右腕とも呼ばれているフィルマ・デジール、姫将軍エレーナ・ケレベル、中立派の中心人物にして猛将とも名高いダスカー・ラルクスの姿も確認されており、他にも貴族派や中立派で有名な者達の姿が軒並み揃っていますから……」


 女の報告を聞き、それでも尚、男は薄らと笑みを浮かべる。

 だが、それは強敵を前にして浮かべる獰猛な笑みでは無い。どちらかと言えば何かを哀れむような笑みだ。


「確かに貴族派、中立派共に今回の私達の行動が本気であるというのは気が付いているのだろう。それに関しては、向こうが用意してきた戦力で理解出来る。……だが、それを理解しているのはあくまでもその2つの派閥だけなのだろう? 最大派閥にして主戦力である国王派は違う」

「はい。ミレアーナ王国軍の総大将はアリウス伯爵らしいです」

「アリウス伯爵か。確かに人選に間違いは無い。……この戦争がいつもの物と同じだと仮定するのなら、な」


 その整った美貌に皮肉な笑みを浮かべる男。


「テオレーム様のお言葉通りかと。数年に1度定期的に行われている侵略戦争。国王派がその程度の意識しか持っていないのは、総大将の人選でも明らかですね」


 男に釣られるようにして、女も笑みを浮かべる。だが、その笑みはとてもではないが笑顔と聞いて人が思い浮かべるような暖かなものではなく、どちらかと言えば見る者に対して寒気すら感じさせる極寒の笑みだ。主であるテオレームの副官だけあり、浮かべる笑みの質もまた同様だった。


「どうやらこちらの工作は上手くいったらしい。影達の消耗は激しかったが、それでもこれだけの戦果を得られたのなら上々だ」

「……魔法省としては、腕の立つ錬金術師の命を絶ったことでテオレーム様に色々と言ってきたと聞いていますが?」

「ああ、その件か。確かにポストゲーラは腕のいい錬金術師ではあったが、ミレアーナ王国に捕まってしまえばそれは反転して私達にとっての脅威となる。そもそもポストゲーラは腕はともかくとして、自分の好奇心に対して正直すぎたからな。もしミレアーナ王国側が十分な研究施設を与えると言えば、恐らくはあっさりと寝返っただろう」


 テオレームの言葉に、シアンスは微かに眉を顰める。


「錬金術が発展するのはいいのですが、その肝心の錬金術師にまともな性格をしているものが殆どいないというのはどうなんでしょう?」

「そうか? まあ、確かにそうかもしれないが、まともな性格……つまり常識的な思考や嗜好の持ち主では、我が国の錬金術がここまで発展することはなかっただろう。それに……そもそも魔獣兵という存在を常識的な人物が許容出来ると思うか?」


 そう言われると、シアンスもそれ以上の言葉を持たない。

 ベスティア帝国の秘密兵器と言ってもいい存在である魔獣兵。確かにその性能は驚異的であるし、一騎当千とまではいかずとも1人で兵士30人程度の働きはするだけの能力を持っている。だがその能力と引き替えに、魔獣兵となった者は多くのものを失うのだ。魔獣兵となる為の施術に耐えきれる者がそもそも少なく、命を失う可能性が非常に高い。更にそれを耐えきったとしても、人としての生き方や、更には人の姿まで。場合によっては特定の感情や理性を失う者もいる。

 そんな存在である魔獣兵を、常識や倫理観を持っている錬金術師が許容するのかと言われればそれは難しいだろう。それ故に、ベスティア帝国の錬金術師達の中には常識的な者は非常に少ない。そもそも過去に違法な研究のような様々な理由で魔導都市オゾスを追放された錬金術師達を保護したのがベスティア帝国なのだから。


「それはともかくとしてだ。……奴の姿は見つかったか?」


 これまでの話からいきなり変わった話題に、シアンスは一瞬考えるが、すぐに自分の主が誰のことを言っているのかを理解する。


「レイ、とかいう冒険者ですか? ギルムの街周辺で幾度となくこちらの邪魔をした」

「そうだ。レイ本人の実力は確認出来なかったが、空恐ろしい程の魔力を持っているのは確認出来た。また同様に、ランクAモンスターのグリフォンを従えている。……正直に言えばレイ本人よりも、このグリフォンの方が警戒すべき対象だろうな」


 テオレームの脳裏に、アブエロの街で仕掛けた謀略の最終段階で見たグリフォンの姿が過ぎる。

 5km以上は離れており、更に自分は闇の中へと紛れていたというのに、本能的にか自分の存在を感じ取っていたモンスター。テオレーム自身はグリフォンを見たのは初めてだったが、ランクAモンスターというのはあれ程の存在かと強く心に刻み込まれた出来事だった。

 だが、実際にその光景を見た訳ではなく、話を聞いただけのシアンスは微かに首を傾げる。


「確かにテオレーム様の話を聞く限りでは油断していい相手ではないでしょうが、それでも結局は従魔なのでしょう? なら本人の方を押さえればグリフォンもどうとでもなるのでは?」

「いや、それも難しいだろうな。今も言ったように、5km以上離れている場所からでも感じ取れる程の莫大な魔力を持っている相手だ。……正直、私でも正面から戦えば勝てるかどうかは微妙……いや、どんなに上手くことが運んだとしても勝率は3割に届くかどうかといったところだろうな」

「……テオレーム様、幾ら何でもそれは冗談が過ぎるのでは? ベスティア帝国の誇る常勝将軍にして閃光の異名を持つテオレーム様が勝てない相手など……」


 自分の上司もこのような冗談を言えるのか。そんな風に思いつつ鋭い美貌に笑みを浮かべたシアンスだったが、テオレームの顔が少しも笑っていないことに気が付き、ピクリと眉を動かす。


「本当、だと?」

「私が冗談を言うように見えるか? いや、時々は言うかもしれないが、それでも真面目な話をしている時に冗談を口にするつもりはない」

「そんな、テオレーム様が本気で戦っても勝てない相手だなんて」


 冷静沈着という言葉をそのまま表したかのようなシアンスだったが、今の言葉はさすがに信じられなかったのだろう。唖然とした視線をテオレームへと向ける。

 だが、戦えば負ける可能性の方が高いと言ったにも関わらず、テオレームはいつもどおりの冷静なままだった。……いや、その口元には薄らと笑みすら浮かんでいる。


「テオレーム様? やはり勝てないというのは冗談か何かだったのですか?」


 故に、副官であるシアンスがそう尋ねたのもある意味でしょうがなかったのだろう。

 テオレームはそんな言葉に小さく首を振り、言葉を続ける。


「別に戦って勝てないからどうだと言うのだ? 勝てないなら、そもそも直接戦わなければいい。ようは戦場でレイと従魔のグリフォンという戦力を自由にさせなければいいだけだ。幸い、今回の戦いでは最も多くの竜騎士を擁している国王派が数騎程度しか竜騎士を連れてきていない。貴族派の方はある程度の数を揃えているようだが、それでも竜騎士の数は私達の方が勝っている。なら、その竜騎士でレイを押さえればいいだろう?」


 テオレームの言葉に納得したような表情を浮かべるシアンスだったが、次の瞬間には残念そうに溜息を吐く。


「確かに現状ではそれしかありませんか。自由に動ける竜騎士が多ければ、それだけ戦闘を楽に進めることが出来るのですが……」

「それはしょうがない。何事も欲張りすぎは良くないからな。レイという規格外の戦力を抑え込めるだけ良しとしておこう。無駄な被害を出さずに済むのなら、それに越したことは無い」

「こうなると、魔獣兵に空を飛べる者がいないのが残念ですね。上がってきている情報によりますと、ギルムの街で魔獣兵とレイはそれなりに互角の戦いをしたとありましたし」

「どういう訳か、空を飛ぶモンスターの魔石を使って魔獣兵の施術をしても失敗する確率が高いし、成功したとしても飛ぶことが出来ないと上層部は早々に飛行可能なモンスターの魔獣兵を諦めたからな。もっとも、錬金術師達にしてみればそれだけ興味深い研究対象でもあるのか、未だに研究は続けているようだが」

「私としては、正直魔獣兵というのは好みではありませんが……」


 微かに眉を顰める副官の言葉に、テオレームは小さく首を左右に振る。


「ベスティア帝国は確かにこの周辺では最も強大な国だろう。だが、それでも他の追随を寄せ付けない程の強国という訳では無い。それは、これまで幾度となくセレムース平原でミレアーナ王国に敗れているというのが証明しているだろう?」

「……そうですね。今のはあくまでも私の感傷でしかありません」


 ベスティア帝国人として、軍人として、女として、そして何よりも1人の人間として、シアンスは魔獣兵に対して思うところはあった。だが、それでもその圧倒的な実力を認めない程に愚かではない。それがベスティア帝国でも閃光と呼ばれるテオレームの副官を務めるシアンスという女だった。

 そんな自分の副官を目にし、テオレームは慰めるように口を開く。


「私達が海を手に入れれば、ベスティア帝国の国力は更に上がる。そうなれば、好き嫌いでの戦闘が出来るようになるかもしれないな。……それに、メルクリオ様も魔獣兵は好まれていない」


 呟くテオレームの脳裏には、ベスティア帝国の第3皇子の姿が過ぎる。

 15歳と随分と若いのだが、その利発さは皇帝を継ぐのに相応しいと確信していた。

 現在のベスティア皇帝がまだ40代と元気な為に後継者争いは公にはまだ始まっていないが、それでも水面下では既に誰が誰に付くのかというのが注目を集めている。現在皇位継承権を持つ者は4名おり、テオレームが敬愛……否、守ろうとしているメルクリオというのは第3皇子の名前だ。皇位継承権で言えば第4位と最も皇帝という地位からは縁遠い場所にいる人物である。だが、テオレームは以前ふとした事でその第3皇子に皇帝としての器を見て、それ以来第3皇子こそが次期皇帝に相応しいと判断し、第3皇子派とよばれる派閥を作りあげてきた。

 軍部の者や魔法省をも引き込み、秘密兵器である魔獣兵すらも引き出して挑んだこの戦争。ベスティア帝国が遥か昔から欲しがってきた海を手に入れてベスティア帝国の国力を高めつつ、それを第3皇子が日の目を見る為の1歩とするのだ。


(そう、故にこの戦いは決して負けられない)


 内心で呟き、その瞬間ふと嫌な予感が脳裏を過ぎる。

 これまで幾度となく自分達の策略や策謀を防いできた1人と1匹の姿が思い浮かぶが、すぐに首を振ってその残像を消す。


(確かに奴は強いが、竜騎士を回せば押さえておける筈。今はとにかく……)


「テオレーム様、そろそろ準備を。向こうに転移する時間です」

「……そうか。では、魔獣兵達にも戦闘準備を整えろと伝えろ。ミレアーナ王国軍に致命的な一撃を与えに行くぞ」


 そう言い、テオレームは立ち上がった。

 掴むべきは勝利と栄光。それは全て自らが見た皇帝の器を持つ人物の為に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る