五 大天文陣



 そして妖精に連れられて階段を何階分か上がると、いきなり森の中に出た。夢かと思って目をこするが、どう見てもやはり森がそこにある。足元は土で、頭上は空だ。夕日が差していて、風も吹いている。


「温室だよ」妖精が言った。

「薬草園も兼ねているけれど、ここの植物が人工天の魔術の大部分を支えている。花冠は薔薇の花が好きだったろう? 向こうに咲いているよ」


 美しい銀髪のエルフが手を引っ張ったが、シラはそれよりも聞き捨てならない台詞があって、彼を引き止めた。

「この植物が人工天を支えているとは、どういうことですか」

「魔術に、興味があるの?」

 振り返った妖精が少し嬉しそうに微笑んだ。ふわりと広がった魔力に一瞬くらりとして、頭を振る。


「これは、僕の研究している魔導植物園だよ。根から魔力を多く出す植物ばかり植えられていて、それを汲み上げてこの階の環境維持と、この上の階の人工天に供給する。そうして力を分けてもらう代わりに、僕らは特別植物を可愛がる。大地の妖精の血を持つ鷲族の子達がいるからできることで、花冠の魔術があったから可能になったことでもあるね」

「……私の魔術?」

「アーリュシュルと作ったでしょう、魔力変換式」


 そういえば神殿に入る前の頃、叔父と遊び半分に作った魔術があった。気の魔力しか持たないシラでもまるで火持ちのように熱くて真っ赤な魔法陣を描ける術。あれはもしや──


 しかし向こうの草むらがかさりと音を立てて、シラの考え事は中断された。淡い金色の頭がぴょこんと飛び出して、さっと引っ込む。


「恥ずかしがっているね」

 ルールルーが言った。


「怯えているのではなく?」

「本当に怖かったら、巣から出てこないよ」

「巣……?」


 一体彼らはこの塔の中のどこにどんな巣を作っているのだろうと思ったが、なんとなく尋ねそびれて、草の隙間からじっとこちらを見ている瞳を見返す。小さな妖精が慌てたように奥へ引っ込んだ。


「隠れてしまったね」

 親エルフは慣れた様子でゆったりとそれを見守ってから、シラの方を向いて「上へ、魔法陣を見に行こうか」と誘った。


「行きます」

 即答すると、向かいの繁みから小さく「ミュっ……」と囁きが聞こえた。


「今の……鳴き声は」

「えっ、みたいな感じだよ。天の間は隠れる場所がないから、困っているようだね」

 ルールルーが言う。

「エルフ語なのですか?」

「そう、リファール語」


 みゅ、と復唱しようとして恥ずかしくなり、口をつぐむ。エルフは大人でもこんな驚いた子猫のような音で話すのだろうかと思ったが、ルールルーを見ている限り、そんなことで恥じらいそうにはとても見えなかった。


「……上を見せていただけるのですか」

「いいよ、花冠だからね」


 背の高い妖精は事もなげに言ったが、どう考えてもそんな理由で立ち入りを許可して良い場所ではない。談話室のあった白ローブの為の区画ですら、本来は外部の人間などとても近づけるような場所ではなかったはずだ。その更に上なんて、とんでもない。


「一応、師に確認してから」

「──大丈夫ですよ、見学の許可は出ています」


 突然後ろから助言する声があって、心臓が止まるかと思った。胸を押さえながら振り返ると、いつの間にか黒装束に赤い髪の小柄な少年が立っている。


「……鷲族の」

「『頭』のティロロです。シラくんの護衛というか見張りというか、そんな感じ」

「……ミロルの」

「従兄弟です。あ、髪の色でわかりました?」

「……ずっと」

「いましたよ。途中で交代したので僕は後半だけですが。夜は黒を着ないといけないので、着替え交代があるんです」


 流石に族長筋の「あたま」だからだろうか、にこにこはしているものの、彼はかなりまともに見えた。

「ヴァロ様があちこちの仕事をやっつけてる間、鷲がいれば自由にしていていいことになっていますから──逆に気になるようであれば隣を歩きますが、どうします?」


「ティロロもおいで」

 ルールルーがのんびり言って両腕を広げた。ティロロは小走りにその腕の中へ飛び込むと、楽しげにぎゅっとエルフへ抱きついてから「そうします」と言う。


「……仲が良いのですね」

「え? ああ、今のはエルフ式の軽い挨拶ですよ。仲良しですけど」

「……軽い挨拶?」


 やはり妖精は不可解だと思いながら、温室の階の階段を上って最上階へ向かう。ちらりと後ろを振り返ると、金色の影が星屑を散らしながらさっと木の蔭へ飛び込んだ。


「花冠、上を見て」

 その時ルールルーが言ったので、シラは顔を上げ、そして思わず足を止めて頭上の光景をまじまじと見た。


「……え?」

「綺麗だろう」


 確かに、綺麗は綺麗だった。深い藍色をした空間に無数の白い光の玉が浮いていて、それがどこまでも遠く続いているように見える。だが、それが一体何なのかわからない。


「……夜空、いや、宇宙?」


 階段を上り切り、踏み込もうとして躊躇した。床がない、ように見える。上にも下にも永遠に青い空間が続いていて、その中に淡く光る魔法陣が、夜空に浮かぶ巨大な光の紋様がずっとずっと見えなくなるような向こうまで足元に広がっている。それは言葉にできないほど壮大で──なのにどこか、幽かに虚しい光景だった。何に空虚さを感じているのかシラにはわからなかったが、なぜか確かにそう思うのだ。


「──君はこういったものを好むと思っていたが、あまり気に入らぬようだな」

「え?」

「シラよ、君に課題を与えよう」


 振り向くと賢者がいた。ルールルーに手にした小枝でツンツンとつつかれながら、鬱陶しそうにそれを手で払い、その隙間を狙ってまたつつかれている。


「……やめなさい」

「アーリャシュパ、久しぶり」

「……ああ、久しぶり。しかしその呼び名は」

「今日は、怒っていない? 君は神殿にいるといつもイライラしているから。月の塔は楽しい?」

「ああ。楽しい、楽しい」


 纏わりついてくる妖精をあからさまにいい加減にあしらってから、かなり勢いを削がれた様子の賢者が眉を下げてシラへ目を戻した。


「……課題ですか?」


 しかし尋ねると、賢者は少し楽しげに瞳を輝かせて微笑む。

「ああ。我が弟子よ、この夜空の大天文陣を改変し……君の眼鏡にかなう美しい星空を作り上げることを、君の賢者戴冠の課題としよう」


 きょとんとしていると、賢者は迎えたばかりの弟子へ問うた。

「ヴェルトルートの空がなぜ青いかわかるかね?」


 ありきたりな答えならいくつか思いついたが、質問の意図がわからずに黙ったままでいると、彼はシラの答えを待つことなく先を続けた。

「例えば陽光によって体内時計を調整するだけならば、強い光源さえあれば済む話だ。しかし人類は実に二千八百年の時をかけ、この大洞窟の空に晴天の青を、そして朝と夕を、曇りと雨、風、そして月と星を生み出してきた」

「人は……空がなければ生きてゆかれぬ理由があると?」

「そこまでは言わぬ。しかし、見上げても洞窟の岩しか見られぬ時代、人間の文化は衰退する一方であったと言われている。暗く閉ざされた空間は人々から少しずつ気力を奪い、希望を奪い、出生率は下がり、人は種族として徐々に衰退していった」

「しかし、人工天の魔術が完成したのは紀元後二千年以上経った時代です」


 嘗て魔王によって滅ぼされた地上の世界が黎明の勇者レヴィガヴルによって浄化され、人は再び地上で暮らすことができるようになった。現在使われている暦は、その浄化の年を元年としたものである。人類が地上を取り戻した後に完成された魔術に、果たしてそこまでの切実な思いがあるのだろうか。


「滅びの時代から二十二代に渡って、神に選ばれた勇者はその使命を全うしてきた。しかし一度あったことだ、二度と起こらぬとは決して言えぬ。勇者が再び仕損じた時、人類には逃げ込む土地が必要だ。故にこの国の人間は地上を取り戻して尚この大洞窟に留まり、地上と変わらぬ天候と気候を作り上げ、麦を植え、ヤギと羊を飼い、訪れるやもしれぬ『その時』に絶望に満ちた闇の中からの始まりとならぬよう、この根源の地の環境を維持し続けているのだ」


「それ故に、このヴェルトルートの夜空を美しく描き直すことが私の課題なのですね。いつか、万が一、夜空を見ることができなくなった時のために」

「そう。君も、朝焼けから青空の美しい色合いと雲のたなびきに対して、この夜空はあまりに簡素で面白味がないと思わぬか? 神の目たる月の光だけはそれなりに作られているが、星となると明らかに単純な術が使われている──二十二代勇者アシェルが浄化を成して、三百七十六年が経った。世界の崩壊まで、予測される猶予はおよそ三十五年だ。故にシラよ、できればそれよりも早く完成させてくれたまえ」


 その「もしもの時」がもう間近に迫っている可能性があるとそう言われ、シラは今一度目を上げて白い星がふわふわと浮かぶ夜空を眺めた。魔石のランタンによく似たその青白い光は美しいが、その美しさはどことなく人工物めいているように思う。


「わかりました。強く弱く瞬き、季節によって違う星座が描かれるという星々を描く陣を考案いたします」


 責任重大だが詩的な課題に、シラは口の端を上げて微笑みながら宣言した。すると賢者もにやりと笑い返し、魔法と顕現が混じり合ったような不思議な紋様のそこここを指差して、研究意欲に燃える弟子へ丁寧な解説を始めたのだった。





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