二 迎えの馬車
そろそろ到着する頃だと聞いてから、シラは書架の本をざっと眺めては窓から外を覗き、忘れ物がないか鞄の中身を丁寧に確かめてはまた書架の前に戻るというのを繰り返していた。
「落ち着きなさい」
賢者が扉を開けたままの奥の部屋から言う。出かける支度を終えた二人は応接室のある一階まで降りてきて、そこで迎えの馬車を待っていた。流石にノッカーが鳴らされてから二十階分を駆け下りるのは大変だし、二階から四階までには床以外に座れる場所がないからだ。
「
「そうだな」
シラは歩き回るのをやめて応接室の椅子に浅く腰掛け、先程から気になって訊こうか訊くまいか迷っていたことを賢者に尋ねた。
「どこの家の方がいらっしゃるのでしょう」
鷲族とは「空の守護者」と呼ばれる、月の塔の最上階に設置された人工天の魔術を守っている一族である。彼らは背中に羽のある妖精族フェアリの血を受け継いでいると言われ、小柄で身軽な体格に美しい容姿を持ち、そして必ず何かひとつ、特別な能力をもっているのだという。例えば「頭」の家なら並外れた判断力と統率力、「耳」の家なら猫やネズミにも優る敏感な聴力──
「
そして「目」の名前を持つ一家は、その特殊な瞳でもって遥か遠く山の向こうまでを見通せる能力を持っていて、その両眼を細い布の帯で覆い隠した特別神秘的な装束を着ているのだという。シラはそんな人間と話ができるかもしれない機会に胸を高鳴らせながら、しかし賢者の物言いに苦笑いを浮かべた。
「索敵って……」
「月の塔へ向かおうという我らにとっては敵のようなものだろう」
色々と言いたいことはなくもないが、そこまで状況を把握していながら極めて自然体で「魔術は異端ではない」とのたまう、その自信と余裕が流石賢者様ではある。話を聞く限り、どうやら彼が神殿の目から隠れようとしているのはあくまでも面倒事を避けるためであって、神殿の方針に反して執行猶予を言い渡した監察者の温情を即日で裏切ってしまう罪悪感は微塵もないらしい。
しかしそんな人だからこそ、この人についてきて良かった──
シラはそう考えて、しばらくぶりにすっきりした背中に意識を遣って微笑んだ。賢者はあの日、監察者がそのことを言い忘れている間にと、審問室を出るなりシラを寝室塔の自室に押し込んで、背中の祝福紋を一気に引き剥がしてくれたのだ。思い出されたら保護観察の条件に加えられかねない、監視付きの日常などごめんだと、善悪ではなく好き嫌いで行動に走るこの賢者の「道の選び方」に、シラは今までにない衝撃を受けた。それが良いことなのか悪いことなのかはわからなかったが、しかし今は、そんな彼から教えを受けるのだということが楽しくて仕方ない。こんな道もあんな道も許されて良いのだと、今までずっと我慢してきた「楽しそうなこと」を全部させてくれそうなこの先生が、彼はもう既に大好きになりかけていた。
それから少し浮き立っていた心も落ち着いてきたころ、塔の外に馬車がつけられる音がしてシラ達は立ち上がった。カーンカーンと、存外良く響く音でノッカーが叩かれ、賢者が戸を開ける。
「あ、どうもどうも、グリフォン商会です。急遽お弟子さんを取られたとかで、ご注文の品、着替えとか諸々ですね、お届けに上がりました」
麦藁色の髪にそばかすの散った顔、しかし垢抜けない要望の割に身なりのいい中年の男だった。賢者が「頼む」と頷いて、男が「へい」と笑顔で手にした帽子を被り直し、馬車の荷台からいそいそと木箱を運んでくる。結構な大きさの箱がどさりと塔の床に置かれ、賢者が扉を閉めた。
その途端、ゆらりと空気が揺れて商人の男が姿を消し、その代わりにシラの肩くらいの身長の小さな人影が現れたので、彼は仰天して半歩後ずさった。淡い灰色のマントを着込んでフードを下ろしたその人は、どう見ても只者ではない身のこなしでピシリと背筋を伸ばし、胸に手を当てて丁寧に頭を下げた。
「お迎えにあがりました、トルムセージ、弟子殿」
高めだが凛々しい男の声だ。これは凄いぞと感動しかけたシラだったが──顔を上げたその男があまりにも楽しそうな満面の笑みを浮かべていたので、ぽかんとなって思考が停止した。
悪戯っぽく笑んでいる目つきが印象的なその青年は、どちらかというと儚げなトーラとはまた雰囲気の違う華やかな容姿をしていた。彼は色鮮やかな金髪緑眼で、密偵とか暗殺者とかが着ていそうな雰囲気の、ぴったりとした灰色の装束が全然似合っていない。
「『瞳孔』の、フェン・フィライ=アオグです。ファロルとお呼びください!」
ものすごくにこにこしながら青年が言った。彼が一言話す度、世界最高の魔法陣を陰から守り続ける守護者の一族という硬質な印象が、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。
「あっ、箱の中身は本当に着替え、といっても肌触りのいい下着とか、可愛いパジャマとか、もこもこ靴下とか、そういうやつです! お土産だよ!」
色合い以外も明るい緑の目がこちらを向いたので、シラはあまりの朗らかさにたじろぎながらもごもごと礼を言った。妖精のような青年がさっそく木箱の蓋を開けて「ほら!」と言いながら、一面にヒヨコの絵が染められたネグリジェを引っ張り出す。絶対着たくないと思いながらとりあえず頷いていると、賢者も困惑しきった顔でそれを凝視していた。
「あ、擬態解いちゃったので、かけ直してもらえますか? 僕はできなくて」
「ならばなぜ解いた……」
賢者がぼそりと言いながら杖を振ると、再び空気が蜃気楼のように揺らめき、楽しげな青年は中肉中背の商人の顔に戻った。
「だって、擬態したままご挨拶するのは失礼でしょう?」
「礼儀のことを細かく言うならば、かけ直せないことを断った上で解術の了承を得る方が丁寧かと思われるが」
「確かに!」
商人がけらけらと笑って、木箱の中から大きな花柄の布を引っ張り出すとそれを床に敷き広げた。そして「よっ!」と言いながらその上で木箱をひっくり返し、中の衣服類をバサバサとその上にぶち撒ける。出てきた布はどれもこれも色鮮やかで、半数は小鳥や花や猫の絵柄が入っているのを見て、シラは顔を引きつらせた。
「空の箱を僕が荷台に積み込みますから、その隙にお二人も荷台へ上がってくださいね。座席はありませんが、クッションはたくさん詰め込んでありますから、ごろごろしてるといいと思います」
ファロルがにこにこと言った。賢者が頷いてもう一度杖を振る。目の前の人間がふわりとかき消え、突然自分の体が透明になったシラは両手を目の前にかざしてひらひらさせたが、全く何の気配もなくてぞっとした。
塔の外に出て、鷲族の青年が商人そのものの口上でいとまの挨拶をするのを見守り、彼が空の木箱を荷台に放り込むのに合わせて中へ潜り込んだ。馬車の中には確かに色とりどりのクッションが山積みにされていて、ほんのりラベンダーの香りがつけられている。
腰を落ち着けるとほぼ同時に、馬車が走り出した。居心地はどうだとか出発するぞとか話しかけてくると思っていたので驚いた。ガタガタ揺れる馬車の中、賢者が器用にも立ち上がったような気配がして、少しすると姿を消していた擬態が解かれた。シラが問う前に「馬車に魔力遮蔽性があるようだ」と解説が降ってくる。
「
そう言って賢者はバタンとクッションの海に倒れ、シラに背を向けて喋らなくなった。シラも言われた通り横になってみたが、ファーリアスにしろファラにしろ水の愛し子にしろ、こんな風に隣に誰かがいて眠れたためしなどほとんどない。しかしどうやら今まで眠気を感じていなかったのは目まぐるしく変わる周囲の環境のせいだったらしく、青紫色のクッションを抱えて丸くなるとすぐに自分でも驚くような重たい眠気に襲われて、シラはまるで魔法にかけられたかの如くストンと眠りに落ちたのだった。
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