十二 審判



 ソロは手にした鎖をじゃらりと持ち上げ、錠を使って壁に繋いだ。審問室の空気は冷たく、湿った石の匂いがする。


「参ったか……枝神官、ナーソリエル」

 様子をじっと見守っていた監察者が言った。部屋の中には彼と破壊者、火の審問団が四人に数を減らしていて、その代わり、暗赤色の衣を着て子供用の短い槍を握ったフラノがいた。


 根神官になったか……。


 ハイロもそうだが、兄のフラノも周囲から頭ひとつ飛び抜けた豊かな魔力を持っていた。きっと身体能力も高いのだろう。とはいえ庭で石を拾っているような引っ込み思案の少年が「適正あり」になるとは思っておらず、ナーソリエルは困惑と心配が混ざり合った気持ちで彼を見つめた。


「火の審問団に、種から上がったばかりの子供を加えたのか?」

 尋ねると、答えたのは火の第一審問官だった。

「いかにも」

「なぜ」

「最も能力が高かった」

 なぜではなく、なぜが気になっていたのだが、あまり深く質問するのもまずいような目をしている。


「これより……審問を、始める」

 その時、ナーソリエル達の会話を邪魔するように監察者が言った。しかし、どうも口調がおかしい。前回はもっと強く響く声で朗々と話していたはずだ。


「審問とは、どういうことだ? 前回の審判の後、異端思想と捉えられるような言動は一切なかったはずだ」

 問うと、監察者が額を押さえて呟くように言う。

「その、質疑には──」

「──汝は逸材なのだ」

 遮る声があった。太い石柱の陰から、生成色の服を着た人間がゆらりと歩み出る。頬がこけ、目が落ち窪んだ背の高い老人。


「ダナエス神殿長猊下」

「愛し子でありながら魔術に傾倒し、神から特別に授かったその力を冒涜の術式に使う──そうやすやすと賢者に奪われるわけにはゆかぬ」

 光と闇の伉儷神こうれいしんに仕える天の神殿長は、青黒い奇妙な色の瞳で意味ありげに、壁に掛けられたランタンを一瞥した。押収されなかったので油断していたが、発見されていたか。


「……見せしめにする気か」

 ナーソリエルが言った。

「おや、決してそのような。異端を裁く権限を持つは根と監察者のみだと、汝もよく存じているだろうに。私はただ、異端に染まってしまった若者を救ってやれなかったと嘆く、無力な老人に過ぎぬ」

 いかにも優しく誠実そうな、しかし水の神殿長とは決定的に何かが違う笑みを浮かべてダナエスが言った。そしてゆったりと服の裾の襞を整えて、一言「ソロ」と呼ぶ。


 ソロが小さく何か袖の内側で手を動かすと、隣に立つ監察者が苦しげな息を吐いて再び額を押さえた。そして虚ろな声でぽつぽつと話し始める。

「汝へ問う……ナーソリエルよ、汝は、魔術、に、ついて」


「ローファル」

 その時破壊者が早足に歩み出て、監察者の肩に触れた。

「様子がおかしい。審問は中止だ」

 凛とした女性の声が響いた。監察者の背に手を当て、小さな声で「どうした? 腹が痛いのか?」と尋ねている。確かに彼女の位置からはソロの動作が見えなかっただろうが、この言動は少し──


「おや、体調が悪いのかね?」

 神殿長が眉を下げて心配そうに尋ねた。監察者が弱々しく首を振り、破壊者が「無理をするな」と手を伸ばして腹をさすってやった。


「少し隣室で休みなさい。彼女の言う通り、無理はいけない」

 破壊者が胸に手を当ててほっと息をついたその瞬間、漆黒の衣のその人が突然バタンと床に倒れた。ナーソリエルがぎょっとして身動みじろぎし、手枷がガチャンと音を立てて手首に傷をつける。いつの間にか破壊者の背後に立っていたソロが、彼女の背に当てていたらしい手をゆっくりと下ろした。


「……彼女に何を」

 ナーソリエルが尋ねると、ソロは「眠っているだけです」と呟いた。相棒を失神させられた監察者はしかし、ゆらゆらと体を揺らしながら無言で立っているだけだ。


「続けられるかね、ローファル?」

 ダナエスが猫撫で声で尋ねた。ゆらっと曖昧な頷きが返る。ナーソリエルはもどかしさで歯噛みした。この中で気の愛し子は自分だけだ。手枷さえなければ、額に手さえ届けば術を解いてやれるに違いないのに。


「ナーソリエル、そなたは……」

「『監察者本人』による、正当な審問以外を受けるつもりはない」

 ぼそりと言うとソロが僅かに目を眇め、ダナエスが視線だけでナーソリエルを見た。


「……何が言いたい?」優しい声。

「つい今朝まで、私は祈りの間でサフラの祈りを唱えるよう言いつかり、そうしていた」

「ふむ」

 神殿長が腕を組み、視線で続きを促す。

「私は命じられた通り、こう祈った。『私は知りませんでした。この身に満ちる力が、あなたの祝福であったなど──』」


「その祈りを、どこで」

 神殿長の青黒い目が、すっと表情を失った。しかしナーソリエルはそのまま続ける。

「『ハークの書』、『怠惰の章』、『疫病の冬』、『祝福の紋』……全てに共通する思想は、実にはっきりとしていてわかりやすい。人は醜く汚れた存在で、肉体の生み出す欲求はその最たる者である。睡眠は勉学のために削られるべきで、食は他へと譲り与えるべきもの。性は恥じ、慎み、懺悔すべきもの。自らの幸福を他者のため犠牲にすれば、神は何より汝を尊ばれるであろう」


「……よく、わかっているではないか」

 ダナエスが吐息の混じった鋭い声で、脅すように言った。魔力の豊富な老人の燃えるような視線に怯みそうになるが、しかしそれよりも大きな怒りが頭の内側を巡って、恐怖をかき消してゆく。


「──そんな神典に、何の価値がある!」


 ナーソリエルは怒鳴るように言った。手枷の縁が肌を切り、血が流れたが、それにも気づかないほど怒っていた。

「一見して神へ、そして他者へ際限なく尽くせる、素晴らしい人間のように思えるな。しかしその実態は違う。あなた方はこの神殿の中を、神官達の表情をきちんと見たことがあるのか? 食事をする度に感謝でなく懺悔をする信仰が、ゆき過ぎていないと言えるのか? 赦しと導きを願うばかりの祈りを唱えながら『神に尽くし仕える』という神官の本分を忘れていないと、心から言えるのか? ああ、きっと言えるのだろうな。神の愛と、恵みと、祝福の文言を破り取り、人の醜さと罪と罰を書き足す行為が神でなくあなた方の思想を植え付けるものだと、気づいてすらいないのだから」

 ソロがフンと鼻を鳴らし、ダナエスが腕を組んで「……まあ、良いだろう」と言う。

「聞きたいことはおおよそ聞けた。汝もそうであろう、ローファル?」

 いつの間にか揺れは収まったものの、今度は棒立ちのまま微動だにしなかった監察者が、ダナエスの問いかけへおもむろに反応した。


「……処刑を」

 虚ろな声が、そう言った。


「聞いたかね? アドよ」

 ダナエスが半ばうっとりした視線を、火の審問団へ投げた。名指しされた第一審問官がナーソリエルを見つめ、困惑した顔で周囲の仲間達を見回す。三人が小さく首を振り、フラノは真っ青な顔で震えていた。


「神殿長猊下、私にはこの審判が正当なものとは思えない」

 第一審問官が言った。ダナエスが「そうかね?」と首を傾げる。

「即ちそなたも、異端思想に染まっていたと。異端審問官でありながら、嘆かわしい」

 ダナエスがすっと視線を動かし、監察者が壊れた人形のように「処刑を」と囁いた。


「ソロ?」

 穏やかな声とほとんど同時にソロが動き、第一審問官が槍先に炎を灯して身構える。

「『動くな』」

 魔力の込められた声。命令通り動きを止めた火の審問官の額に、ソロが自らの額を重ね合わせる。強い魔力の気配。


 全ては一瞬の出来事だった。


 見開かれた瞳からすうっと光が消え、アドと呼ばれた男は槍を取り落とすと後ろに倒れ込んだ。慌てて支えた第二審問官が、掠れた声で「……死んでいる」と言う。

「アド、そんな……嘘よ」

 第三審問官が口を手で覆い、第四審問官が目を見開いてソロを見る。ダナエスがその様子をじっと観察し、そしてにっこりと称しても良いような明るい笑顔を浮かべて言った。


「──フラノ、汝が執行しなさい」

 震えていたフラノがさっと顔を上げた。月のような金色の瞳がみるみるうちに絶望へ染まり、青い顔が更に色を失ってゆく。彼は死した審問官をじっと見つめ、ダナエスを見て、そしてナーソリエルを見た。


 助けてくれ、と言おうとした。少年はまず間違いなく、そう言えば思いとどまってくれるだろうと確信していた。


「……やりなさい、フラノ」

 しかし口が勝手にそう言っていた。ソロがこの上なく愉快そうな顔になり、ダナエスも満足げに微笑んだ。


「……ナーソリエル」

 小さな小さな声がそう言った。


「そなたは異端に染まっていないと、この場で証明しなさい。そなたが処刑されれば、ハイロが悲しむ」

「……異端に」

 そう呟いて、少年が槍先に火をつけた。薄暗い地下室に夕焼け色の光がぼうっと広がり、細かな火の粉を散らしながら鮮やかに揺れる。火の愛し子らしい、澄んだ色の炎だった。


 フラノがやらなければ、どうせソロが私を殺すのだ。ならばせめて、子供の命くらい守って死にたい。


 手足の震えを懸命に押し殺して、ナーソリエルは自分にそう言い聞かせた。フラノが槍をくるりと回して、小さく祈りを唱える。子供ながら見事な槍捌きだ。あれなら、きっと楽に──

 しかし、彼のその思考は途中で途切れることになった。蒼白な顔のフラノが涙を浮かべながら槍先をダナエスへ向け、そしてソロがその彼へ向かって杖を持ち上げるのが見えたのだ。


 ダンと、力一杯床を踏みつけた。ナーソリエルの右足の下に大きな魔法陣が出現し、そこから放たれた音波がぐわんぐわんと低く唸りながら広がって、ソロの放つ術を吹き飛ばす。


 本当に咄嗟のことだった。間に合ったのは奇跡だ。頭の中が真っ赤に染まって、何も考えられなかった。本能が急かすままに駆け、よろめいたフラノを抱きかかえてうずくまった。少年がガタガタと震えながらナーソリエルの背に手を回し、ナーソリエルの腕からはボロボロに風化した手枷の最後の破片が崩れ落ちた。


「ソロ、二人纏めて頼んでもいいかね?」

 少しも動揺していない、ダナエスの声が響く。

「ええ、勿論です」


 一度は退けた。しかし次はきっと無理だ。


 しかしナーソリエルがそう思ったその次の瞬間だった。火の審問団の誰かがハッと息を呑む音が聞こえ、ソロが素早くそちらを振り返る。

「──ダナエスよ、私の弟子に何をする気かね?」

 低い低い声が響いた。




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