十 おはようございます
それから賢者様は「文字が……」と呟いたきり精彩を欠いた様子で口数が少なくなった神殿長から、そのよく回る口で難なくナーソリエルの保護をもぎ取ってくれた。とはいえ流石に今すぐに神殿を出るというわけにはゆかず、研究諸々の引き継ぎを終えたおよそ半年後、冬の祝祭を過ぎたナーソリエルの十七歳の誕生日に還俗の儀を執り行うこととなる。
「感謝いたします……トルムセージ」
談話室を出て、扉の前で待っていたらしいマソイと並んで歩きながら小さく呼び掛けた。先を歩いていた賢者が振り返り、ひょいと肩を竦めて言う。
「神の望まれたことだ、比喩ではなく。叡智の神の神託とあらば、私とて流石に従わざるを得ない」
「……それでも、神への感謝と共に貴方へ感謝を。貴方の行動に、私は救われました」
思わずカイラーナのように涙で湿った感謝を口にすると、マソイが目を丸くして、賢者が「やめなさい、感傷は好かぬ」と呟いた。
「……君と気が合いそうだね」
マソイが口の端をむずむずさせてぼそりと呟く。そんなところで気が合ってしまうと恐ろしく関係が希薄になるのではと思ったが、しかしそんな風に言われたこと自体は悪くなかった。
研究塔を出て、賢者の見送りをしようと門の方へ歩き出す。が、その時賢者様が首を振って立ち止まったので、ナーソリエル達は首を傾げた。
「話がある。部屋へ招いてくれたまえ」
「えっ……はい」
ナーソリエルが目をぱちくりとして頷き、「このことは内密に」と言われたマソイもこくんと頷く。すると賢者様は周囲を見渡してから小声で呪文を唱え、ふわりとその場から姿を消した。マソイが小さく「うわっ!」と声を上げる。
「……何だね」
「あ、すみません!」
賢者の声がして、マソイがさっと手を引っ込めた。両腕を伸ばしてあちこち探っていたので、どうやら賢者様に触ってしまったらしい。馬鹿らしいと思ったが、とはいえ今ので彼が消え失せたのではなく、周囲の光の道筋を歪めて擬態しただけだとわかった。
未だ不思議そうにきょろきょろしているマソイと別れ、透明になった賢者を連れて寝室塔へ向かう。いつもならばとっくに勉強を始めている時間だったが、今日は早朝にカイラーナが水の神殿に連れて行ってくれたおかげで、一日安静にするよう水の神殿長の名で指示が出ていた。
狭い階段を上っていると、いつの間にか前を歩いていたらしい賢者の背中に顔から突っ込んだ。「気をつけなさい」と声が飛んできたが、しかしいくら一度訪れたことがあるからといって、私室に招かれようという時に部屋の主の前を偉そうに歩いている方が悪いと思う。
と、賢者が階段の最上段で突然立ち止まり、ナーソリエルは再び紙とインクの匂いがする背中に激突した。
「……ふむ、待ち人があるようだが」
賢者が小声で言う。透明な彼を透かして向こうを見ると、部屋の扉の前にファーリアスが膝を抱えて座り込んでいるではないか。
「水の葉、明らかに魔力の強い、淡く光る瞳の愛し子……もしや彼がファーリアスか。彼は信用できるのかね」
「……ええ」
頷くと、ならばひとまず部屋へ入れなさいと指示が飛ぶ。なぜあの子供の名前をと思ったが、そういえばファーリアスはその類稀な才能によってこの国へ招かれた、特別な少年だったと思い出す。
「……ファーリアス」
「ナーソリエル!」
ナーソリエルの呼びかけに顔を上げたファーリアスが立ち上がって駆け出し、前に立っていた賢者に激しくぶち当たってひっくり返った。頭を打つかとひやりとしたが、咄嗟に賢者が掴まえたらしく、空中で不自然に動きを止めてストンと立たされる。
「……えっ?」
「説明する。部屋へ」
少年が混乱し始める前に素早く言うと、ファーリアスは手を伸ばして賢者様の腹のあたりを念入りにぺたぺた触り、「誰かいます……」と呟いてから頷いた。遠慮なく触られてしまった賢者が咳払いをして、ナーソリエルは笑い出すのを堪えながら部屋の鍵を開ける。中へ入って戸を閉めると同時に、賢者が擬態を解いて姿を現した。
「わ、賢者さま! おはようございます! あなたに水の恵みを!」
現れた黒衣の男を見たファーリアスが仰天し、そして驚いた口調のまま流れるように朝の挨拶を決めた。賢者がぽかんとした顔になって、じわじわと眉をひそめながら「……君にも、オーヴァスの祝福があるように」と呟く。
「ナーソリエルのところに、こっそり遊びに来たのですか?」
「……まあ、そのようなものだ。君は?」
「ナーソリエルの熱が高いと聞いたので、私もお休みをもらって看病に来ました。あと、一緒にお昼寝もします! 風邪を引いた時にひとりぼっちは寂しいでしょう?」
「……面白い友人を持ったな、ナシルよ」
満面の笑みになったファーリアスを見下ろし、賢者が平坦な声で言った。まあ確かにかなりの変人ではあると思って頷いておく。
「さあ、浄化して差し上げますからお布団に入ってください。もうすぐエルトールがお粥を持ってきてくれますからね。昨日から何も食べていないのでしょう? 全く気の神殿には、どうして『祈りの間』なんて変な場所があるのでしょうね?」
「……水には無いのか?」
まさかと思って尋ねると、ファーリアスがうんと頷き、賢者が言った。
「むしろ気にしか存在せぬ。反省室の起源は神殿ではなく、書架の国の初等中等教育文化にある故に」
「初等教育……それはまた、随分と」
「元来はひとり静かな環境で反省文などを書き、心の整理をつけさせるためのものだ。断食をし、限界まで祈り続けるような習慣は神殿独自のものだが」
話しながら賢者がファーリアスの方をすっと流し見て、緩やかに片手を振った。するとその途端に水の愛し子が首をかくんとさせて、手の甲で目を擦ると何事か呟きながら、ナーソリエルの寝台に潜り込んで目を閉じる。
「……眠りの術に倒れるでもなく、抗うでもなく、寝台で毛布を被った者は初めて見たな」
「ファーリアスですから」
そうとしか言いようがなかったのでそう口にすると、賢者は眉をひそめてもう一度笑顔ですやすや眠る少年を見て、軽く肩を竦めると「……まあ良い」と考えるのをやめた。
「……すまなかった。私があのような本を渡したばかりに」
そして磨いた刃物のような薄青の瞳でナーソリエルをじっと見つめ、どこかおずおずと慣れない様子で謝罪した。ナーソリエルは首を振って少しだけ微笑む。
「神典の改定について私が知っていることは、まだ露見していません。それに私も、わかっていて受け取ったのです」
「審問の後には部屋へ捜索が入るかと思うが、どこかへ隠してあるのかね」
「いえ、その審問の直後にヴァーセルスが部屋へ来て……今は彼が預かってくれています」
「ヴァーセルス、音楽の祝い子か。彼も君の『仲間』なのか?」
賢者の問いに首を振る。
「いいえ。そういう意味での『仲間』はマソイ、貴方を談話室まで案内した同期の枝神官だけです。ヴァスルは私の指導役で、ただ、私の身を案じてくれているだけで」
「そうか。ならば休む前に彼の部屋へ案内したまえ。神典は私が回収する。思っていたよりもここへ置いておくのは危険であるようだ」
さっと立ち上がって魔法で姿を消し、部屋の扉を開いた賢者に慌てて続く。眠っていたヴァスルをノックで叩き起こし、虚空から響く賢者の声に目を丸くした彼から無事神典を回収した。
「ナシル、君は部屋へ帰って眠りなさい。見送りは不要だ」
賢者が言って、挨拶をする間もなく小さな足音が遠ざかり始める。
「あ、ありがとうございました!」
慌てて小声で言うと、足音が止まる。
「……あまり細やかに構ってはやれぬが、少なくともここの生活よりは幸福な日々を保証しよう。待っているぞ、シラ・ユールよ」
静かな声がして、気配が遠ざかっていった。困惑した顔のままのヴァスルがナーソリエルの肩に手を掛けると「ナシル……もしかして」と囁く。
「……ああ。どうやら、私は次の冬に神殿を出ることになるようだ」
自分で呟いて、その内容が実感できずに頭の中で反芻した。じわりと喜びが広がって、ナーソリエルは拳を胸に当てると、目を閉じて神に感謝を捧げた。
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