五 ルールルー



「ルールルー殿」

 喘ぐように囁く。自分からそんな声が出たことに上の空で困惑しながら、走り出した。庭園の端、気と水の間の庭に見える白く背の高い影。キラキラと光る魔力光。間違いない。


「ルールルー殿! 待ってください、ル、っ!」

 必死で走る勢いのまま、飛び石に足を引っ掛けて転倒した。石の地面に頭から叩きつけられると息を止めたが、その前にふわりと体が浮かぶ。目前の地面に、純白に光る風の魔法陣があった。魔法ではなく、魔術だ。


 と、脇の下に手を入れて持ち上げられる。神殿で魔術はまずいと思っていたのを忘れて、ナーソリエルは慌てて自力で立ち上がった。とてもとても背の高い、胸が苦しくなるくらい美しい銀髪の妖精が、ナーソリエルの頭をものすごく撫で回した。


「花冠……大きくなったね。良い毛並みだ」

「ルールルー殿」

「本当は明日になってから来ようと思っていたのだけれど、君が歌うと聞いたから。綺麗な歌声だった」


 そう言いながらルールルーが足元の何かにふと目を留めて、さらさらと空中に何かの魔法陣を描き始めたので、ナーソリエルは慌てて「ルールルー殿、ここで魔術はちょっと」と囁いた。


「どうして?」

「神官達は魔術を嫌っていますから、危険です」

「……こんなに可愛い模様なのに? 変わっているね。でも大丈夫だよ、ここには君と金色の子しかいないから」


 全く躊躇することなく全ての陣が描かれ、ここのところ晴れ続きで少し萎れていたラベンダーの茂みに、さらさらと優しい雨が降った。ルールルーは風変わりなな旋律の鼻歌を歌いながら、陣を描いていた指を流れるように自分の頭に回し、髪に飾られていた白いキンポウゲの花を一本抜き取ってナーソリエルの耳の後ろに差し込んでくる。


「よしよし、かわいいね」

「魔法ではなく、魔術なのですね」

「私は魔法が使えないからね、魔術を覚えたんだよ」


 え? と思ったが、その理由を尋ねるのは失礼だろうと思って口をつぐむ。その代わりに、一番訊きたかったことを口に出した。

「あの、エーリュミルは?」

 美しいエルフは首を振った。

「今日は私と、私の番だけだよ。妖精は小さな子を、多くの人間が生息する場に連れて来たりしない」


 何か返事をするべきだったのだろうが、落胆が思いの外深く、ナーソリエルは黙り込んで肩を落とした。それを見たルールルーが猫か何かのように顎の下を指先でくすぐろうとしてきたので、仰け反って避ける。


「あの子に会いたかったのだね……よしよし、元気を出して」

「顎は触らないでください」

「頭を撫でられたいのだね、よしよし」

「番って……奥方ですか」


 相変わらずルールルーはエーリュミルの父親なのか母親なのかわからなかったが、とりあえず背が高いのでそう尋ねてみた。

「そうだけれど、どちらが妻でどちらが夫なのか、エルフに尋ねてはならないよ。人と違ってエルフの性別というのは、愛する人との間にしか存在しないものだから」

 優しい声でたしなめられて、ナーソリエルは頬を赤くすると慌てて謝罪した。下げた頭をこれでもかと撫で回されて困惑したが、花の香りのする妖精の手は不快ではなく、それどころか、もう少しこうされていたいというような気持ちになる。


 顔を上げてそっと見回したが、ここにはルールルーひとりしかいないようだ。

「ラーナミュネは、あの小さな風の子を可愛がりに行っているよ。あの子の歌をとても気に入ったようだ」

 ルールルーが気の庭園の方を見ながら言う。妖精に好かれそうな歌声だと思ってあのような伴奏にしたが、本当にエルフに気に入られたのだと思って少し誇らしい気持ちになった。


「──花冠、アーリュシュルから手紙が届いたよ」

 と、突然目の前のエルフがそんなことを言い出したので、ナーソリエルは目を丸くして彼を見上げた。


「……叔父上から?」

「うん。神殿には家族からの手紙を出せないから、伝えてほしいと頼まれたんだ。子供が生まれたのだって」

「……子供が」

「とても元気な、母親そっくりのよく笑う男の子なのだって。花冠と違ってとても激しく動き回るし、最近は竜に乗り始めて、子供とはこんな生き物だったかと、概念が崩されると書いてあった」

「竜に……?」


 ナーソリエルが神殿に入る直前に結婚した、というか、ある日突然竜に乗った謎の女狩人に拐われていった叔父だが、どうやら元気にしているらしい。とても安心すると同時に、もう自分とは全く違う世界にいる彼を思って胸が痛んだ。


 しかしそんな子供ならば、従兄弟殿とは上手くやれそうもないな……。


 落ち込んだ気分を晴らすようにそう考えて、今のナーソリエルは叔父の息子を「従兄弟」と呼んではならないことを思い出した。ぎゅっと、大きな手に肺を掴まれたように息が苦しくなる。


「叔父、アレイ殿は、どうやって手紙を?」

「赤くてかわいい竜が届けに来たよ。上に乗っていた竜混じりが、商人と言っていたかな? そういう風に竜と一緒に遠くまで荷を運ぶ仕事をしているのだって。笛を吹くと呼べると聞いて、私も欲しいと言ったのだけれど、お前はきっと用もないのに呼ぶからだめだと言われたよ。撫でるのも大事な用事なのにね」

 淡く微笑みながら話すエルフは、神殿の人間と同じように穏やかで優しい話し方をしたが、神殿の人間とは絶対的に何かが違う、甘くて親密な気配を持っていた。


花冠リース?」

 優しい声が自分の幼名を呼ぶ。甘やかすような、家族のような声で。


 もう、慣れたと思っていたのに──


「少し、良くない目をしているね」

 背中を引き寄せて抱きしめられ、鋭い胸の痛みに息が止まった。

「……月の塔に遊びにおいで」

 全部わかっているような、静かな声。

「……必ず、必ず行きます! 賢者になって、神殿を出て」

「その時は、言葉を教えてあげよう。君の声がリファールの言葉を話したら、きっと美しい」

「はい」


 涙声になってしまったのが悔しくて唇を噛んでいると、その時ルールルーがさっと身を強張らせ、ナーソリエルを隠すように自分の背後に押しやった。

「静かに……人間が、こちらに向かってくる」

 神殿の祝祭の日なのだから、人間の一人や二人、それは歩いてくるだろう。やはりエルフは変な生き物だと思って背中から顔を出すと、なんとこちらに向かってくるのは書架の賢者アトラスタル様だった。びっくりして、慌ててルールルーの背後に隠れ直す。


「大丈夫だよ、私が守ってあげる」

「──ルールミルエルマルーシュ殿、貴方が塔の仕事以外で人と口を利くなど、珍しいこともあるものだ」

 低い声が咎めるように言った。しかし、エルフはその声を無視してツンとそっぽを向く。

「だが、言動に気をつけたまえ。魔術師と親しくして咎められるのはこの子供だ」


 霧越しに見るラベンダーのような淡い青紫色をしたルールルーの瞳が、背筋が凍るくらい冷たく温度を下げた。

「ここで私が花冠を手放したとして、神殿にいる時の君が泣いているこの子に優しくできるとは思えない」

 静かで平坦な声がそう言った。隣の庭から、慌てた様子で腕にハイロを抱えたエルフが駆けてくる。ラーナミュネというらしい彼女は夫にぴたりと寄り添って、小さく「私のルールルーをいじめるな」と言う。


 ふうと賢者がため息をついて、眉間に深く皺を刻んだ顔でナーソリエルを見た。どうも困っているらしい。

「ルールルー殿、彼は私の憧れの人だから、大丈夫です」

 エルフが冷たい目をやめて振り返る。

「この人間に恋をしているの?」

「は? いや、違います。私も賢者になりたいから」

「エーリュミルに会うために?」

「それだけではありませんが、そうです」

「そう、ならば君を預けてみよう。でも、この人間は神殿に来ると少し凶暴になるからね。怖くなったら呼ぶのだよ」

「はい。……凶暴?」


 ルールルーがナーソリエルの頰に口づけをして去り、ラーナミュネもそれについて行こうとしたが、連れ去られそうになったハイロがこちらに腕を伸ばしたので、一度振り返ってナーソリエルにハイロを手渡してから、夫の後を追いかけていった。抱えた子供が思ったより重くてよろめいていると、賢者が手を伸ばして降ろすのを手伝ってくれる。


「……気のナーソリエルは月の者と親しいと噂になりかけていたが、幸か不幸か彼らはエルフだ。妖精の気まぐれで君の歌を気に入っただけだと、第三者である私から説明しておこう」

「感謝いたします、賢者様トルムセージ

「問題ない。君は、明日の学会には出席するのかね?」

「いえ、私は……魔術師の家系出身ですので、思想が揺らがぬよう、当分三学会には出席させぬことになっています」

「ふむ、そうかね。しかし賢者を目指すのならば、またいずれ会うこともあるだろう」

 エルフと比べると灰色に近い銀髪を揺らして賢者が踵を返し、さっさと歩いて立ち去った。もう少し呼び止めて話を聞いてみたかったが、ナーソリエルの後ろに隠れてトーガにしがみついているハイロがかわいそうなくらい震えているのでやめておいた。彼の言う通り、学び続けていればまた会えるだろう。


「……エルフと何かあったのか?」ハイロに尋ねる。

「……ううん。妖精さんは、かわいいお花を見せてくれました」

「ならばなぜそこまで震える」

「だって、声が怖いから」遠くなった賢者の背を見ながらハイロが呟く。


 書架の賢者はそう目立って声質の低い方ではないと思うが、確かに壮年を少し過ぎたくらいの男性らしく、十五のナーソリエルよりはずっと低音だ。それに神殿の男性神官は、少し高めの優しい発声をする人間が多い。聞き慣れぬ彼の冷たい話し方が恐ろしかったのだろう。


 とはいえこうして自分を盾にして隠れていると、小さなハイロに懐かれた気がしてナーソリエルは少し微笑んだ。気分が良いので庭園のラベンダーを少し摘んで渡してやっていると、通りすがりのマソイがこちらを驚愕した顔で凝視し、パッと両手で口を押さえて走り去る。額に手を当ててため息をつくと、叱られると思ったらしいハイロが額を青くして震え出した。





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