三 水の祝祭



 人前で歌わされるのはうんざりだが、水の神殿の優雅で涼やかな音楽が心ゆくまで聴ける、祝祭の日が訪れた。早朝を司る水の神オーヴァスを讃えるため、祝祭もまた日の出と共に始まる。神官達はまだ暗いうちから起き出して水の神殿に集い、祝祭の準備の仕上げを行っていた。


 外に出ると冷たい雨が降り注ぎ、ナーソリエルは少し眉をひそめて手のひらで顔を拭った。地底国家であるヴェルトルートの天候は人工天の魔術によって作り出されているが、ならば規則正しく日付や曜日に合わせて雨が降るかと言えばそうではなく、ある程度真上の国フォーレスの天気に合わせて雨や風の日が訪れるようになっている。しかし、かといって思い通りに制御ができないというわけでもないので、季節の祝祭の日だけは、その季節を司る神を讃えるに相応しい天候へと調整される。


 つまり今日は日付が変わってから明日になるまで、ずっと穏やかな雨が降り続けるのだ。普段ならば傘を差すなりマントを着るなりするのだが、祝祭の日に降る「浄化の雨」ばかりはその身に浴びるよう定められている。毎年祝祭が始まる頃には服の中までずぶ濡れになっているので、ナーソリエルにとってはあまり喜ばしい慣習ではないが。


 ちらほらと俗世の人間が訪れ始めている間をすり抜け、中央広場に入る。普段の儀式はそれぞれの神殿の儀式の間で執り行われるが、神前内外の人間が数多く集う祝祭の日だけは、広さのあるここが会場となるのだ。


 周囲をずらりと塔に囲まれたこの広場は、しかし風通しが良く、上は広くぽっかりと空いていて、天候の調整によって風も雨も光も取り込みやすいようになっていた。雨季以外の季節の祝祭でも使われるため、この場所の作りは少々特殊だ。中央には樫の大木が枝葉を広げているが、土が露出しているのはその周囲だけで、他は磨いた白い大理石が敷かれている。雨季の祝祭の今日はそこに水が張られ、広場全体が湖のようになっていた。その水に足を浸し跪いて祈るため、今日は誰もが靴を履いていない。


 裸足でバシャバシャと水たまりを渡って、端に置かれた大箱から水飾りを取り出した。淡い青のガラス玉が三つ、繊細な銀細工で連ねられたそれを、梯子を登って中央の大樫の枝に飾りつける。このように手間のかかる準備は前日にしておけば良いものをと思うのだが、「大樹が雨粒によって輝く」のは祝祭の日を迎えてからである必要があるらしく、こうして当日の夜明け前から眠い目をこすりつつ作業をしなければならないのだ。


「おーい、種っ子! 代わるよ。危ないから、種っ子は音楽堂の方へ行ってろ!」

「……ドノス」


 呼びかけられて見下ろすと、ドノスが間の抜けた笑顔でこちらへ手を振っていた。種から葉を過ぎて枝になっても、彼は相変わらずナーソリエルのことを「種っ子」と呼ぶ。どうやらナーソリエルの愛称である「ナシル」と、種を意味する「ナシア」の発音が似ているためらしいが、失礼な幼児扱いなのには変わりないので、そろそろやめていただきたい。


「特に危険は感じないが」

「落ちる奴はみんなそう言う。種っ子ティナッシアは、梯子から両手を離しちゃだめだ」

「……わかった」


 体力がないとはいえ流石に梯子を登るくらいはできるのだが、火の神官の彼にはよほど貧弱に見えるらしい。こういう時にあまり反論すると強がっているように見られると経験で知っていたので、素直に梯子を降りて場所を譲る。


「よしよし、今日はいい子だな。音楽会の方に人手が足りてないと聞いたから、そっちを頼む」

「ああ」


 頭を撫でようとする手を避けると水を渡り、ぺたぺたと濡れた足跡をつけながら音楽堂へ入った。白い通路には他にもたくさんの足跡が残っていて、それを踏まないように慎重に歩く。ああ、早く足を洗いたい。


「あ、ナシル。いいところに来た。イグリアに楽器と譜面台の確認をお願いしたいんだが、伝えてくれるか」

「わかった」


 途中で通路の端にいたエゼク──ナーソリエル達の同期に当たる火の枝神官である──が困った顔を向けてきたので、頷いてやった。安堵した様子のエゼクが走り去るのを目で追って、こちらも困り顔のイグリアに向き直る。彼女もナーソリエル達と歳の近い土の神官なのだが、耳が聞こえない。


(良かった、ナシル)


 手をひらりとさせてイグリアが苦笑した。


(彼はまだ手話を覚えないのか?)

(ええ。今日は濡れてしまうから、紙もペンも持っていなくて。助かったわ)


 魔術師ならば魔力で文字を書くところだが、神官はそんなことに「神聖な祝福の力」を使わない。その遠慮にどれだけの意味があるのか知らないが。


(読唇は)

(彼、口では『ええっと……』しか言わないのだもの)


 あまりにも馬鹿馬鹿しい様子にため息をついてから、要件を伝える。


(楽器と譜面台の確認を頼みたいと言っていた)

(ああ、あの激しくページを捲る動作はそういうことだったのね。それ、一覧を持っているのは私じゃないわよ)

(……誰が担当だ? 伝えておく)

(大丈夫、私が言っておくわ。土はみんな手話ができるから。ナシルは水を張るのを手伝ってあげて。なにか上手くいっていないみたい)

(了解した)


 ひらひらと手を振るイグリアに目礼して、舞台の方へ向かう。神殿の建造物の中で唯一塔の形をしていない音楽堂は、中央広場と同じで季節に合わせて舞台を水で満たせるようになっていた。


 階段状の客席にぐるりと取り囲まれた円形の舞台の隅で、なにやら水の葉神官達が集まって首をひねっている。ナーソリエルが近づくと、顔を上げて一瞬怯えた顔をし、そしておずおずと説教を待つ顔になった。


「何かお困りか」

「……浄化の陣が、上手く定着しないのです。すぐに消えてしまって」

「魔石はちゃんと嵌まっています」

「あの、儀式の準備は今日が初めてで」

 必死に弁解する葉神官達の言葉を聞き流すと、舞台に上がってざっと見渡す。


「ここの、供給回路が一本欠けている」

「え? あっ、そうか」 

 明るい金髪の少年が慌てた顔で言われた箇所に線を書き足した。


「魔石から祝福を補充する陣は初めてか?」

「は、はい」

「供給回路は一連になっているが故に、線の一本でも不具合があればその先の全ての魔石に繋がらなくなる。そうなると、術は通常と同じで瞬発的に発現し、消える。継続させたい場合は特に注意して確認するように。患者の生命維持には欠かせぬ技術だ」

「……はい。申し訳ありませんでした」

 三人の葉神官が悲しげに項垂れた。全く、気が重い。


「誠意を示すならば謝罪ではなく、理解を示しなさい」

「……理解を示す、とは」

「わかりました、と」

「……わかりました」


 暗い声で三人が答え、胸に手を当てて頭を垂れる。うんざりしたが、陣は完成したので発現を見届けずに踵を返した。楽器の点検をしている方へ向かうと、どうやらやり取りを聞いていたらしいアミラが振り返って笑った。


「ナシル、こういう時は『謝る必要はない、ひとつ賢くなったな』と笑ってあげるのよ?」

「……私に、できると思うかね?」

「難しいでしょうね、特に笑顔は。でも、言葉遣いをやわらかくするだけで印象は変わるわ」

「……覚えておこう」

「水さえ張れればこちらはもう終わりだから、広場へ行って朝を待ちましょう」

「そうか」


 アミラと連れ立って中央広場の方へ戻る。他者の足跡を避けて歩いている彼へ「相変わらずね」と笑いかける明朗快活な彼女のことがナーソリエルは少し苦手だったが、彼女はそんな彼の感情もわかった上で、気にせず親しくしているらしい。その点だけは、面倒が少なくてありがたいと思っている。


「あ、広場に行ったら私は学校の子達と待ち合わせだから、ナシルはマソイ達と合流してね」

「……ひとりで構わないが」

「そんなこと言わないの」


 アミラは研究者ではなく教育者としての道を希望していて、俗世の子供達に読み書き計算を教える神殿学校へ出入りしていた。その人柄はナーソリエルからは敬遠されているものの子供達からは大変な人気らしく、祝祭の度に先生々々と取り囲まれて騒がしくしている。


 広場に着くとすぐに目立たない端の方へ移動したが、結局トルスとマソイに挟まれてしまい、面倒だなと思いながら祝祭の始まりを告げる鐘を聞く。早朝の鐘を鳴らすのは水の神殿だ。塔の最上階に大型のベルがあるので、当番の神官は今から慌てて会場まで駆け下りてくるのだろう。ご苦労なことだと思いながら鐘の音を追って見上げると、紺色の空が夜明けの水色に染まり始めていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る