四 潔癖
次の日の朝に受けた試験は、実に簡単だった。
いわゆる主要神──神典的に正しい言い方をすれば天空神と世界神だが──つまり光と闇の神と、その子供達にあたる火、水、大地、大気の神についての十数問の筆記試験と、枝神官によるごく簡単な問答だけで済んだ。「魔術を使う人をどう思いますか」という質問には引っかかるものを感じたが、殊勝な顔で「今は違う道を歩く存在ですが……いつかは共に祈り、感謝し、互いに高め合える存在になれればと思います」と言うと満足そうな頷きが返ってきた。後ろで見ていたヴァーセルスは白けた目になっていたが。
そして新たな葉神官として階位を上げるための儀式を行い、簡単に神殿内を案内されるまでは良かったのだ。無事に個室をもらえてほっとしたし、これからこの美しい神殿で勉強漬けの毎日だと思うと悪い気はしなかった。
問題はやはり、人間関係と──それから、掃除と風呂だった。貴族の館で使用人に囲まれ、子供は年の割に聡明で大人びた兄と二人だけという暮らしとは全く違う大人数での共同生活に、ナーソリエルの心は神殿数日目にして既に悲鳴を上げていた。
「──ナシルだめだよ、感謝だけでは。世界にはね、貧しくって家族でひとつのパンも手に入らないような人だっているんだ。そういう人達のことを考えて、食前の祈りは『今はこの恵みを受けるばかりな私をお許しください』って、そう言うんだよ。本当は皆で分け合わなければならないものを、全部ひとりで食べてしまうのだから」
「世の全てを救う義務を負っているような思考は少々不遜なように思うが、その考えを通すならばせめて謝罪ではなく『与えられる人間となれるようお導きください』と、そう祈る方が良いだろう。しかし、一体いつから神殿は人々へ教えを広め、人間社会の豊かさや平和を調整するような宗教になった? 神官はただ神に仕えるのみ、俗世との関わりを絶って身も心も清めよと、そう神典には記されているというのに」
「ナシル、何を言っているの? そんな風に、反論ばかりではだめなのよ。マソイの方がお兄さんで、五歳から神殿にいるのだから、言うことを聞いて」
口を挟んだアミラが泣きそうな顔になって、はじめにナーソリエルを注意したマソイが不機嫌そうに眉をひそめた。年上の先輩だから従えだと? 馬鹿馬鹿しい。うんざりしてため息をつくと、二人とも腹を立てたように視線を強くする。
マソイ、アミラ、それからもう一人トルス。この三人がナーソリエルと同じ気の葉神官だ。このヴェルトルート中央大神殿はスティラ=アネスの総本山だが、同期はこの三人しかいないらしい。それだけ色持ち、つまり光以外の属性を授けられた魔力持ちは貴重なのである。とはいえひとつの階位につき七、八人はいるのが普通なようなので、少し少なめだろうか。
「ほら、アミラ……彼はまだ神殿に慣れていないのだし、落ち着いて」
トルスが曖昧に笑った。三人の中では一番落ち着いていて、よく喋る二人の後ろでずっと物静かに微笑んでいるような少年だ。鮮やかな金髪碧眼で、少し目を見張るくらいの美貌でもある。
「嘘よ、もう誰より慣れてるみたいな顔してるじゃない。にこりともしないで……良くないわ、そういうの」
「そう思うなら、アミラも笑って。笑顔を向けられたければ、まず自分が笑顔を向けないと」
「トルス……いいえ、その通りだわ」
アミラがかなり引きつった笑顔を作り、そして目を閉じてひとつ深呼吸をすると立ち上がった。ナーソリエルより頭は悪いが、どうやら素直さでは彼より優っているらしい。彼女は食べ終えた食器を手早く食堂の端の籠に入れると、それを持って厨房の方へ下がっていった。
「僕達も行こう」
トルスが眉を下げて笑った。無言でそれに頷いて、ナーソリエルも自分の食器を持って席を立つ。マソイが二つ目の籠を持ち上げたので、机の下から空の籠を取り出して空いた場所へ置く。
掃除や食事の後片付けは主に葉神官の仕事だ。勿論、広大な神殿を十歳と少しの子供達だけで全て清潔に保つのは難しいので、週に一度水の日には神殿全員で隅々まで掃除をすることになっている。だが普段人が多く通るような場所や水回りなどは、ナーソリエル達が毎日見回って清める必要があった。学ぶばかりの種と違い、枝神官について儀式の運営を勉強しながら、こうして皆の生活を支えるのが葉の役目なのだそうだ。
先に洗い物を始めていた土の葉達が体をずらして場所を開けてくれたので、小さく礼を言って隙間に割り込む。目の前の蛇口を捻って細く水を出し、息を吸って、吐いて──目を細めてあまり見ないようにしながら汚れた食器を手に取った。海綿に洗剤をつけて油汚れをこすり取る。ああ、海綿に汚れがついた。早くすすがないと、染みた油が指に到達してしまう。早く、早く、ああ怖い、気持ち悪い、気持ち悪い──
神殿に入るまで、整理整頓以上の掃除をしたことなどほとんどなかった。手を汚して働くことがこんなに辛いものなのだと初めて知って、労働の尊さを理解すると同時に、叔父や父のように豊富な魔力があれば全部魔術で済ませられるのにと歯がゆく思う。いや、「魔力」ではなく「祝福」なのだった。今から慣れておかないと、迂闊に口にすればまた碌でもない問答に持ち込まれてしまう。
できるだけ手早く終えて、念入りに手を洗う。朝食を終えたのでこの後は廊下と浴室の掃除だが、それでも一度綺麗にしておきたい。
「──ナシル、大丈夫?」
「え?」
隣からそっと声をかけられ、ナーソリエルは振り返った。トルスが心配そうに彼の手元を見つめている。
「手、洗いすぎじゃない?」
「……石鹸を使いすぎただろうか」
やたら清貧を尊ぶ神殿ではこのようなものも贅沢品なのかもしれないと、少し反省する。そうだ、今度から手は顕現術で洗浄しよう。その程度なら祝福も足りるし、その方がずっと短時間で完璧に綺麗になる。
「ううん、そうではなくて……何か、悩みでもあるの?」
「……悩み?」
「うん」
手を洗いながら考え事をしていたのが顔に出ていただろうか。別に、とはねつけようかと思ったが、静かな声に少しだけ
「……浄化の陣を縫い取って端に魔石のビーズを留めたら、常に清潔なハンカチが作れるだろうか」
「……そっか。ナシルはすごく、綺麗好きなんだね」
「不潔を好む者などいないだろう」
「ふふ」
トルスは軽やかに笑って神官服の裾を翻し、次の掃除場所へ向かってしまう。おい、ハンカチの話はどうした。尋ねておいて無視か。
とはいえ追いかけて問いただすほど彼の返答に期待もしていない。実験の手順を頭の中で組み立てながら、赤くなった手を丁寧に拭いて浴室の掃除へ向かう。そうだ、もっと大きな布にそれを施せば食品の保存にも使用できないだろうか。他にも、水のない場所で負った傷の応急処置に使ったり、それから──
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