二 言葉を受け継ぐもの



「あ……」

「名を失いし子よ、神殿長猊下に──」


 ヴァーセルスが小声で何か言おうとしたが、シラは話も聞かずに数歩駆け込んで、ぐるりと周囲を見渡した。いかにも塔らしい円形の床、中央には翼を広げた気の神の像。壁はなく、磨かれた白い柱が並び立つ向こうから、幽かに水の匂いがする風が吹き抜けた。


 歩き疲れて火照った体を冷やす、冷たく澄んだ夜風。風上の方向へ目を向ければ、遠くどこまでも森と湖が広がっているのが見下ろせた。日が暮れて深い青になり、星が淡く輝き始めた空の向こうに満月を一日過ぎた白く丸い月と、その光を受けてぼうっと浮かび上がるような月の塔が見える。


「なんて、綺麗な……」

「種っ子、遊ぶ前にご挨拶」

 ドノスが半分笑いながら忠告したが、しかしそれを制する声があった。


「──愛し子が風を感じる邪魔をしてはならぬ。風はエルフト様の囁き。我らに知恵をもたらす祝福なのだから」

「神殿長猊下」


 ヴァーセルスの言葉に振り返ると、神像の後ろから明るい灰色の服を着た初老の女性が歩いてくるところだった。後ろの二人より豪華な刺繍が施されたトーガを掛けているが、それよりも特別印象的なのは彼女の瞳の表情だ。なんでも知っていそうで、それでいてその知識でもって対峙する相手を品定めするような、強烈に厳しい視線である。


「──私の名はユーシウス。男のような名だと思うか? 否、アルレア語の男性名は末尾に『ウス』をつける場合が多いが、私の名の場合はルフターヌス・エルフ語が由来だ。大変に不可解なことに、かの妖精語はほとんど全ての単語が『ス』か『ル』で終わる。『シルール・ヌス・ユーシウス』で『言伝ことづてを運ぶ風』だ。つまり私の眷星名は『言伝』と言うわけだ。ルフターヌス・エルフ語が何ゆえ特定の音ばかり末尾に乗せたがるのか……そなたには解明できるだろうか、今まさに俗世での生を捨て種として生まれ変わらんとする、叡智の愛し子よ?」


 流れるように色々言われてシラは少しきょとんとなったが、何やらエルフ語について詳しそうな様子に興味を惹かれて、ちょっとだけ彼女の好感度を上げた。この人は、何かシラの性格云々に関係なく、面白そうなことを教えてくれるかもしれない。


「……擦過音さっかおんの響きが優しくて好ましいですとか、そういった理由なのではないかと推測します。神殿長猊下」

「おや、やはりさかしらにしていても子供ですね……」

 シラの返答を聞いたヴァーセルスが意外そうに言う。が、気の神殿長はそれに首を振った。


「そなた、エルフと会話をしたことがあるな?」

「……ええ、少しだけ」

「ふむ、興味深いが……しかし今はまず、そなたをこのエルフト気神殿に迎え入れることとしよう」


 気の神殿長がさっと振り返ると、彫像の裏側のシラからは見えないあたりから両腕いっぱいに荷物を抱えた青年が現れた。ヴァーセルス達と似たような格好だが、こちらは額に細い布の帯の冠のようなものを巻いている。


「月桂冠を」

 神殿長は青年が差し出した葉っぱの冠を軽く胸に手を当てて受け取ると、頭に被る。

「月桂樹の冠は儀式用だ。私は地位としては神殿長だが、階位としては樹神官じゅしんかんであるため、樹木の如く頭部に葉を飾る。気は月桂樹、地はかしの木、火は紅薔薇、水は白薔薇……無論、棘は落とすがね。ところでスティラ=アネス、つまり『数多の星々』という名の我らが神殿がなぜ神官の階位に植物の名を冠するのか知っているか?」


「……猊下、学びは儀式の後にされますよう」

 青年がそっと口を挟む。神殿長は軽く眉を上げて「ああ、すまないカイル」と言ったが、視線は促すようにシラを見たままだ。


「存じませんが……星の輝く天に向かって伸びるから、植物なのかなとは考えておりました」

「その通り」

 神殿長が称賛するように目を細めて笑った。厳しさが少し和らぐ。


「光の神を太陽、闇の神を夜空、他の神々を月々、そして太陽と月に仕える御使いを星と例えるのは存じているか? 我らも御使いのように献身的に神々へ仕えようと、しかし星を真っ直ぐに目指しながらも決して至らぬ矮小な人間を表して、この神殿の階位は『樹』止まりなのだよ」


 神殿長が話している間にも、布冠ぬのかんむりの青年とヴァーセルスが手分けして、儀式の準備を進めていた。神の像の前に美しい織模様の布が敷かれ、部屋の周囲にぐるりと並ぶ柱の間にひとつずつ、細い弦が数本張られた小さな楕円形の板を吊り下げる。すると心地良い風が吹いて、その板からヒューと幽かに響く美しい音が聞こえた。どうやら風で弦を振動させる竪琴ようなものらしい。弦の音でありながらどこか笛にも似ているような、変わった音色だ。


「香は焚かぬ。風で流されるゆえ」

 神殿長が言った。視線を戻すと頷きが返される。すると準備を終えて戻ってきた布冠の青年が神像の隣に立ち、優しそうに眉を下げて微笑むと布の上に跪くよう指示を出した。


「──今宵、一粒の種が生まれる。気神エルフトの祝福を受け、導きあってこの地に落とされた、一粒の種である。未だ如何なる花を咲かすか、如何なる種を結ぶか、全てが未知である種。星に届く大樹とならんことを願い、我らはこれの名を呼び、叡智の泉の水を与え、祝福の風薫る地で、これを育てん」


 青年が穏やかな声でそう言うと、その時不思議な音が辺りに響き始めた。まるで風が歌っているような、十も二十も複雑に重なり合った音色が全て美しく調和する、幽かだが心奪われるとても幻想的な音楽だ。魔力の気配に振り返ると、ヴァーセルスがまるで楽団の指揮でもするようにタクトのような細い木の杖を振って、柱の間に吊り下げた楕円形の笛に何か魔法、いや顕現術を飛ばしていた。


 かっこいい……!


 思わず憧れの眼差しになって見惚れていると、視線に気づいたヴァーセルスが杖を持っていない方の手をさっと振って前に向き直るよう合図した。慌てて首を元に戻すと、布冠の青年がにこっとして、そして促すように神殿長に視線を移す。



  フラス=ティエ・ナ=ロサ・イズ・ヴァール

  風の彼方より来たりて天へと昇る

  叡智の神にして我らが神

  エルフトが汝に名を与えた

  汝はいずれ神の声を聞く

  神の言葉をその身に宿す

  愛し子ナーソリエル 言葉を受け継ぐもの

  恵まれしものに 我ら共に感謝の歌を

  ユス・アルエ=ティア・ハツェ



 そんな歌詞を神殿長が、こんな痩せた体のどこからそんな声がと驚くような、よく通る力強い声で歌った。するとシラ以外の三人が追いかけるように「ユス・アルエ=ティア・ハツェ」と繰り返し歌う。


 一緒に歌うよう手振りで合図されたので彼らの声に合わせると、前の二人が少し驚いたような顔をして、そして神殿長から水の入った杯が手渡された。「飲みなさい。叡智の泉、聖泉メルの水である」と言われる。シラがそれを飲み干すと音楽が美しい後奏に変わり、そして曲が終わった。


「汝の名はナーソリエル、言葉を受け継ぐもの。その名を刻み、その恵みに値する者として生きることを誓いなさい」

「……誓います」


 囁くように小さな声で言うと、黒い実のたくさんついた枝の冠が頭に乗せられた。図鑑で見たことがある、たぶん月桂樹の実だ。美しい音楽と冠から漂ってくる良い香りに神妙な気分になって、神の像を見上げる。三対の大きな鳥の翼を広げたエルフト神は、まるで本当に風に煽られているように石の服の裾をなびかせ、凛々しい顔を少ししかめ、眉間にしわを寄せて手元の巻物に羽ペンで何か書き込んでいた。


「そこには筆記に適した枝や茎がなかったため、エルフト様は自らの羽をとり、叡智を書き留められたのだ。羽ペンの始まりであると言われている」

 神殿長が言った。気づくと神官達が儀式に使った道具を片付け始めており、ドノスが「種っ子、布を巻くから降りてくれ」とこちらに声をかけた。


「……失礼いたしました」

 少し顔を赤くしながら急いで布から降りて、靴を履く。すると布冠の青年が灰色の布の束を持って近寄ってきた。

神枝長しんしちょう、カイラーナです。儀式の進行や、枝神官の纏め役をしています」


 これがあなたの普段着ですよ、こちらは儀式用……と説明しながら着替えを手渡してくれたカイラーナに、丁寧に礼を言って頭を下げた。すると青年は優しそうな寂しそうな笑みを浮かべて「歓迎します、ナシル」と言う。と、その彼の言葉を遮るようにして神殿長が口を開いた。


「さて、名を得たことだ。ナシルよ、エルフとの邂逅について──」

「猊下、子供はそろそろ寝る時間ですから、今夜は皆への紹介と部屋の案内で終わりです。明日、試験の後に時間を作りますから」

 ヴァーセルスがぴしゃりと言うと、神殿長が肩を竦める。


「そうか……早く育て」

「は、はい……猊下」


 おずおずと頷き、片手を持ち上げて頭の冠を少し触ると、ナーソリエルは儀式の間を後にした。


 美しい儀式で少し高ぶっていた心が、『皆への紹介』と聞いてまた重く沈み込んでいた。





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