白い満月と数多の星々

綿野 明

プロローグ



 それは後から思い出すと、とても不思議で美しい一日だった。リースが初めて妖精と出会った、大切な大切な思い出の日になった。


「叔父上!」


 玄関をくぐるなり駆け寄って抱きつくと、叔父のアレイはいつも通り彼の頭をくしゃくしゃとかき回す。リースの父なら絶対しない、整えた髪が乱れる少し乱暴な撫で方。


「……リース。ひとりで来たのかい?」


 しかし手つきはいつも通りだが、声は少し焦っている。アレイはリースの頭を抱えたまま顔を上げてきょろきょろし、門の外に馬に乗った護衛の姿を見つけてほっと息をついた。計画通り驚かせてやったとこっそり笑みを浮かべていれば、そんな叔父が続けてこう言ったのでリースはびっくりして固まった。


「よしよし、よく来たね。今日はお客様が来ているんだよ、ご挨拶できるかな?」

「えっ?」


 そして「誰が来ているの」と尋ねる間も無く、客人に紹介されてしまう。


「この子は甥のリース、八歳。叡智の祝福が濃くて賢い子だから、君もきっと気に入るよ──リース、こちらはルールミルエルマルーシュ殿だ。塔の『白』だが、お子さんを連れて特別に遊びにいらした」


 促されて見上げると、叔父の後ろになんだかものすごく背の高い人影が見えた。先触れなしにいきなり押しかけてびっくりさせてやろうと遊びに来てしまったが、どうやら来客中だったらしい。リースは恥ずかしさからパッと頬を赤らめると、父から教えられた通り左胸に指先を揃えた右手を当て、少し目を伏せて丁寧に挨拶した。


「たいへん失礼をいたしました、わたしはリース=アルクと申します。ルールミュ、ル……エル」


 やたら発音が難しい名前だが、この耳が長くて月夜の湖のような銀髪をした美しい客人は、たぶんエルフだ。だから名前もエルフ語なのだろう。純白のローブは魔法の使い手達の住まう「月の塔」の住人であることを示すものだが、しかしその服があまりに似合っているので、魔法使いというよりは神の遣いか何かのようだ。ただ立っているだけで息が止まりそうなくらい幻想的な雰囲気を漂わせている上に、その人の抱いている尖った耳の赤ちゃんが目をまんまるくしてこちらをじっと見ているので、思わず気になって何度もちらちら見てしまう。すると神々しい人はほんのり微笑んで言った。


「……ルールルーでいいよ、小さな花冠リース


 ルールルー?


 歌みたいでとても可愛らしい愛称だが、子供がいるくらいの大人なのにそんなのでいいのだろうか。少し困惑したが、まあ本人がそう呼ばれたいならそれでいいのだろうと、リースは素直に頷いた。


「はい、ルールルーどの」

「うん……いい子だね」


 僅かに目を細めて微笑んだ妖精がしゃがみこみ、腕の中でもぞもぞしていた幼児を犬でも放すかのように「ほら」と言いながら床に降ろした。ようやく歩き始めたばかりといった様子の赤ん坊がよたよたとこちらへ来るので、リースは一瞬どうしようと思ったが、ひとまずしゃがんで目の高さを揃えてみた。子供は視線の高さを合わせてあげれば怖がらないと、先週読んだ小説に出てきたのを思い出したのだ。


 親と違って尖った耳がフェアリのようにピンと上を向いている妖精の子は、のろのろよろよろと歩いてくると、何か小さな声で言いながらしゃがみ込んだまま固まっているリースの膝によじ登って腹に頭をこすりつけた。リースはどうしたらいいのかわからず、じっとその様子を見下ろした。叔父が後ろでくすくす笑っているのが聞こえる。


「うん、気に入ったみたいだ。僕がアーリュシュルと遊んでいる間、リースはこの子と遊んでおいで」

ルールルーがにこっとして言った。


「アーリュ……?」

「アレイスタルをエルフ語風に言うとそうなるらしいよ」

 おかしそうに笑ったアレイが応接間へ向かうようリースを促す。この妖精のひなをどうしようかと見上げると、父親だか母親だかよくわからない美しい妖精がひょいと抱き上げて引き取ってくれる。


 途端、火のついたように小さなエルフが声を上げて泣き出した。といっても人間の赤ん坊に比べれば随分ささやかな声だと思うのだが、それでも悲しそうにこちらへ向かって手を伸ばしているので、少し迷ってから背伸びをしてその小さな手を握ってやる。すると淡い金色をした妖精の子はパッと泣き止んでどこか満足したような無表情になった。


 苦笑している大人達と一緒に応接間へ移動して、ふかふかしたベルベットのソファに座る。隣に小さな妖精が降ろされると、雛は再びリースに抱きついて子猫のような青い瞳でこちらを見つめた。


「……名は?」

「うーみゅる」

「そうか、ウーミュル」

「……ん」

 相槌なのか、耳がぴくんとした。意外と賢い子なのだろうか。


「エーリュミルだよ、リース」ルールルーが訂正する。

「エーリュミュー」

 できるだけ正確に真似をしてみるが、やはりエルフ語は発音が難しい。

「……ん」

 だがリースの拙い発音でも、小さなエーリュミルは納得したようだった。


「わたしはリース」

「りーぅ」

「リー『ス』だ、エーリュミュー」

 舌足らずの発音に少し微笑みながら教えると、エーリュミルは大真面目に口を少しだけ開け、息を強く出すだけの擦過音を漏らした。


「す」


 何かの鳴き声にしか聞こえないが、意図はわかったので頷いてやる。

「そう。『リース』」

「りーぅ」

「うん」


 元に戻ったが、まあいいかと思って少しだけ頭を撫でてみる。短い髪はタンポポの綿毛のようなふわふわの触り心地で、びっくりするほどキラキラ光る。夢中になって何度も撫でていると少しずつ妖精の全身から星を粉にしたような細かな光が滲み出てきて、それが手に触れるとじんわり温かい。


「この光はなに? エーリュミュー」

「うーさ、ふぁねーしゅ」

「ん?」


 何か知らない言葉で返事があったので首を傾げると、ほとんど銀髪に近い木漏れ日色の髪に星の光を纏わせた妖精の赤ん坊は窓の外を指差した。


「しろいら」

「ぱら……ばらか」


 振り返ると、庭の白薔薇が見事に咲いていた。楽しそうにぴくぴくしている耳を見るにどうやらリースの質問に答えたのではなく、単に外に見えた花が気になっただけらしい。そういえばエルフは花の妖精だったと思い出して、ならば近くで見せてやろうとエーリュミルの手を取って立ち上がる。


「……ん?」

「庭へ行こう。ばらを見せてあげる」

「……ん」


 手を繋いでご機嫌で歩き出したエルフの子は、恐ろしく歩くのが遅かった。同じ大きさのカタツムリならば確実に負けるだろう速さでのろのろ歩いて庭園を目指す。妖精は玄関を通って階段に差し掛かると当たり前のような顔で「……ん」と言いながら両手を広げたが、落としそうで抱き上げるのが怖かったリースはしゃがんだまま首元に妖精をしがみつかせ、途方に暮れた。


「……抱っこができないの?」


 不思議そうに響く美しい声がして、唐突にリースごと抱き上げられた。びっくりして顔を上げると、見た目より力があるのか、後ろからついてきていたらしいルールルーが二人を抱えたまま軽々と階段を下りてゆく。揺れが怖くて思わず小さな妖精を抱きしめると、エーリュミルが耳をピンとさせて全身からキラキラを出した。どうやら嬉しくて光っているようだと気づいて、リースも少し心がむずむずする。


 少しすると、目当ての白薔薇の前へ降ろされた。


「ほら……これだろう?」

「はい、ありがとうございます」

「うん。僕はアーリュシュルと書斎に行っているから、戻る時は呼ぶといい。今と同じくらいの声で聞こえる」


 ルールルーはそう言うと、ひらひらと手を振りながら屋敷に戻って行った。ちらりと薔薇を見て微笑んだがそれだけで、せっかくこんなに綺麗に咲いているのになと思う。


「……おはなは、そんなにすき、ないの」

「ルールルーどのが?」


 とても寂しそうな声でエーリュミルが言ったので視線を追って尋ねると、淡い金のエルフは少しだけ涙ぐんで頷いた。エルフは花の妖精なのにと思ったが、それは口に出さない。抱きついてきたので隣にしゃがみ込んで寝かしつける時のように背中をトントン叩くと、エーリュミルはリースの胸に顔を押し当ててぐりぐりと押しつけた。


「……泣かないで」

「うーな、うゆぅ」

 喃語なんごなのかエルフ語なのかよくわからない鳴き声が返される。耳がぺたんと寝てしまっているのがかわいそうだが、少しだけ動物みたいで可愛い。

「……わたしは好きだよ。ばらの花も、どの花も」

「……ん」


 そう言うと少し落ち着いたようだった。エーリュミルがゆっくりと耳を元通り立てて頷き、リースの腕の中から手を伸ばして薔薇の枝を鷲掴みにしようとするので慌てて腕を握って制止する。


「とげがあるから、危ない。優しく、花びらをなでるだけね」

「……よしよし?」

「うん」


 注意深く見張っていると、エーリュミルはそうっと指先で白薔薇の花弁に触れながら小さく「よしよし」と囁いた。泣きそうだった瞳が次第にキラキラして、冬の湖のような綺麗な青色に染まる。


「……さらさらね?」

「そうだね」


 妖精の隣で薔薇を一緒に撫でる。去年の春に叔父はこの花弁を「上質なベルベットのようだ」と言っていたが、この花はそんな布なんかよりもっとなめらかで柔らかいし、甘くて少し青っぽい素敵な香りがするとリースは思う。そんな風に少し物思いに耽っていると、いつの間にか彼の膝に座っていたエーリュミルが突然体を揺すって上下に揺れた。


「……あかちゃん」


 楽しそうに呟いて花の少し向こうを指差す。何のことだろうとそのあたりをよくよく見つめ、そして薔薇の葉の裏に黒っぽい芋虫をたくさん見つけてしまったリースは思わず金切り声を上げて妖精を抱えたまま尻餅をついた。


 叫び声に驚いたエルフの子が泣き出し、大人達が慌てて飛んできた。どうしたんだと言われて自分も泣きながら芋虫達を指差すと、安堵と呆れが混ざった顔で微笑んだ叔父がリースを抱き上げる。


「ヨトウガだね。毒はないから大丈夫だよ」

「いやだ……気持ち悪い」

「ほらほら、芋虫見つけたくらいで泣かない。もう八つだろう?」

「だって、いっぱいいるもの!」

「──あかちゃん、きらい?」


 首を振って感情が溢れるまま泣きじゃくっていたが、エーリュミルの悲しそうな声が聞こえてハッとなった。唇を噛んでなんとか涙を引っ込めると、叔父が「お、偉いえらい」と笑う。 


「……たくさんいたから、おどろいただけ」


 本当のところを言えば大嫌いだったが、ふくろうの刺繍が入ったお気に入りのハンカチで涙を拭うと精一杯強がって首を振る。


「集まると強そうだものね」

 するとルールルーがよくわからない理屈で頷き、抱き上げたエーリュミルを軽く揺すりながら「あの子達はああやって集まって、強そうに見せているんだよ」と教えている。


「……つよそう」

「そう、パッと見た時に本当の赤ちゃんより大きな生き物に見える。だから、か弱い人の子が驚いてしまっても仕方がないね」

「りーぅ、よわい」


 幼児に断言されたリースが自尊心を粉々にされて震え、叔父が爆笑した。それを見たルールルーとエーリュミルが揃って首を傾げている様子は親子そっくりで、先程少しだけ見せた淡白で寂しい様子など一切感じさせない仲良しに見えた。





 美しい銀色のエルフはその後少しして屋敷を去り、「りーぅも……いっしょ、かえる!」と泣き喚くエーリュミルも連れて行かれ、せっかく懐いた小さな妖精を奪われたリースもふてくされてソファの上で丸くなった。


「……次はいつ来るの」

「うーん、どうだろうなあ……白はあまり月の塔から出られないからね、もしかすると数年後になるかもしれない」

「塔から出られないの? 花の妖精なのに」


 てっきり普段はお花畑で暮らしているものとばかり思っていたリースはびっくりして跳ね起きた。ただでさえ父親と一緒に花を眺められなくて悲しそうだったのに、月の塔の中にずっと閉じ込められているなんて。


「そうだね。でも、彼は自ら望んで塔に所属しているんだよ」

「エーリュミューはそうじゃない」


 きっと薄暗い塔の窓から毎日森を見て、さっきのように耳を倒して悲しそうにしているに違いない。そう思うと思わず少し声が鋭くなってしまった。俯くと、大きな手が頭を撫でる。


 もうじき、十歳の誕生日には神殿へ放り込まれることが決まっている自分と同じだ、とリースは思った。自分の住む場所を選ぶことも許されず、酷な環境から逃げ出すことも許されず、ただ親の望むまま粛々と生きるだけ。


 そう、魔術師や魔法使いになれるだけの余分な魔力を持たないリースはどうやらアルク家にとって不要な存在らしい。神殿入りすれば賢者の位がなんとかと父は言っていたが、賢者なんて周囲と全ての縁を切って塔にひとりきりで住み続ける孤独な存在ではないか。塔は塔でもまだ仲間達と暮らしてゆける神官より酷い。お前のためだとか言って、結局は厄介払いだ。


 そうなったらエーリュミルとも、たぶんもう──


 お互い石の塔に閉じ込められて、二度と会えないのだろうか。そう考えたが、リースはすぐに首を振った。いや、確か月の塔とあまり仲が良くないらしい神殿と違って、賢者は塔を訪れることがあったはずだ。今代の賢者様が魔導書架の研究の一環で塔に通っていると、いつだったか聞いたことがある。それならリースがたくさん勉強して賢者になれば、あの小さいエルフともまた会えるかもしれない。そうだ、もし大きくなってあの子と何か共同研究でもすれば、毎日だって一緒に花を眺められるだろう。


 そう思うと、突然真っ暗だった未来にやわらかな月光が差し込んだ気がした。気の神殿は賢者の塔の次にたくさんの本が揃えられている場所で、顕現術や自然について研究することがエルフト神への捧げものになるらしい。つまりこの国のどこよりも勉強できる環境が整っていて、神様に与えられた力のほとんどが知能に使われてしまって強い魔法が使えないリースでも、そこで頑張ればきっと月の塔に行ける権利を得られる。勿論そうしたら彼はアルク家のリースではなくなってしまうが、それでもそこに感じる寂しさが少しだけ薄まった気がした。


「叔父上……わたし、賢者になる」


 唐突に宣言すると、叔父は少し驚いたように眉を上げて「そうか、頑張ってみるといい」と爽やかな笑顔になった。リースはこの深い青色の瞳がキラッとする彼の笑い方が大好きで、そんないつも通りの明るい応援から勇気を貰い、未来に向けて決意を固めたのだった。





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