scene 27. 戻ってきた日常

「――おまえが初めて音楽室で、ギターで弾いた曲は?」

「えと……〝イフ・アイ・フェル〟」

「じゃあ……初めてハウスで会った日に、俺が投げておまえが投げ返してきたものは?」

「サモシュのマルツィパン」

「うん、じゃあ次は……ジー・デヴィールになる前の、適当につけたバンド名は?」

「ハニーシロップ&ヴァニラクリームトライフル。もう、全部ちゃんと思いだしたって云ってるのに」

「じゃああとひとつだけ。……俺がバーミンガムへ迎えに行ったとき、弾き語ってた曲は?」

「んー、なんだったっけ。記憶にないなあ」

「えぇ? ……嘘だね。おまえはちゃんと憶えてる」

 くすくすと笑いながら答えるテディの顔を至近距離から見つめ、ルカはその頬や髪を撫でていた。素肌に触れるシーツの感触、肌の温もり。触れているのが指先だけでは足りないと、互いに絡める脚。何度も何度も繰り返し口吻けた形の良い唇は、紅をさしたかのように血の色を透かしている。長い睫毛も大きな灰色の瞳も、こうして数センチの距離で見つめるのは久しぶりのことだった。

 そしてこうして、自分の体温を伝えるように熱い息を触れさせながら愛を語り合うのも。

「……ルカ、キス魔になったの?」

「なったかも。だって、いくらしても足りない」

 既に一度躰を重ねたあとだったが、まったく離れようという気がしなかった。ルカはもう何度めかわからない口吻けをしながらテディの背中に手をまわし、すっと撫でおろすと細い腰を抱き寄せた。テディがされるままに胸に顔を埋めてきて、広いベッドが微かに揺れる。

 揺れに逆らわずルカが仰向けになると、テディもそのまま自分の上に覆いかぶさってきた。ぴったりと躰を密着させ、ルカの肩口に顔を埋めながら、テディが耳許で囁く。

「……ああ、これもちゃんと憶えてるかも……」

「なにを……?」

 そう聞き返すと、テディはシーツの中でつーっと左手を下腹部へと滑らせた。

「――……の、好きでしょ?」

 敏感なところに与えられる刺激とテディの視線を感じながら、ルカは片手で顔を覆い、にやりと唇を噛んだ。

「……おまえって、やっぱり最高」

 その日、陽が落ちてからも部屋に明かりがつけられることはなく、ふたりがようやくベッドから這い出てきたのは明け方、空腹に耐えかねてのことだった。




       * * *




 プラハに降り続いていた雨がようやくあがったのは翌日、六月四日のことだった。

 氾濫したヴルタヴァ川は一部の地域に冠水、川沿いにあるホテルなどにも浸水の被害を齎した。だが、引き続き警戒が必要とニュースでは呼びかけているものの、水位はもうピークに達したと見られた四日朝以降、ゆっくりとではあるが下降し始めた。

 河川の氾濫はエルベ川、ライン川、ダニューブ川でも起き、影響はドイツ、スイス、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、ポーランドという広範囲に及び、かなりの被害を齎した。二〇〇二年のヨーロッパ水害ほど甚大な被害ではなかったものの、五月末から六月初旬の豪雨により起こったこの水害による死者は、最終的にチェコで十一人、オーストリアで六人、ドイツで八人を数えた。それ以外にも洪水の影響で避難を余儀無くされたのは、チェコだけでも一万九千人にも及んだ。

 とはいえ、ヴルタヴァ川からある程度離れたプラハ中心地には深刻な被害はなく、平時ほど多くはないものの観光客も途切れずやって来ていた。六日になると地下鉄も運行を再開し、中旬頃にはようやくカレル橋も通行禁止を解除された。



 テディは病院で主治医に記憶が戻ったことを伝え、念の為と勧められてカウンセリングを一度受けたあとは通院も服薬も止めた。その代わりというわけではないだろうが、喫煙を再開し、記憶がないあいだどうして吸いたくならなかったのかと不思議がっていた。

 バンドとしての演奏も、まったく以前のとおり素晴らしいプレイを聴かせてくれた。そして、休憩と称してユーリとふたりジョイントを吹かしに行くのも、以前のままだった。

 テディがリハーサル中の事故で記憶を失っていたことはずっと伏せてあり、ロニーは公表するつもりはまったくなかったのだが、今頃になってあるゴシップ誌がテディが精神的な問題を抱え、演奏もできなくなっていると報じた。しょうがないのでロニーは信頼の置ける一部の雑誌とタブロイド紙に取材を許可し、事実を報じさせた。即ち、テディは事故により記憶障害に陥っていたが、既に記憶を取り戻し、演奏にも問題はないということをである。

 世間ではこれこそでっち上げだという意見が飛び交ったが、テディを診たロンドンの医師が記者の質問に答える映像がTVで流れ、記憶を失っていたというのが事実だとわかると、SNSがどっと沸いた。

 ――テディ・レオンは、背中に描かれた鳳凰フェニックスの如く不死身だと。





 そうしてプラハの街がすっかり平常を取り戻した六月十七日、月曜日。

 ミレナとハナがアンディを連れて事務所を訪ねてきた。あらためて礼を云いたかったのと、報告したいことがあって、とミレナは云った。

「実は、私たちまた一緒に暮らし始めたんです。クラドノの、私がひとりで住んでいたパネラークで」

「そうなの? よかったじゃない、また家族一緒になれて……!」

 グレープフルーツアイスティーを飲みながら、ロニーは三人に笑顔を向けた。ミレナは今日は水色のシンプルなワンピースという恰好で、足許はシルバーの糸を透かし編みしたウェッジソールのサンダルを履いていた。ハナもきっちりと化粧をし、切り揃えられ少し短くなった髪はさらりと真っ直ぐに流れていて、先日とはまったく違って見えた。

 ソファの反対側にはルカとテディ、ユーリもいて、ミレナが持参したカップケーキを食べながら、アンディとふざけあったりしている。

「本当に、ロニーさんやユーリさんのおかげです。アンディは学校が変わるので嫌がるかと思ったんですけど、うちは部屋が余ってるから子供部屋をあげられると云ったら、ドラムを叩いていいかって……」

 自分のことを云われているのに気がついたのか、アンディは顔を上げてミレナを見たあと、少しはにかんでユーリに視線を移した。お、ドラム買ってもらったのか、とユーリが反応すると、アンディは得意げに頷いた。

「そりゃあよかったな。でも、集合住宅でドラムの練習か。ちゃんと時間を考えて、消音パッド使えよ」

「消音パッド?」

「家で叩くとき、音をミュートするんだ。パッド用のスティックもある。それなりの叩き心地があるやつはフルで揃えるとけっこう……いいや、俺のをやるよ」

 アンディが目を見開いた。

「いいの!? ユーリのを、俺にくれるの?」

「ああ。そのかわり、しっかり練習するんだぞ?」

「うん!」

 やった! とアンディはソファから立ちあがり、握った拳を振り上げた。

「ちょっとアンディ、嬉しいのはわかるけど坐って。……いいんですか、もう……お礼に来たのに、またそんな」

「ほんとにありがとうございます。ついこのあいだまでゲームが欲しいとか云ってたのが嘘みたい」

「え、ゲームはゲームで欲しいよ。ドラムとは別だよ」

「え、そうなの?」

 ちゃっかりしてるな、と皆声をあげて笑ったあと――ふっと真剣な表情になり、ハナが云った。

「ほんとに、こんなふうにまた三人で笑える日が来るなんて思ってませんでした……。ミラン……ミレナは、今日はこちらへお邪魔するためにお洒落をしてきましたけど、普段家で過ごしているときはユニセックスな楽な恰好をしているんです。お恥ずかしながら、それがペアルックみたいになって、ちょっと新婚の頃に戻ったみたいで。そんなふうに新鮮な気持ちで向き合っているうち……なにも問題なんかないって、やっていけるって思えるようになったんです。なんだか夫というより女友達みたいな気になったりもするけれど、中身は以前と変わらない、一生を共にしたいと思ったミランのままなんだって……」

「そうそう。パパ、最初は家でも毎朝すごくお洒落してたんだけどね。でも、俺が云ったんだ。女の人だって家にいるときはそんなにばっちりお化粧とかしないよ、出かけるときとか、特別な日だけだよって」

「そりゃそうだ」

「自然体でいればそれでいいわよね。……どう? アンディ。ママがふたりになった気分は」

 ロニーがそう尋ねると、アンディはううんと首を横に振って、こう答えた。

「ママがふたりじゃないよ。パパはパパだ。でも、ほんとはどっちだっていいんだ。言葉がいけないんだよね。男か女かでしか使い分けられないようになってるから、不便だ。だから俺、今パパでもママでもない、男でも女でもどっちでもない人でも、親なら誰でも使える呼び方を考えてるんだ」*

 いいのを思いついたらネットとかで広めて、世界中で使ってもらうんだ、と云ったアンディに、ロニーは感心して何度も頷きながら、素晴らしいわと本心から呟いた。









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※ Xジェンダー、ノンバイナリーなど、男女どちらでもない性自認の親の呼称として、「Zaza(ザザ)」、「Maddy(マディー。マミーとダディーの混合)」、「Momma(モマ)」などが二〇一五年頃から使われ始めているようです。

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