scene 25. 光

 ターニャの出産祝いにと買ってきた花と、プレゼントの入ったプラスティックバッグ三つもエレベーターの中から出してもらい、ルカとテディはほっと息をつき安堵の笑みを浮かべた。

 まだ電気は復旧していないようだったが、廊下は淡く光るライトが点々と灯っていた。救け出してくれた作業員にとりあえず一階まで下りてください、お連れの方も心配なさってますし、と云われ、ルカは大荷物をぶら下げて階段を降りていった。

「――ルカ、テディ! よかった、大丈夫? テディ、気分は悪くない?」

 自分たちの姿を認めるとすぐにロニーが駆け寄ってきた。見ると、すぐ後ろにはドリューとジェシもいる。ルカは大きな袋を下げた両手をひょいとあげ、笑ってみせた。

「大丈夫だよ、喉が渇いてるし腹も減ったけどな」

「だろうと思って、外で買ってきておいた」

 ドリューはこの雨のなか、近くにあるスーパーマーケットまで行ってきたらしい。TESCOテスコと赤く店名の入った袋を広げて、どれがいい? と訊かれ、ルカは中から果肉入りオレンジジュースのボトルを二本選んで取りだした。

「サンドウィッチもあるぞ」

「それはあとでもらうよ」

 オレンジジュースを一本、テディにも渡し、早速開けて飲む。

「よかったー、心配しましたよ! 僕、エリーと見てたんです、エレベーターに乗るところ。で、僕らも一緒にって思って待ってって云ったんですけど、聞こえなかったみたいで」

「そうだったのか? 一緒に乗らなくてよかったな」

「まったくですね」

「私はジェシに知らされてあなたたちがエレベーターの中にいるって知ったのよ! ジェシまで乗ってたら、ひょっとしたら誰も気づいてなかったかもしれないわ」

「いや、俺らも非常用のボタンで中から連絡はしたけどね」

「あ、そうなの? でも、ほんとによかったわ、何事もなくて」

 顔を見て安心したからか、妙に饒舌になっているジェシやロニーと少し話したあと。ルカは「とりあえずもっとあっちまで行くよ。外の空気が吸いたい」と云って歩きかけた。

「ああ、ならその荷物向こうに置いてきなさいよ。私たちのもまとめて置いてあるの。ほらあそこ、エリーが見てくれてるから」

「わかった。……ところでユーリは?」

「まだよ。さっき、もうちょっとしたら行くって連絡はあったけど」

 ずらりと椅子の並んだ待合を見やると、端のほうにいくつかのペイパーバッグや、ピンクのリボンのかかった巨大なケーキを模したものがあった。その傍には膝の上にバッグを乗せ、その更に上に小さなラップトップを置いて開いているエリーがいた。いつもどおりの彼女らしい姿を見て、なんだかほっとする。

「おつかれさん」

 そう声をかけながらルカは荷物を置き、テディの持っていた花籠も受け取って椅子に乗せた。

「よかった、無事で」

「ああ、ありがとう。じゃあ、ちょっと頼むな」

「どこへ?」

「外の空気が吸いたくて」

 わかった、と頷いたエリーに片手をあげ、ルカはテディと一緒にエントランスのほうへと歩いた。




       * * *




「ああ、こんなときだけど気持ちいいな。空気がうまい」

「濡れるよ」

 ルカはエントランスの外、屋根のない位置まで出て空を仰いでいた。

 雨脚はやや弱まっているようだったが、まだ空は灰色のまま晴れる気配を見せてはいなかった。雨雲に覆われた空の下でも晴れやかなルカの様子に、ずっと暗く狭いなかにいたのだから気持ちはわかるけど、とテディは苦笑した。


 暗く狭い――記憶のない状態は、まったくそんな感じだった。どっちを向いても、なにもない。自分がまるで知らないと思う相手が、自分のことをなにもかも知っている、まるで裸を晒しているような奇妙な居心地の悪さ。ちゃんと服を着ているということを確かめたいのに、自分ではそれが叶わない心許無さ。君は白いシャツを着ていると教えられても、その言葉を信用していいのかどうかわからない。本当は黒を着ているのかもしれない。ひとりひとり、信じていい相手なのかどうか見分けなければいけなかった。しかし露骨に疑ったり拒絶するわけにもいかない――みな本当に、本心から自分のことを心配してくれている仲間のようにも思えたからだ。

 そんな手探りのような状態のなかで、何故かこの人は大丈夫だ、なにもかも信じて任せてもいいんだ、と感じられる存在があった。ルカだ。

 たぶん、彼の父親の言葉のおかげもあっただろう。テディは自分の学生時代からの恋人で、今は一緒に暮らしている家族だというルカのことを信じ、素直に頼ることにした。そうして一緒に過ごせば過ごすほど、ルカが本当に自分にとっていちばん大切な存在なのだと実感していった。片時も離れず自分に寄り添ってくれるルカをすっかり信じるようになると、そんな彼が信頼しているらしいロニーやユーリたちのことも信じられるようになった。

 ――初めに記憶の一部が甦ったのは今日の昼頃、セラピーが終わって病院を出ようとしたときだった。

 ルカが病室でスマートフォンを落としたとき、脳裏にフラッシュバックのようにある光景が浮かびあがった――黄色い街灯、石畳、バル、細い路地。そのあと自分に起こったこと、映画の試写のこと、ツアーで見た風景やバンドで経験してきたこと、仲間の死など、すべてがコマ送りにした映像のように頭のなかで瞬いた。嬉しかったことも楽しかった想い出も、犯した過ちも、二度と思いだしたくなかった厭な出来事も。

 そして思ったのは、自分がどれほど泥に塗れているかということと、自分がそんなふうに汚れているのが厭で堪らないということだった。思いだせば思いだすほど自分から目を背けたくなる――こんな自分を皆、本当に待っているのだろうか。こんなに醜い自分を、ルカは本当に愛してくれているのか。自分はそれでいいのだろうか。

 甦った記憶、というかたちであらためて客観視した自分を受け容れることは、容易ではなかった。

 しかし、ルカはテディを雁字搦めにしていた黒い靄を、いともたやすく吹き飛ばしてしまった。

 彼の存在はいつだって、テディにとって光そのものだ。ルカのほうを向いてさえいれば、自分に纏わりつく影を見ることもない。時折、振り返ったり、俯いて足許を見てしまったりするけれど、必ず彼はそんな自分の手を引き、明るいほうへと導いてくれる。

 まだ記憶は完全には戻っていないが、テディは今はっきりと思った――ルカと、決して離れてはいけない。どんなに自分が重く汚いものを引き摺っていたとしても、彼の手を離してはいけないのだと。

 たぶん、これまでだってわかっていた。だから自分はルカを利用しているだけなのじゃないかとか、本当に愛していないのではと考えがちだったのかもしれない。けれど、違う。自分はルカのことをこんなに愛している――こんなことになって漸く、それを実感することができたのだ。



「――ああ、しかしよく降るな。いいかげんやまないもんかな」

「ちょっとは小降りになってきたみたいだけどね」

 両手をあげて伸びをしながら、ルカが中に戻ってきた。「電気もまだ戻らないのかね」とぼやくように云うのを聞き、テディは「まあ、あちこち大変なんだろうから」と云った。するとそのとき――

「おっ?」

「あ」

 ぱっ、ぱっと光が瞬いて、院内の明かりがついた。電気が復旧したらしい。

 テディはなんとなく吹きだした。

「なに笑ってる?」

「いや、なんでも」

 ルカが光を連れてきたような気がしておかしかったのだが、それは云わなかった。

 すると今度は外に、一台の車がすぅっと入ってきたのが見えた。入り口の前に横付けして停まったのは、シルバーに青と橙色のラインが入ったシュコダ――警察の車である。ルカはなんだろうと呟きそっちを見ていて、テディもそれに倣うようにして立ち止まっていた。

 車の中から、先ず警官がひとり降りたと思ったら院内に駆けこんできて、テディとすれ違いざま「パラツカーさん、いますか! みつかった子供さん、お連れしましたよ!」と大きな声で呼びかけた。

 続いて、車からは十歳くらいの男の子と、何故かユーリが降りてきた。

「よお、遅くなった」

「……なにおまえ、パトカーなんかに乗ってきてんの。連行中?」

「んなわけあるか。善行中だ、善行」

 ルカとユーリがなにやら言葉を交わしていたが、テディには聞こえていなかった。



 『子供がみつかったぞ!』

 『なんで物置になんて隠れていたんだ?』

 『いいか坊や、落ち着いて聞くんだ。

  今からおかあさんのところへ連れていくが……

  おかあさんはもう目を開けないし、なにも話せない』



 大きく見開いた目から涙が溢れた。眼の前では、警官とユーリに連れられてきた子供が駆け寄ってきた母親らしい女性に抱きしめられていたが、テディがみているのは違う光景だった。

 ――二度と目を開けない、母の白い顔。翻ったドレスの裾。長い黒髪。後ろ姿。そして、ステージで輝いていたジャズを歌う母。中華街チャイナタウンで一緒に食べたかに玉蟹肉炒蛋胡麻団子脆皮麻玉、鶏と貝柱の中華粥。頭のなかのどこに押しこめられていたのか、ひとつ零れでてきた記憶は次から次へと噴きだすように再生を続けた。

 小さい頃、テディは中華粥が大好物だった。風邪などで具合が悪いとき、テディは決まってライススープが食べたいと我が儘を云った。熱があるときだけは、母も仕事を休んだり、時間をずらして出かけるなどして自分の我が儘を聞いてくれた。

 ――記憶を失う前にはもう思いだすこともなかった、ささやかな想い出。



「テディ? どうしたんだ」

「なにを泣いてる? 大丈夫か? 気分でも悪いのか」

 ルカとユーリが心配そうに顔を覗きこんできた。テディは手の甲で涙を拭いながら首を振り、云った。

「大丈夫、なんでもないよ……。俺、思いだしたんだ。ユーリと出逢ったホスポダでのことも、子供の頃にあったことも、なにもかも」

 驚いたように顔を見合わせたふたりに、テディは顔をあげて笑ってみせた。

「本当か? 本当にぜんぶ思いだしたのか――」

「思いだして、その……ショックだったりとか、そういうことは……」

 ユーリにまでそんなことを心配されていたのかと、テディはちょっと驚いた。

「全然、平気だよ。ほら俺、これでもけっこうタフだから。大丈夫」

「じゃ、じゃあ、演奏も――」

「もちろんできるよ。今までどおり」

 うぉっしゃああぁ、やった!! と拳を握りしめた両手を振りあげるユーリを見て、ルカとふたりして笑う。そして、暫しそのまま見つめあったあと――

「……おかえり」

 そう云ったルカに引き寄せられるまま、テディは「ただいま」と肩口に頭を凭せかけた。

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