scene 15. Flood Warning

 プラハの空は五月半ばから断続的に雨を降らせ続けていた。

 灰色の厚い雲に覆われた空は初夏の太陽を出し惜しみしているかのようで、観光シーズンであるこの時期に相応しい晴天の日は数えるほどしかなかった。それどころか僅かな晴れ間さえだんだんと遠のいていき、雨は三十日になると更に激しさを増した。三十一日、六月一日と、雨はまったくやむ気配を見せないまま豪雨とその呼び名を変え、ヴルタヴァ川はじりじりと水位を上げていた。

 そんな状況だったが、ミレナはハナに電話をかけ、予定どおり息子アンドリンの誕生日である六月三日に、プレゼントを持って会いに行くと伝えた。

『――ばっかじゃないの!? こんな雨ばっかり続いてるときにわざわざ来なくていいわよ!』

「もう、そんな大きな声ださないで、落ち着いて話しましょうよ。雨はきっともうそろそろやむわよ。いつもならこの時期、こんなに降ったりしないじゃない。偶々降り続いただけよ、明後日にはきっと晴れてるわよ」

『ミラン……、いいかげんにその話し方やめてちょうだい……! お金も、もう送ってくれなくていいって何度云わせるの。あなたはいつまで経ってもそうやって、私の云うことなんかなにひとつ聞いてくれないで勝手なことばっかり――』

「ハナ、わかったわ……わかった。おねがい、アンディに会いたいんだ。会って顔を見て、プレゼントを渡して一緒に食事でもするだけでいい。君に迷惑はかけないから」

 必死に食い下がってなんとかハナを説得することができ、ミレナはほっとして電話を切った。部屋の隅に置いたままのプレゼントの入った紙袋を見やると、自然に笑みが浮かんだ。嬉しくなってスキップするように寝室へ入り、ミレナはなにを着ていこうかしらとワードローブを開けた。

 お気に入りの細かな幾何学模様のワンピースを手に取り、鏡の前で合わせてみて――ああ、と気づいた。そうだった。当日はアンディの父親として、男の恰好をしていくと約束させられたのだった。ミレナは残念そうにワンピースを眺め、ワードローブに仕舞うと、代わりにいちばん端から一着だけ残してある男物のスーツを取りだした。

 雨のために窓を閉めきった部屋のなかは蒸し暑く、スーツに鼻を近づけてみると微かに黴臭さを感じた。このままでは着ていけない。本当ならブラシをかけ、風通しのいいところに干しておくのだが――。

「……まだ雨降ってるし、しょうがないわよね」

 ――ミレナはその、決して嘘ではない自分に都合のいい言い訳に飛びついた。なにかのときにまだ必要かと思い処分しなかったスーツだが、できることならもう着たくはない。

 ミレナはスーツをまたワードローブに戻し、代わりにさっきのワンピースを出してベッドの上に広げた。そしてまたワードローブを覗きこみ、ワンピースに合いそうな淡い色のジャケットを二着出し、どっちがいいかしらと見比べる。

 ――ワンピースなど着ていったら、ハナは怒るだろうか。

 そんな恰好でアンディに会いにくるなんて! そんな姿は見せないでって云ったじゃない! 父親として会いにきたんじゃなかったの、嘘つき! そんなふうに罵られる場面が、容易に頭に浮かんだ。だが、ミレナはどうしても男の恰好をして、普通の男のふりをして行こうという気にはなれなかった。だってそれは、真実ほんとうの自分ではない。自分にしてみれば、そっちのほうが嘘なのだ。

 ワンピースの模様に使われている色と同じ、ベージュのジャケットを選んでワンピースの上に重ねて置いてみる。じゃあ靴もベージュかしらと思ったが、プラハのあの石畳を歩くことを考え、長く履いている足の楽なもののほうがいいかしらと迷う。暫し考えて、結局ヒールの低い焦げ茶色の靴に決めると、ミレナはバッグも同じ色にしなきゃと革のショルダーバッグをワードローブの奥から出した。

 できあがったコーディネイトを眺め、ミレナは思った――おろしたてでも一張羅というわけではなく、何度となく身につけている、いちばんのお気に入りばかりになった。つまり、これを着ているときの自分がいちばん好きな、自信の持てるスタイルなのだ。

 アンディはどう思うだろうか。驚くだろうか。……ひょっとして、スーツより似合ってるよ、なんて云ってくれはしないだろうか。

 ジャケットとワンピースはもうワードローブには戻さずハンガースタンドに掛け、ミレナはリビングへと戻った。早く明後日になればいいのにと思いながら、いつも坐っているソファの、扇風機の風があたる位置に腰を下ろし、何の気無しにリモコンでTVをつける。

 ニュースでは、ヴルタヴァ川の支流であるどこかの小さな川が決壊寸前で、周囲の住民が玄関などに土嚢を積んでいる様子が映っていた。





 翌日も雨はやまなかった。ミレナは買い物から帰ってくると買ってきたものを仕舞いもせず、スキップするような軽い足取りでバスルームに向かった。

 シャワーを浴びて着替えながら、昔好きだった曲を口遊む。まるで遠足前日の子供だわ、とくすくす笑いながら、ミレナはマイクロウェイヴオーブンで温めるだけの冷凍食品とビールという夕食を準備した。

 ここに越したばかりの頃は料理もいろいろと頑張ってみたものだが、ひとりだと手間とコストばかりがかかってしまい、続かなかった。こんなTVディナーや惣菜を買ってくるほうが、手軽にすぐ食べられて美味しく、しかも栄養のバランスも取れている。

 もちろん、ハナが作ってくれた、アンディも一緒に三人で摂る食事とは比べ物にならないが。

 腹八分目に少々足りないくらいの食事を終え、ミレナはTVをつけた。刑事もののドラマをやっていて、それがなかなかおもしろかったので夢中になって視ているうち、あっという間に一時間半ほどの時間が経った。ああおもしろかった、と思いながら、ハナがここにいれば一緒に視て感想を云い合ったりできるのに、と感傷的な気分になる。

 ドラマが終わったあとそのままにしていたチャンネルでは、CMに続いていつものニュース番組が始まった。ニュースは今日も連日の豪雨について、キャスターが深刻な表情で各地の状況を報告していた。とうとうチェコ全土に洪水警報が発令されるに至り、プラハでは水位を増したヴルタヴァ川に止水板が設置され、地下鉄が運行を停止し、代わりにトラムを臨時に増発しているとのことだった。

 TVディナーのトレイやビールの缶を片付けていたミレナは画面を見て立ち止まり、眉をひそめた。さすがにもうそろそろ雨はやむだろうと思っていたが、どうやらそれは希望的観測が過ぎたらしい。

 増水した河川や冠水した地域の映像を食い入るように見ていると、ピピピピ、という音とともに速報が入った。画面上部に文字が流れ、同時にスタジオのキャスターが一部地域に非常事態宣言がでました、とテロップと同じニュースを読み始めた。



『連日の豪雨の影響で、河川の水位が上昇し続けています。

 チェコ政府は二日、午後九時現在、パルドゥビツェ、カルロヴィ・ヴァリ、及び、ヴィソチナを除くチェコ西部ボヘミア地域全域に非常事態宣言を発令しました。これらの地域では既に冠水等の被害が発生、拡大しており、一部地域では住民の避難が進められています――』



 非常事態宣言? と驚いていると、それに追い打ちをかけるように背後で電話が鳴った。びくっと一瞬竦みあがり、慌てて振り返り受話器を取ろうとして――ミレナはその手を引っこめた。

 きっとハナだ、と思った。ニュース見た? やっぱり無理よ、明日は諦めて。と、そんなことを云うためにかけてきたに違いない。

 しつこく鳴り続ける電話を、ミレナはじっと見つめていた。

 確かに、思っていたよりずっと酷い天候だ。川も増水していて、場所によっては危ないのかもしれない。だがトラムは動いているし、街の中心辺りなら問題はないのではないか。

 プラハでは二〇〇二年にも洪水被害があり、その後、被害を最小限に留めるための対処がいろいろと為されたと、以前TVの報道特集で視た。きっと大丈夫だ――。

 ようやく諦めたのか、電話の音が止むとミレナはほっと緊張を解き、ソファに戻った。

 ずっと待ちわびていたのだ。今更、やっぱりアンディに会うのを諦めろだなどと、そんなことはとても考えられない。

 ミレナのそんな気持ちとは裏腹に、ニュースでは激しく降り続く雨のライヴ映像をバックに、キャスターが新しいニュースを読みあげていた。



『現在チェコ全土に洪水警報と、一部地域に非常事態宣言が発令されております。ただいまこちらに映っているのはプラハ、ヴルタヴァ川の様子です。先程の非常事態宣言を受け、川沿いの道路には交通規制がかけられ、カレル橋も閉鎖されたということです――』

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