scene 12. エゴイスト

 ふと目を覚まし、ルカはゆっくりとベッドから出た。

 ホールへ続くドアを開けると、怯えた仔犬が唸っているような声が微かに耳に届いた。セラピーを受けるようになってから、テディは夜中にときどき、こうして魘されるようになっていた。静かに寝室を覗いてみると思ったとおり、苦しそうな声を漏らしながらテディがシーツを掻いている。

 汗で額に貼りついている髪をそっと指で撫であげてやり、ルカは「テディ、起きろ……」と肩を揺すった。

 テディはいやいやをするように首を振ったりしていたが、ルカが何度か声をかけるとようやく目を開け、こっちを見てほっとしたように息を吐いた。

「大丈夫。悪い夢でもみてたみたいだけど、なにも怖いことはないよ。もうなにも起こらない。落ち着いて」

「うん……ありがとう」

 テディがそう云って半身を起こすのを見て、ルカはよし、と頷いた。

「ちょっと待ってろ。ホットミルクを淹れてくるよ、甘いやつな」

 キッチンへ行って明かりをつけ、ルカは小鍋に牛乳を入れて火にかけた。ユーリが買ってきてくれたのが残っていてよかったと思いながら、冷蔵庫を埋めているたくさんのタッパーウェアや、ラップに包まれた皿を見る。明日食えと云ってユーリが作っていったフレビーチェクChlebíčekは、旧市街にある店で売られているもののような見事な出来栄えだったが、よく見てみればハムとチーズやトマト、スライスした茹で卵、スモークサーモンとアボカドなどが、サワークリームやクリームチーズと一緒に乗せてあるだけだった。こんなふうに具を見栄え良く盛るのは慣れが必要かもしれないが、なんだか自分にもできそうだなとルカは思った。

 火を止め、湯気を立てているミルクに砂糖を二杯入れマグに移すと、テディがひょこっとキッチンに顔を覗かせた。

「なんだ、待ってればよかったのに」

「うん……なんか、すっかり目が覚めちゃったから」

 そうか、と微笑みながらマグを渡し、ルカは冷蔵庫からマットーニを取りだした。ありがとう、と笑みを浮かべて早速マグに口をつけるテディを見て、本当に子供みたいに素直だなあとあらためて思う。初めて会った学生の頃だって、こんなふうじゃなかった。

 あとになって知ったことだが、ロンドンの学校でルカと出逢う前、テディは母親を事故で喪い、同時に母親の情人が姿を晦ませたため一時的に施設に保護されていたらしい。そしてその後祖父に引き取られ、あの学校に編入することになったわけだが――ハウスでルカと新しい生活を始めたとき、テディは性的虐待から逃れて、まだ数週間しか経っていなかったということになる。

 堪え難い仕打ちから開放されたとはいえ、それが母親の死によってだなど、迂闊に喜びもできない。ルカはいつだったか、テディが云っていたことを思いだした――もうこれで俺になにかしてくる奴はいないんだって、心底ほっとしたんだと、彼は確かそう云っていた。母親が死んだというのに真っ先に思ったのがそんなことだと、きっと自己嫌悪に陥ったに違いない。それ以外にも、祖父とのすれ違いや誤解もあり、当時十四歳だったテディが子供らしい純真さや無邪気さをすっかり曇らせてしまっていたとしても無理はない。

 ――ならば、やはり今のテディが本当のテディなのだろうか?

 テディが小首を傾げ、じっと見つめてしまっていたことに気づく。ルカはマットーニを一口飲み、ごまかすかのように「さて、戻るか……ああ、もし眠れそうにないなら寝室の棚の中に本があったろ。三段めにあるミステリのペイパーバック、おまえのだよ。あれでも読んでろ」と云った。

「ミステリ?」

「ああ。おまえ、しょっちゅう読んでた。明日は予定もないし、眠くなったときに寝ればいいよ。別に朝、起こさないから」

 じゃあおやすみ、と先にキッチンを出ようとしたとき――不意に袖を引かれるのを感じ、ルカは振り返った。

「ん? どうした――」と尋ねる間もなく、テディの唇が頬に触れた。ルカは目を丸くして、「おやすみ、ルカ」とはにかんでいるテディを見つめた。

「びっくりした……そういう気は遣わないでいいよ。無理すんな」

 抑えている雄の衝動が蠢きだしそうなのを感じ、ルカは逃げるようにしてテディに背を向けた。じゃあキッチンのライト頼むな、とあらためておやすみを云い、さっさとリビングを横切って部屋に戻る。

 だから、ルカは気づかなかった――ひとり残されたテディが表情を昏くして、しゅんと寂しそうに俯いていることに。





 翌朝、もっと遅くまで起きてこないかと思っていたテディが九時過ぎにリビングへ出てくると、ルカはユーリが作っておいてくれたフレビーチェクを出し、コーヒーを淹れた。

 テーブルを見て、なんだかもう少しボリュームが欲しいなと思い、冷蔵庫を開けてプラハハムPražská šunkaの残りを取りだす。思いついて卵も出し、フライパンを火にかけた。

 ルカがこうしてキッチンに立ち、なにかを作ろうとするのは初めてのことだったが、やり方をまったく知らないわけではない。ちゃんと油をひいて、ハムを広げ、その上に卵を割り入れる。が、やはり不慣れな所為か殻が入ってしまった。

 ルカは慌てて手で取り除こうとし、「っち!」と声をあげた。

「どうしたの、大丈夫!?」

「ああ、ちょっと……うっかりフライパンに指突っ込んじまった。殻はちゃんと取れたよ。えっと、あとは塩胡椒して蓋――」

「だめだよ、すぐに冷やさないと……」

 テディに腕を引かれ、水を出した蛇口の下に手を翳す。自分を心配そうに見つめるテディに「大丈夫だよ、たいしたことない」と云って水を止め、キッチンペーパーで手を拭うが、冷やすのをやめた途端、指先はひりひり、ずきずきと疼き始めた。

 火傷なんて何年ぶりだろうと苦笑しながら、慣れないことはするもんじゃないなと呟く。すると頭の中で、やらなきゃいつまで経っても慣れないだろ、とテディの声がした――そうだった。何度となく自分たちで簡単な料理くらいしようと云われていたなと思いだし、くすりと笑う。

 しかし今のテディは、タオルを取ってくる、氷も要る? とひたすら気遣ってくれるだけだった。

 顔を顰めながら、フライパンの蓋を開けてみる。じゅっと湯気が立ち込め香ばしい匂いが広がったが、ターナーを使って焼け具合を見てみると、たまごもハムも真っ黒だった。

「……火が強すぎたみたいだ」

「……大丈夫だよ、焦げたとこだけ剥がして食べれば。そんなことより、手は?」

「平気だよ。無理してこんな苦そうなの食わなくていいよ。フレビーチェクだけ食っといて、あとで出ようか」

 食べながら、今日はハウスクリーニングが来る日だし、家を空けていたほうがいいんだとルカは云い、どこか行きたいところはないかとテディに訊いた。任せるよ、とフレビーチェクを頬張るテディに、ルカはぐるっとドライブしてからどこかでお茶でも飲んでくるかと考え――ふと、ある店のことを思いだした。

 チョコレートとシナモンの入ったカフェオレが旨い、ケーキの種類がたくさんあるカフェに行くか? と尋ねると、テディは嬉しそうに目を輝かせて頷いた。





 カレル橋の一つ南にあるレギオン橋をヴルタヴァ川西岸に渡った辺り、マラー・ストラナ地区にあるカフェ・サヴォイCafé Savoyは、一八九三年創業というウィーン風の気品漂うカフェレストランである。有名店だが、旧市街広場など観光名所の中心からはやや外れているため、それほど混み合うことのないお薦めな老舗カフェだ。

 ネオルネッサンス様式の美しい天井は保護文化財の指定を受けていて、二階席に上がればゴージャスなシャンデリアと落ち着いたインテリアを眺めながら、ゆっくりと過ごすことができる。


 二階窓側の端にあるテーブルで、ルカはエスプレッソ、テディは来る前に勧めたサヴォイ・カフェオレを飲んでいた。テディは二階に上がる前にデザートカウンターでじっくりとケーキを吟味し、ひとつに絞れないと云ってチーズケーキとフルーツタルトのふたつを注文した。ルカはドゥルトゥ・サヴォイという、キルシュトルテをマルツィパンで包んだような、甘酸っぱいケーキを選んでいた。

「旨いか」

「うん、美味しい」

 実は、ここにテディと来たのは二度めだった。前回はプラハに住み始めてしばらく経った頃、朝食の時間に来たのだった。そのとき、テディが云ったのだ――ケーキ、すごく美味しそう。今度はお茶の時間に来ようよ、と。

 幸せそうな顔でケーキを食べているテディを見つめながら、ルカはなんだか自省的な気分にとらわれていた。

 ――料理もドライブも、こんなふうにカフェに来るのも、どうしてもっとやってこなかったのだろう。

 テディが記憶を失っているから、病人のようなものだから、自分は今あれこれと世話を焼いているのだろうか。記憶を失う前、テディが決して離れていったりはしないからと、自分は驕っていたのではないだろうか? 一緒に出かけていないわけではなかったが、行くのは必要な食事のためばかりで、こんなふうに甘いものを食べにわざわざ出ることはほぼなかった。

 テディの喜ぶことをなにもしてやらず、そのくせテディが本当に自分に惚れていたことがないなんて、莫迦なことを云って怒らせて、挙句の果てにあんな事故を起こさせてしまって――

「……ルカ?」

 ふと名前を呼ばれ、ルカははっとして笑顔を作った。エスプレッソを一口飲み、「このあと、本屋にでも行こうか」とごまかす。

 テディにとっては、なにも思いださないままのほうがいいんじゃないか――ユーリの言葉が頭にこびりついて離れなかった。ロンドンの医師に云われたときはまったく考えもしなかった、ありえない選択肢だったのに、まさかユーリがそんなことを考えるなんて思いもしなかった。

 出逢ったばかりの頃に勝手にイメージしていた、素直で純真な、まるで子供のようなテディ。トラウマになっている出来事をすっかり忘れた、擦れても屈折してもいない、したたかさも感じられない、イノセントなテディ。

 ルカ自身も揺れていた――本当に、そのほうがいいのかもしれない。しかし、バンドは? 自分との関係は?

 そろそろ行こうかと席を立ち、階段を下りて店を出る。車を駐めたところまで歩き、蒸し暑くなってきたねと振り返るテディを見つめ、ルカは思った。

 ――記憶を失っていようがいまいが、自分との関係やバンドについてはテディ次第だ。そんなことを考えて思いだすほうがいいか否かなどと、とんでもないエゴではないか。

 自分はこんなに利己的な性格だったのかと、思わずぐっと拳を握りしめる。

 火傷した指先が、ひりひりと痛んだ。

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