scene 8. 家路

 翌日、三回めの催眠療法ヒプノセラピーを受けたテディは、予定よりもかなり早く病室に戻ってきた。今日は昨日のようにストレッチャーに乗せられてはいなかったものの、鎮静剤の所為かなんだかぼうっとしていて、それが痛々しく見えた。

 さすがイギリスの病院と云うべきか、毎日食事以外に十時、三時、夜の九時の三度、お茶の時間がある。この日も三時になる少し前、ティーポットとミルクピッチャー、そしてキャロットケーキが運ばれてきた。オーバーテーブルに置かれたそれを奥のテーブルに運び、ルカはテディに手を貸してベッドからソファへ移動させた。

 カップに紅茶を注ぎ、砂糖とミルクも入れてスプーンを回す。クッキーの缶も開け、テディの手の届くところに置いてやった。――テディの好みなら、今の本人以上に知っている。

 だがテディはいつものように微笑むこともなく、食欲もなさそうだった。ソファに坐ったままじっとカップを見つめるように俯き、一言も発しない。

「どうした、キャロットケーキはあんまり好きじゃなかったか?」

 そんなふうに、ルカはわざと軽い口調で尋ねたが、テディがセラピーの影響で不安定になっているのは明らかだった。

「いらないなら俺が食べるよ。クッキーくらいなら食えないか? チョコはどうだ?」

 そう云ってルカがあれもこれもとお菓子の缶を開けていると、テディは鬱々とした顔を上げ、「ごめんなさい……」と謝ってきた。

「ごめん、って……なにがだ? どうしたんだよテディ」

「こんなによくしてもらってるのに……セラピーも、ちょっと怖いけどそれで早く記憶が戻るならって思ってたのに……うまくいかなくて」

「テディ」

 ルカは苦笑した。学生の頃、テディはよくこんなふうに落ちこんだり、人に気を遣って申し訳なさそうにすることがあった。やっぱり変わってないなと思いながら、ルカは首を横に振った。

「なんにも謝ることなんてないよ。セラピーはまだ三回しか受けてないんだ、そんなにすぐ効果があるもんでもないだろ。それに、合わなかったら無理に受けなくたっていいんだ。気にすんな」

 努めて明るく、優しくルカはそう云ったが、しかしテディはその日、ずっと昏い表情のままだった。





 ロニーはいつもよりも遅く、五時過ぎにやってきた。扉を少し開けて顔を覗かせるその様子になにか話があるのだと察すると、ルカはベッドからぼうっと窓の外を眺めているテディを残し、さりげなく病室を出た。

「――一区か、どの辺り?」

「川沿いよ。ちょうどレトナー公園の対岸辺り。最初は十区にある大学病院を薦められたんだけど、あんまり大きすぎるところじゃないほうがいいかと思って……。そこも総合病院だけど、そんなに大きすぎないし評判もいいの。もし万が一また入院することになっても、窓からの景色は最高よ」

「わかった。悪いなロニー」

「じゃあ、もうお医者さまに云ってここは出る?」

「そうだな、早いほうがいい。……テディも、いつまでもぱっとしない景色を眺めてるより、プラハに帰ったほうが喜ぶ気がする」

 ルカもテディも学校はロンドンの中心地に近かったし、ドロップアウト後にロンドン東部、ストラトフォードの外れで暮らしていたこともあった。しかしロンドン南部に位置する此処ブリクストンには、ほとんど馴染みがない。病室の窓から見える景色もただ中流階級ミドルクラス向けのヴィクトリアン・テラスハウスと木々の緑が見えるだけで、夜は夜景と云えるような眩さもなにもない。

 ブリクストンマーケットやデヴィッド・ボウイの生家など、見るべき場所はあるし、以前はかなり悪かったと云われる治安も、近年は改善され街としてイメージアップを図っていると聞いた。だが入院しているテディには、窓の外の景色がすべてだ。

 ヴルタヴァ川に架かるカレル橋、ライトアップされたプラハ城。そしてその灯りがきらきらと映る川面――プラハのあの美しい夜景を見れば、テディはなにか思いだしてくれるかもしれない。思いださないまでも、きっと喜ぶに違いない。喜ぶ顔が見たい。




       * * *




 最初に様子を見ましょうと云われた十日間より一日遅れて退院することが決まると、ルカは入院していたテディ以上に私物の多くなった病室を整頓した。そのまま病院で使用してもらうものと航空便で自宅へ送るものに分けて纏めると業者を呼び、テディの着替えなども合わせて荷造りと発送を任せた。ロニーはプラハの病院と連絡をとり、主治医に頼んで電子カルテの共有など、必要な手続きはもうすべてしてもらったと報告してくれた。これで、あとはもうここを出て飛行機に乗るだけだ。

 世話になった看護師たちや配膳のスタッフに挨拶をし、ルカが久々にセレブの貌で握手攻めに応えているあいだのこと。

「――あら……ルカ? ルカじゃないの」

 ふと聞き覚えのある声がして、ルカとロニーは同時にそっちへと振り向いた。

「エマ! ああエマ、久しぶり! いつぶりかしら、元気?」

 ロニーが先に足早に近づき、ハグをした。ルカも握手を切りあげ、失礼、と云ってその場から離れる。途惑った表情で立ち尽くしているテディの背を押し、ルカは初めて見るかもしれないカジュアルな恰好のエマに挨拶をした。

「やあエマ、久しぶり……ロニー、病院で会って元気? もないもんだ。誰かの見舞いかい?」


 ファッション誌である〈Floraisonフロレゾン〉のイギリス版編集長であるエマは、ジー・デヴィールをブレイクさせるのに一役買った恩人のひとりである。

 プロデビューはしたものの、まだまったく売れていなかった彼らがマンチェスターでニールという音楽好きの記者に出会い、そのニールが元妻エクスワイフであるエマを連れてきた。エマはその持ち前のセンスでルカとテディのふたりを磨きあげ、ファッションスナップを撮って〈フロレゾン〉に掲載した。

 そして仕上げとばかりにニールがそのページの画像をSNSで拡散させ、それをきっかけにジー・デヴィールの人気が、世界中で爆発したのだった。


「私は元気よ。ここへは処方箋を貰いに来ただけ。そうだわ、このあいだのチャリティライヴ、事故で急に出演できなくなったって聞いたけど、なにかあったの? 誰か怪我をしたの? 心配してたんだから。……テディ、あなたも顔色が悪いわよ。またなにか変なものやってなぁい?」

「あ、あの……」

 一瞬、ロニーと視線を交わすと、ルカは「そんなことより」とテディを隠すように一歩前に出た。

「処方箋って? やっぱりどこか悪いのか?」

「え、うん……私のじゃないわ。ニールのなの」

「あ、そうなのね……。どう? ニールの具合は」

「元気よ。病院にいた頃よりはずっといいわ」

 以前エマと会ったとき、ニールはバルコニーから酔って転落し、介護が必要な状態になったと聞いていた。知り合ったとき既に夫婦ではなかったふたりだが、では今はエマがニールの世話をしているのだろうか。

 同じことを考えていたらしく、ロニーが尋ねた。

「あなたがニールのお世話をしているの?」

「ええ、ヘルパーさんにかなり頼ってるけどね。ここからちょっと行ったところにいい家をみつけて、バリアフリーにリフォームして引っ越したの。おかげで車椅子での移動も楽だし、そんなに大変じゃないのよ? あの人、映画さえつけておけばずっとTVの前にいるしね。最近じゃひとりでもいろいろできるようになってきたし……広いお庭もあるから今度、犬でも飼おうかしらって思ってるくらいよ」

 そんな話をするエマの表情は明るく、なんだかとても幸せそうに見えた。

「そう、よかった。……よかったわ」

 じっとエマを見つめながらロニーがそう云うと、エマは嬉しそうに顔を綻ばせ、再びハグをした。

「ロニー……、ありがとう」



 ――ニールが撮影をしたドキュメンタリー映画の、本来ならばアウトテイクになっていたはずの過激な映像が流出し、スターダムへと駆けあがっていたジー・デヴィールの人気が一時的に失墜したのは、まだほんの二年半ほど前のことだ。

 その後ニールは連絡が取れなくなり、エマから消息を聞いたときはもうまともに話ができる状態ではないということだった。ルカたちはニールを訴えることも批難することもできないまま、イメージチェンジを図りアルバムのプロモーションに励んだ。そして日々に埋もれるにまかせ、あの事件についてはもう思いださなくなっていた。

 そんなことがあったとはいえ、ニールがバンドにとって恩人であることに変わりはない。どんな事情があったのか気になりはしたが、ルカももうニールに対してわだかまりはなかった。



「――じゃあ、私たちそろそろ……躰に気をつけてね、エマ」

「ええ、あなたたちも元気で」

 エマと別れ、三人は病院を出てタクシーに乗り、ヒースロー空港へと向かった。


 テディは初めての心地なのか、それともなんとなく見憶えがあるのか、空港に着くと不慣れな観光客のようにきょろきょろしていた。不安そうではないその様子を見て、ルカは安堵の笑みを浮かべた。

「いろいろ見るのはいいけど、俺らが有名人だってことだけ忘れるなよ。なるべく目立たないように、人の多いところでは俯いて」

「あ……うん。わかった」

 お気に入りだったキャスケットを深々とかぶり直し、テディは視線を落として歩き始めた。ルカはつい苦笑した――テディがこんなに素直だったことなど、今までにあっただろうか。

 ――それとも、これが本来の彼なのだろうか?

「……あ、いっけなーい」

 ロニーがいきなり立ち止まった。「なんだよ」と訊くと、ロニーはしまった、という顔をしてこう答えた。

「ハロッズでベビー服とテディベアを買うはずだったのに、忘れてた……。ああどうしよう、ターニャ楽しみにしてるのに……」

「ターニャ? ああそっか、もうそろそろだっけ?」

 ターニャというのはジー・デヴィールの事務所でロニーの片腕を務めている女性スタッフだ。同じくスタッフのマレクとめでたく結婚し、今は第一子の出産を控えて休暇中である。

「うん、確か予定日は五月よ。五月の二十……何日だったかしら」

「ハロッズのがいいのか? ネットで買えるだろ」

「そうね……ちゃんと見て選びたかったけど。ネットでいいか」

 それ以外には特にトラブルもなにもなく、三人の搭乗した飛行機は無事プラハへと向かい、飛び立った。

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