scene 5. クリスとテディ

「おふくろ……」

 デニムジャケットに黒のスキニーパンツという若々しい恰好の所為かもしれないが、久しぶりに見る母の姿は八年前とちっとも変わっていなかった。が、アドリアーナがルカを見つめるその目をうるうるとさせ、「ルカ……おとなになって。こんなに……立派になって……」と泣き笑いの表情になると、以前は目立たなかった目尻の皺が、やはり相応の年月を感じさせた。

「ちょっ……こんなところで泣くなって。……中に入れよ」

 ルカがそう云って病室内にアドリアーナと一緒に入り扉を閉めると、ベッドの脇にいたクリスティアンが「おい、あっちで話してこいって云ったのに」と振り向いた。

「だって、おふくろが泣きだすから」

「しょうがないな。――すまないね、テディ。俺の妻、つまりルカの母親のアディだ。ちょっと落ち着くまで居させてやってくれ」

「あ、はい。どうぞ……」

 母に奥のソファを勧め、ベッドの脇にある椅子に腰掛けている父を見やりながら、ルカは自分もソファに戻った。そしてハンカチーフで目許を押さえている母を見て、ん? と気づく。

「なんだよそのTシャツ。なんでそんなの着てんだよ恥ずかしい……」

 アドリアーナが着ているのはフロントに大きくロゴの入った、ジー・デヴィールのオフィシャルTシャツであった。

「あなたたちのライヴを観に来たんだから、着たっておかしくないでしょう。ぜんぜん関係ないのを着てるクリスのほうが変でしょう?」

「? おやじ、なに着てんだ」

「うん?」

 ジャケットをはだけてクリスティアンが見せたTシャツには、『HÜSKER DÜ』という文字が書かれていた。ハスカー・デュとは、八〇年代に活躍したアメリカのハードコアパンクバンドの名前である。

「なんでそんな微妙にマニアックなの着てんだよ!」

「マックスに借りてきた」

「……あいつ、ハスカー・デュなんか聴くんだ?」

「いや、ファッションだろ。あとヴェルヴェッツとニルヴァーナとオアシスまであったからな」

「ロックファンがゆるさないやつだな。でも、おやじは聴くのかよ」

「なんだ、ジー・デヴィールのを着てほしかったか?」

 くすくすと笑う声がして、ルカとアドリアーナ、そしてクリスティアンはベッドにいるテディを見た。

「思ったより元気そうだ。どうだい、入院生活は」

 クリスティアンが尋ねると、テディは苦笑し、首を横に振った。

「一日が長いです……。躰が動かないわけじゃないし、じっとしてるのが苦痛で」

「だろうね。躰がなんともないのなら退院して普段の生活に戻ったほうが、記憶も早く戻るんじゃないかって気がするね」

 ルカはクリスティアンとテディが話す様子を黙って見ていた。すぐ傍から自分を見つめる視線も感じたが、そっちを向いて、あらためてなにを話せばいいのかわからなかった。

「……ええ……、でも俺……」

「うん?」

「その……彼……、息子さん、が……ご親切に退院後、俺のサポートをしてくれるって云うんですけど……それが、申し訳なくて……」

「どうして?」

 さっきの話に戻ったな、とルカは黙ったまま、テディがなんと答えるか耳を傾けていた。

「……だって、今の俺はなにも憶えていないんですよ? 知らない人に世話になるような気分なんです。こうして病院で看護師さんたちの世話になるのとは、まるで違います……こんな状態で、迷惑はかけられません」

 ――知らない人、という言葉を聞き、ルカは思わず額に手を当て、がっくりと下を向いた。

「おやおや。憶えてないにしても、説明くらい聞いたんじゃないのかい? 君は、学生時代からのルカの恋人だって」

「え、あの……」

 顔を上げると、テディが困ったようにクリスティアンと自分の顔を見比べていた。ふぅ、と息をつき、ルカはテディに向かって云った。

「おやじもおふくろも知ってるよ。俺とおまえのこと、なにもかも」

「あ……そう、なんですか……」

 そう云って、そのことが原因で自分を勘当した母を見る。

 アドリアーナは、ぎゅっとハンカチーフを握りしめたまま、黙って顔を伏せた。

「アディ。落ち着いたんなら、ルカと階下したのカフェにでも行って、話しておいで」

「ええ……」

 クリスティアンに云われ、アドリアーナはそう返事はしたものの、動く気配はなかった。クリスティアンはまたテディに向き、話し始めた。

「ふふ、ルカとアディはね、君のことが原因でもうずっと口も利いていなかったんだ。学校を追いだされたときからだから、もう八年以上になる」

「え……俺の所為――」

「おやじ、なに云ってんだよ! そんなことを――」

 いきなりそんなことを云いだした父に驚き、ルカは血相を変えて立ちあがった。しかし、クリスティアンは気にする様子もなく、続けた。

「そう。テディ、いいかい? うちの大切な息子、ルカは学校で君とルームメイトになって、恋仲になって、とんでもない事件を起こした。そして放校になった……ぜんぶ君の所為だ。ルカは、君と出逢ったことで、がらりと人生を変えられてしまったんだよ――」

「なんでそんな話を! やめろよおやじ、テディに今そんな話をしてどうするんだ!」

 ルカは慌ててベッドに近づき、クリスティアンを止めようとした。しかしクリスティアンは落ち着き払ったまままったく動じず、逆にルカを制した。

「大きな声をだすんじゃない、ルカ。病院だぞ。――こんな息子だが、成績は良くってね。もうシックスフォームに上がっていたし、てっきりいい大学に入って就職もそれなりのところに行くんだろうと思ってたもんだから、アディはすごくショックを受けてね……それで、勘当したんだ。もう帰ってくるな、出入り禁止だって電話で云ってね。で、ルカは本当にそれから一度も家には帰ってきていないんだ。テディ、君はルカにもう既に散々迷惑ばかりかけてきてるんだよ? なにもかも、すべて君が原因だった」

 テディは表情を凍りつかせ、涼しい顔でそんな話をするクリスティアンをじっと見ている。

 楽しげにも見える笑みを浮かべ、淡々とクリスティアンは続けた。

「でも、それほど君に人生を狂わされているルカが、まだ君と一緒にいて、こんなことになった今も君の傍に居続けようとしてる。……ふふっ、俺は嬉しいよ。ついつい甘やかして育ててしまったと思ってたが、こいつもなかなか大した奴になったじゃないか。こんなに気骨きこつがあるなんて知らなかったよ。それに一途だ……俺に似たのかもしれないな」

 クリスティアンを睨み、テディを心配そうに見ていたルカは、その言葉にぐっと握りしめていた拳を緩めた。

「テディ。ルカは決して君に、いや、自分に嘘をつかない。つけないんだ、莫迦正直でね。だから、こいつが君の面倒をみたがってるなら、みさせてやってくれ。信じて傍にいてやってくれ。大丈夫。それを重荷に感じるような奴なら、とっくに君と離れてるさ。これまでのことを思えば、記憶を失くしたくらい全然なんでもないことだよ。自分が忘れられようがなんだろうが、君がこいつにとってなによりも大切な存在であることに変わりはないんだ。安心して迷惑をかけるといい。……わかったかい?」

 暫し呆気にとられたように、ぽかんとクリスティアンの顔を見ていたテディだが――

「……はい、わかりました……、ありがとう……」

 そう答えたその目には、涙が溢れていた。

「よし。いい子だテディ。わかったら、もうルカのことを知らない人だなんて云わないでやってくれ。それと、その堅苦しい喋り方も、もうなしだ」

 さすがにこいつもそれにはけっこう参ってたと思うよ、と続けたクリスティアンの言葉に、テディははっとしたようにルカを見た。

「……ごめん……、俺、憶えてないからってあなたの……ルカの、気持ちを考えてなかった……。いろいろごめん、ルカ……」

 数日ぶりに名前を呼ばれ、ルカは思わずテディを抱きしめたい衝動に駆られたが、そこはぐっとこらえた。一歩近づき、また目許が熱いのを感じながら、微笑んで手を伸ばす。

 じっと見つめながら触れた手が、少し動く。そして、きゅっと小指と薬指が握られるのを感じると、ルカは今度こそ堪えきれずにぽろりと、涙を溢した。

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