第9話9.娘と父
アレが雑木林の奥へ消えたのを見計らって、標樹の下に一人の男が現れた。
フェイロンは戦いに行く前に、もう一度だけとここによったのだ。
そして、北斗苑の中にピンクの髪を見、動けなくなってしまった。
愛する妻と全く同じ、薄紅色のフワフワとした髪。皇后の生き写しのような幼い子。
それが、こんな夜更けに一人でいる。
フェイロンは思わず腰の剣に手をかけた。
一目でも自分の前に現れたら、切って捨てようと思っていた。
きっとあの娘は、アレだ。
愛する妻を殺したモノ。
皇后は元々体が弱く、二人目の子どもを出産するのは難しいと言われていた。
その命が宿ったとき、フェイロンは迷わず彼女に告げた。
子どもの命よりおまえの命が大切だ、と。
しかし彼女は悲しく笑って、認めなかった。
この子の半分はあなたでできているの、私はあなたを殺させない、と言った。
しかし、そう言った母を殺し、あの娘は生まれてきた。
真っ赤な顔で泣く、しわしわで小さく醜悪な生き物。少しだけ映えたピンクの髪には、妻の血がこびりついていた。
そんな得体の知れないモノを抱いて妻は笑った。
笑ったのだ。
―― この子はあなたを幸せにします ――
まるで予言のように妻は言い残し、逝ってしまった。
あんなモノはいらない。アレのために、妻を、皇后を、天使を失うことが許されるか。
「アレは処分する」
刀に手をかけた瞬間、皇后の侍女マルファが赤い生き物を抱きしめて床にひれ伏した。
「どうか、どうか、お許しください。皇后様の忘れ形見なのです」
侍女ごと切り捨てようとしていた刀が床に落ちる。
彼女の言葉がよみがえる。
―― この子の半分はあなたでできているの、私はあなたを殺させない ――
ならば、アレの半分は妻でできているというのか。そう思ったら殺せなくなった。
しかし、愛することは無論、許すこともできない。
燃えたぎる憎悪をどうやっても消すことなどできない。
これ以上見たら殺してしまう。
だから命じた。
「ただし生かすだけだ。次に見たら殺す。それ以上を望むな」
今は殺さない。次はない。誰かに殺されるならそれでいい。自分で死ぬならそれでもいい。逃げ出すならそれでもかまわない。それだけが最大の譲歩だ。
次に見たら殺す。そう思っていたアレがそこにいる。
刀を抜いて、斬りかかれば良い。簡単に死ぬだろう。
なのに足が動かない。
小さな子は石に向かって跪き一心に祈る。
「あの人に届きますように。無事に帰ってきますように」
小さく高い声が闇夜の中にほのかな光となって漂う。
あの人とは俺のことか。会ったこともない俺のことか。殺そうとしている俺の無事を祈るのか。
抜きかけた剣は、それ以上鞘から出ることはなかった。金縛りにあったように体ごと微動だにしない。
アレは祈りを捧げると、逃げるようにそこから立ち去った。
アレが消えてからしばらくして、ようやくフェイロンは石の元へ歩いて行った。
そこには端布が一枚、石の上に置いてある。
まじまじと見てみれば、指で書いた『天使の守護印』があった。
教えたばかりの魔法文字が、太い線でつたなく書かれている。
アレだったのか。
標樹を咲かせたまじないをした者。魔法文字を習おうとしていた者。
それがアレだった。
お守りのつもりなのか?
グシャリと握り潰す。
妻が死んで四年。アレは三歳になったのか……。
アレは紙とペンすら持っていないのだ。その中で、アレなりに考えて用意したのがこれだった。
フェイロンは握りしめた端布を丁寧に広げ直した。
字など書けないはずなのに……。誰かに書いてもらったのか? いや、この汚い字は子どもの字だ。
そして、小さくたたみ直し、胸のポケットにしまった。
紙もペンもないのか……。乳母は何をやっている。三歳であれほどの才能があるのだ。きちんと教育すれば、……いや、与えなかったのは私だ。
フェイロンはきつく目を閉じ頭を振った。
見たら殺すと思っていたはずなのに、切り捨てなかった自分がいる。
かといって、皇宮に戻そうとも今はまだ思えない。
遠征から帰ってから考えよう。
遠征で血を見れば、今の軟弱な迷いから目が覚めるかもしれない。
次に見たときは殺したいと思うかもしれない。
だから今は――。見逃してやる。
フェイロンは標樹を見上げた。標樹が少しだけ明かりを落としたように見えた。
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