第37話 その坂の途中にて (かつての投稿時テーマ 幕)
今夜、私とTさんが飲んだのは四ッ谷駅の近くだった。
店を出た時、Tさんは相当に酔っていた。
「もう、今日は五月十四日になったのだね。いつもそうだが、この日は一人で飲むには寂しい日なのだよ。だから、君を呼んだのだ。……悪かったね。
すまないが、もう少し、付き合ってくれないか」
Tさんは、歩き始める。
私は、Tさんの一歩分後ろをついて行く。
「なあ、江戸幕府の幕が下りたのは何時だったと思う?」
Tさんが口を開いた。
私は黙ったまま歩く。
Tさんは、私に質問している訳ではない。
「徳川の時代が終わったのは、元号が明治になった時なのは間違いないがね。
だが、終わったのは徳川の時代だけで、明治が始まっても、江戸幕府の体制は続いていたと私は考えるね。江戸幕府という器の中に入っている人間が入れ替わっただけだ。
……だが、彼は、賢明だったね。
連綿と続いてきた武士中心の幕府の社会を、確実に変えて行くには相応の時間を要することを知っていた。
彼は『維新を完遂させるまでには30年の時期が要る。明治元年からの十年間の第一期は戦乱の多い、創業の時期であった。明治十一年から二十年までの第二期は政治の礎を築き、産業を育てる、即ち建設の時期である。私はこの時までは国に尽くしたい。明治二十一年からの十年間、第三期は後進の者に譲り、人を育て、発展させる時期だ』といった様な事を語っていたなぁ。
そんな賢明さが仇になった。
ここは江戸。守られた土地だからね」
Tさんは、角を曲がり、ホテルニューオータニの方へ歩いていく。
「彼は、最初の十年で江戸幕府の幕を下ろし、次の十年を幕間として舞台上のセットを入れ替えて、最後の十年で新しい日本の幕を上げようとしたんだな。
だが、最初の十年でお仕舞いになった。
だから、江戸幕府は生き残ったわけだ。名前、形は変わったが、その本質は続いている。未だに幕間のままだ」
私たちは、紀尾井町に入り、清水谷公園の前を通り過ぎた。
Tさんは、ふと立ち止まり、片膝立てでしゃがみ込む。右手を地にあてる。
「こうして居るとね、彼の無念の思いが直に伝わってくるんだよ。
私が目指したのは、この様な国ではないとね。
江戸に掛けた呪が、幕府を永劫に続ける為に仕掛けた呪が、彼の思いの前に立ちはだかってしまった。
呪によって、比類なき英傑は葬られた」
Tさんは、さめざめと涙を落した。
「すまんなぁ。本当に、すまんなぁ。
甲東よぉ、出来るならば、私もな、お前が思い描いていた新しい国を見てみたかった。
本当に、すまんなぁ。
何も出来ずに、本当にすまんなぁ」
Tさんの悔しげな呟きは延々と続き、Tさんが手を置いた部分から、どす黒くなった血の海が広がっていく。
その血がTさんのものなのか、それともここで命を落とした男のものなのか、私には分からなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます