シアワセニナッテハイケナインダヨ

yaasan

シアワセニナッテハイケナインダヨ

 「……ねえ、知ってる?」


 不意に隣の彼女がそう言った。長い黒髪が綺麗な女の子だった。正確な年齢は訊いていなかったが、ぼくよりも少しだけ歳下の二十歳にならないぐらいだったろうか。


「……知らない」


 気怠さもあってぼくはそう答えた。そんなぼくの反応に臆することもなく、彼女は言葉を続けた。


「私は幸せになってはいけないんだよ」


 ワタシハシアワセニナッテハイケナインダヨ。

 

 ぼくは頭の中でその言葉を片仮名にして繰り返してみた。何だか意味のない言葉が羅列している呪文みたいだなとぼくは思う。

 昨夜初めて出会って一夜を共にしただけの女の子なのだ。正直、彼女にもこの会話にも同じぐらいの比率で興味はなかったのだが、ぼくは言葉を返した。


「何で?」

「私は妹を殺したの」


 ワタシハイモウトヲコロシタノ。

 

 脳内再生が少しだけ面白くなってきた。


「ふうん」

「……驚かないのね」


 オドロカナイノネ。


 ぼくの反応に怒った風でもなく、彼女がそう言った。

 当時、こういう女の子がたまにいたものだ。不幸アピールをする不思議ちゃん的なキャラだ。一部の女の子が罹患してしまう二十歳前後特有の精神病みたいなものだったのかもしれない。


「いや、驚いたよ」


 そう思われるのは心外だと言わんばかりにぼくは言った。


「ふうん。そうは見えないけどね」

「で、妹を殺したってどういうこと?」


 実際、ぼくは少しだけ興味が出て来ていた。


「二歳違いだったのだけど、私の妹は凄く可愛い子供だったのよ。目も私と違ってパッチリしていて、まつ毛なんかも長くてね。顔も子供のくせに小さくて体の線も細かったし」

「ふうん」


 ぼくは相槌を打った。可愛い妹とそうではない姉。まあよくある話ではあるとぼくは思っていた。


「妹も子供ながらに自分が可愛いってことを充分に理解していてね。わざと大人の膝の上に乗っかって甘えたりとか、凄く甘え上手な子供だったの」

「それに対して君はそうではなかった」


 彼女は軽く頷いた。そして少しだけ考える素振りを見せた後、再び口を開いた。


「そうね。私は大して可愛くないことが自分でも分かっていたのよ。それに恥ずかしがり屋で、大人に甘えるのも上手くなかった」

「妹のことが羨ましかった?」

「うん。羨ましかったわ。妹はおねだりも上手くて、似合うっていうのもあったけど、プリンセスが着るようなフリフリの服なんかも沢山買って貰えたりね」


 彼女は少しだけ遠い目をして、ゆっくりとそう言った。


「妹は私を馬鹿にしていたのよ。こうやって上手に甘えれば、欲しい物も沢山買ってもらえるのにって。でも、お姉ちゃんは可愛くないから、甘えても無理かもねって」

「そう直接言われたの?」


 彼女は黙って首を左右に振った。


「でも絶対にそう思っていたはず。姉妹だからそういうことは分かるのよ。だから私は二歳違いの妹が大嫌いだったの」


 姉妹だから分かるのかどうかは置いておいて、それでは妹のことを嫌いになるのも無理がないように思えた。ただでさえ上より下の子の方が小さい分、両親からは可愛がられる傾向があるものなのだから。


「それで?」


 ぼくは彼女の言葉を促した。


「私が十歳、妹が八歳の時だったわ。私達は川辺で遊んでいたの」


 ここまで聞いて、ある種の結末を予想するのは容易だった。昔話で正直物のおじいさんが幸せになるのと同じぐらいに。しかし、ぼくは口を挟むことなく彼女の言葉に耳を傾けていた。


「よくある話よね。妹が川に浮かんでいた物を取ろうとしてね。そのまま川に落ちたのよ。妹は泳げなくて、でも必死に片手を伸ばしていたわ」

「助けなかったの?」


 彼女は少しだけ首を傾げて見せた。


「助けようとした……どうだろう? 私も泳げなかったの。助けなくては、手を伸ばさなければ、大人を呼びに行かなければと思ったけど、足がすくんで動けなかった。どれぐらいの時間だったのかしら。長かった気もするし、短かった気もするわね。やがて妹が沈んで、二度と浮かんで来なかったわ」

「……事故だろ?」


 ぼくは呟くように言う。少しだけその声は掠れていたかもしれない。


「そうね。事故だわ」


 そう言って彼女は少しだけ息を吐き出す。


「でもね、あの時、私は確かに思ったのよ。いえ、願ったのよ。大嫌いな妹なんて、このまま溺れちゃえばいいんだって。死んじゃえばいいんだって」


 彼女は感情のない声でそう言った。


「そっか」


 ぼくはそれだけを言って、枕元にあった煙草に火をつけた。それを見て彼女が少しだけ顔を顰めた。あれは煙草の煙が嫌いだったのだろうか。それとも、話を聞いたぼくの反応が不満だったのだろうか。

 

 もう名前も覚えていない彼女が、少しだけ顔を顰める表情を何故かぼくは今でも鮮明に覚えていた。





 営業の外回りが馬鹿らしくなって寄った公園のベンチで、ぼくは昔のこんなことを思い出していた。あの時以来、ぼくが彼女と会うことは二度となかった。


 ベンチの前には砂場があって、ぼくよりもいくつか歳が下に見える三十代前半の母親が三歳ぐらいの女の子と遊んでいた。三歳ぐらいの女の子は黒髪が綺麗な子だった。女の子を見る母親の顔はとても幸せで満ちていて、幸せの見本市があればそこに出品されてしまうかのような幸せそうな顔だった。


「やれやれだな」


 ぼくは呟いた。

 あの時の話が真実だったのかは分からない。全てが真実だったかもしれないし、全てが嘘だったのかもしれない。あるいは半分が真実で……。


いずれにしても彼女が何かに深く傷ついていて、自分が幸せになってはいけないと思っていたのは本当だったようにぼくには思えた。

 

 ぼくは鞄から煙草を取り出すと、それを咥えて火をつけた。ぼくの目と母親の目が合う。煙草を咥えているぼくに対してだろう。母親が少しだけ顔を顰めた。

 そういえば随分と前から公園での喫煙は禁止となっていたと思い、ぼくは携帯灰皿に殆ど吸わなかった煙草を入れる。

 

 やれやれ、喫煙者の肩身は狭くなる一方だとぼくは思う。


 煙草を消したぼくを見て母親は目の前の女の子に再び視線を戻した。砂場で一心不乱に遊ぶ女の子を前にして、母親は幸せそうな表情を先程までと同じくその顔に浮かべている。


 母親は女の子を見てどのような幸せを感じているのだろうか。それを知る術はぼくにないのだが、可能であるならば彼女が感じているその幸せが今後も続くようにとぼくは、ふと願った。夜空を見上げてふとそこに浮かぶ星に願いをするように、本当にふと思いぼくは願ったのだった。

 

 ……シアワセニナレテヨカッタネ。

 

 ぼくは母親にそう心の中で呟いた。

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