49 ふたりの願い

 朝。

 目を覚ますと、随分としばらくぶりに頭がすっきりとして軽く感じた。

 何の澱みも感じないまま身体を起こしてカーテンを照らす光を見やる。

 クリアになりゆく視界。

 ああなんて今日は、良い旅立ちの日なんだ。


 顔を洗いキッチンに向かうと、まだ二人は起きていないようだった。

 二人が眠る部屋の扉をこっそり開けて様子を窺えば、気持ちよさそうな寝息を立てて布団にくるまっている二人がいた。

 部屋の中は散らかっていることもあったけど、今はもう荷物がまとまっていて整然としている。


 扉を閉め、閉じられたカーテンに手をかけた。

 思った通り、朗らかな陽気が一日の始まりを歓迎してくれた。

 二人が起きたのは七時過ぎ。

 瞼を擦って寝ぼけた様子だったエヤも、俺の顔を見た五秒後にはハッと息を飲み込んだ。


「ま、マーフィーが来ちゃうだす……!」


 慌てて顔を洗いに行き、寝覚めの良いミケは静かにその後に続く。

 二人にとって、マーフィーという存在がどんなものなのかがよく分かる。

 まぁ確かに、二人の気持ちも分からなくはないけど。

 身嗜みを整えたエヤは、どうしても治らない寝癖を引っ張りながらずっと焦った顔をしていた。


 それにしても、迎えに来るって言ってもどうやって迎えに来るんだろう。

 三日前に突如として現れたマーフィーのことをぼんやりと考えていると、玄関のベルが鳴る。

 まさか正当な方法で来てくれたのだろうか。

 これまでマーフィーには驚かされ続けていたせいだ。緊張の表情を見せる二人を通り過ぎ、俺は半信半疑で扉を開けた。

 すると開きかけた扉を長い指が外からガシッと掴み、爪が顔に刺さりそうになって慌てて身体を引っ込める。


「樫野至くん。あなた、無防備が過ぎるじゃない。誰が来たのかちゃんと確認してから開けなさい」

「ご……ごめんなさい……」


 マーフィーの鋭い瞳と厳しい声に流されるままに謝ると、はぁ、とため息を吐いてマーフィーは玄関へと入ってきた。


「靴は履いてないから」


 そう言って、マーフィーはずかずかと部屋の中へと進んで行く。

 足元を見ると、確かに靴下も何も履いていない素足のようだった。でも素足と言っても、人間のそれとは少し違って、滑らかすぎる肌に指は見えなかった。


「エヤ、ミケ」


 二人が待つダイニングへと進んだマーフィーはソファに座って姿勢を正していた二人に声をかける。


「マーフィー!」


 エヤが元気な声を出す。先ほどまでの緊張はどこかへ消えてしまったみたいに、その表情は輝かしかった。


「迎えに来たよ。二人とも、よくやりましたね」

「……はいだす!」

「うん」


 二人は同時に頷き、マーフィーは珍しく目元を緩ませる。

 遅れて部屋に入った俺を見た二人は、あっ! と声を上げてにこにこと笑顔を向けてきた。


「カシノ! マーフィー本当に来ただす!」

「うん。……ようやく、天界に帰れるな」


 二人の笑顔を見ていると、やっぱり俺も嬉しくなって笑い返す。するとマーフィーが俺の方をちらりと横目で見てきたような気がした。


「エヤ、ミケ、ちゃんと忘れ物がないか、荷物を見てきなさい」


 マーフィーが指示を出せば、二人はそそくさと言われた通りに動く。

 荷物をまとめてある部屋へと消えた二人。残された俺とマーフィーは、その背中をただ見送っていた。

 でもマーフィーはそうではなかったようだ。

 二人がこの場から離れたのを確認し、マーフィーは俺の名を呼んでスッと背筋を伸ばした。

 目が合うと、マーフィーは清流のような声を真っ直ぐに通した。


「樫野至くん。あなたには世話になったね。改めてお礼を言うわ」

「……改まって言われると恐縮ですね……いえ、こちらこそ……。二人の役に立てていたのかは分かりませんが」


 つい照れくさくなって頭を掻くと、マーフィーはフン、と鼻を鳴らす。


「まぁ、私の先見の明があっただけね。あなたに預けて、二人は修行を終えられた。流石は私」

「ははは……なんかその方が心が落ち着くのはなんでだろ……」


 マーフィーに褒められるよりも、そうやって自己解釈してくれていた方が楽だ。思わず力のない笑みが広がっていった。


「あなたはもう、気づいてくれたかもしれない。天使はね、ケアロボットでも、セラピストでもないの。そして悪魔もいたずらや言い訳のためにいるわけではない。どちらも人間たちの願い。だから私たちは存在しているの。樫野至くん。目の前にいないからといって、油断なんてしないでね」

「…………はい」


 マーフィーの真剣な眼差しに、俺は姿勢を正して頷いた。それを見たマーフィーは満足そうに微笑み、戻ってきたエヤとミケの方を見やる。


「忘れ物! ありませんだす!」

「われもない」


 二人はぴしっと敬礼をしてマーフィーに報告した。


「なら、そろそろ行きましょうか。……いい?」

「………………」


 二人は顔を見合わせて数秒の間考える。何も言葉は発しなかった。だけど何かを思い出したのか、二人は同時に肩を上げて小さく飛び上がる。


「忘れ物! してただす……!」

「われも」

「ええ? まったく……」


 二人の回答にマーフィーは呆れたような声を出す。


「カシノ!」


 エヤの大きな声に呼ばれて少し驚きながら二人を見ると、彼女たちは助走をつけて一目散に俺に飛びついてきた。


「お世話になりましただす! カシノ!」

「ありがとうイタル。楽しかった。漫画、続き読めないけど……」


 二人分の体重が身体に突撃してきた衝撃にどうにか堪えながら、俺を見上げるキラキラとした瞳を見下ろす。


「ねぇねぇカシノ! また会おうだすなっ!」

「われが先だよ、ミケ」

「えー! なんでだすかっ」


 二人は俺を置いて勝手に話を盛り上げていく。

 だけどそんな二人の会話が面白いから、俺はつい話に入れないままでも笑ってしまう。


「そうだな。いつか、会えるといいな」

「いつかなんだすか?」

「つまんない」

「ははは……。まぁそれまで、二人も精進するように」

「んふふふ。カシノに言われたくないだすなぁ」


 エヤは困ったように笑い、瞳を潤ませる。


「俺も楽しかったよ。二人とも、マーフィーに負けないような天使と悪魔になってくれよ?」

「うん」

「はいだす!」


 最後に二人の頭を撫でると、二人はもう一度ぎゅっと抱きついてきた。


「どうして私なの……」


 一人だけ、マーフィーは俺の言ったことが納得できないようで眉をひそめていた。

 二人が俺から離れると、マーフィーは自分の前に二人を並べる。


「忘れるところだった。ちゃんと修行の成果を渡さないとね」

「……成果?」


 俺だけがぽかんとした反応をする。マーフィーはうずうずしている二人に向かって手の平を差し出した。二人がその手に触れると、途端にオーロラのような光が二人を包み込む。

 眩しさに目を細めながらも光の行方を追おうとすると、マーフィーと一瞬目が合ったような気がした。

 何が起きているのか分からないまま、ほんの僅かの間世界を照らした光が静まっていく。

 光の先に見えてきたのは、さっきと同じ服を着たエヤとミケ。

 だけど。


「うわぁあっ! みてみて! すごい……! きれいだすなぁ……っ!」

「うん……でも、ちょっと……おもい」


 はしゃぐ二人の背中からは、それぞれ白い翼と黒い翼が伸びている。

 心寧に会った時に見せた小さな羽とは比べ物にならないくらいの大きな翼。

 身体の小さい二人。そのまま翼を閉じたら全身を包み込んでしまいそうなほどだった。


「やったやったやったー! ついに翼を手に入れただすっ!」


 エヤはぎこちなく翼を動かしながら、床から身体を十センチほど浮かせて跳ねまわる。

 ミケのほうはまだ飛ぶ気はしないようで、背中を見やりながら慣れない羽の光沢を興味深そうに見ていた。


「ふはははっ! これでエヤも飛べるだすっ! どこまででも行けるだすなぁっ!」


 上機嫌にマーフィーの周りをぐるぐると飛び回るエヤ。マーフィーは抜け落ちる羽を払いながら小さく息を吐いていた。


「うわぁっ!」


 何周かした後で、ドサッと痛そうな音を立ててエヤは転んでしまった。いや、飛んでいるのに転ぶって表現正しいのかな。でも、まぁ、まだ大きな翼のコツを掴んでいないのだろう。彼女は床に落ち、いてて、と頭をさすっていた。


「んふふふ。転んじゃっただすなぁ」


 恥ずかしそうに笑うエヤは、俺を見て小さく舌を出した。

 彼女のそんな姿を見て、俺は二人との出会いを思い出す。

 古びた歩道橋で、泥んこになりながらも希望を諦めなかったあの瞳。

 あの時は本当、もし神様がいるのなら恨んでいた。どうしてこんなことに巻き込まれるのかと。

 でも今は、もし神様がいたとしてもしょうがないなと笑って許せると思う。

 優に半年。たったの半年。されど半年。どのみち半年。

 これまでを思い返して笑みが滲む俺を見て、エヤはきょとんとしながらも頬を緩める。


「それじゃ、もう行くわ」


 エヤが立ち上がったのを見て、マーフィーは気を取り直したように咳払いをした。


「樫野至くん」


 最後に俺の名をもう一度呼ぶ。


「なりたい自分になりなさい」


 マーフィーは麗らかに微笑み、エヤとミケの肩を抱いて引き寄せた。

 俺が初めて見るその表情に呆気に取られているうちに、三人は光に包まれて粒となって空気に溶けていった。


「…………行っちゃった」


 ぽつんと残された俺は、静かになった部屋の中で夢を見ていたような感覚に陥る。

 しかしこれは夢ではないと証明するように、足元にはふわりと白い羽が落ちてきた。

 エヤが飛び回っていた時の羽だろうか。

 手に取れば、光源を見つける度に細やかな粒子が跳ね返ってくるように見えた。


「……また会おう、か」


 二人の瞳と共に頭に浮かんでくるその言葉。

 俺は窓を開け、絶えず頭上で輝く太陽の眩しさに手をかざした。

 手に持った羽を紙飛行機を飛ばす時のように振りかぶり、決して届かない空へと向かって手を離す。

 和やかな風がベランダの前を通り、飛び立った羽はその波に乗って彼方へと舞い上がっていった。

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