45 かけら
“無事、見送ることが出来ました”
スマホに届いたメッセージを目に入れ、そっと画面の明かりを消す。
隣からは藍原さんが軽快にキーボードを弾いている音が絶えず聞こえてくる。
「先輩。これ透析室からの依頼です」
「ああ。わざわざ悪いな」
スマホを机に置くと、春海が間髪入れず封筒を差し出してきた。
俺が受け取ったことを確認した春海は、「いーえ」と起伏のない声で返事をして自席へと戻る。
封筒に記載された東誠社総合病院の文字。俺にとってここは職場であり、日常の多くの時間を過ごす場所。
それを思えば、この場所に特別な感情らしきものを確かに前から持っていたと言えるだろう。
けれど最近、以前よりも強い感傷を残してしまっている。
初橋直音さん。
彼女がこの場所で息を引き取ってから三日が経った。
今日、彼女は親切な大家さんに見守られて旅立った。
どこへ旅立ったのかと言われても、そんなの生きている人間に計り知れることではない。
ただ確かに答えられることは、彼女は温かい灰になって、安らかな時を迎えたということだけ。
身寄りのない彼女の亡骸を引き取ってくれたのは彼女も慕っていたアパートの大家さんだった。彼女の母親にお世話になった人のようで、家族のいない彼女にとって唯一それに近い人物だったという。
大家さんは病院から俺の存在を聞き、直音さんを看取ったことに感謝をしてくれた。わざわざ連絡先まで伝えてくれて。大家さんには一度しか会えなかった。でも、彼女の朗らかな様子は印象に残っている。
直音さんのことを娘のように思っていたのだと言う。優しい表情の奥でひどく心を痛めていたように見えた。
彼女にはまだお世話になる予定がある。さっきのメッセージにも、早めに返信をしておこう。
封筒をキーボードの上に置き、消したスマホを手に取り文字を打ち込む。
そうだ。
ちゃんと予定の相談もしておかないと……。
*
家に帰ると、一緒に帰った時以外は欠かさず出迎えてくれたエヤの足音が今日も聞こえない。
鍵をかけ、電気が点いていることが分かる扉の向こうを見やる。
まだ、彼女も調子が戻らないのだろうか。
「ただいまー」
扉を開けると、ソファに座っていたミケが顔だけこちらに向けて「おかえり」と答える。
手には漫画を持っていて、俺の顔を見たらすぐにそちらへと顔を向けた。
「エヤは?」
「部屋にいるよ」
「……そっか。ミケ、お腹空いてる?」
「うん。ぺこぺこ」
「ははは。分かった。すぐ作るから待っててな」
「うん」
エコバッグを置き、隣の部屋へと続く扉の様子をちらりと窺う。何の音も聞こえてこない。
食材を取り出す手が徐々に重くなっていく。
エヤはあの日病院で直音さんと別れてからずっと元気がない。いつも明るい声を出してにこにこと飽きることもなくなんでも話してくれたエヤ。ここ三日の間、たぬきの塾には行くし、尋ねればちゃんと返事をしてくれる。でもその声はどこか宙に浮いていて、そのまま空まで飛んでいってしまいそうだった。
「イタル」
手が止まっていた俺を見かねたのか、こちらに来たミケがちょんちょんと背中をつつく。
「エヤはね、病院が苦手なの」
「……え? そうなの?」
「うん。なんか、色んな声が聞こえちゃうみたい。だからイタル。あんまり気にしなくてもいいよ? すぐ元気になるから」
「……そう。教えてくれてありがとうミケ」
「いいよ。……おなかすいた」
「ははは。悪い悪い。手が止まってたな」
ミケの頭をぽんぽんと叩くと、ミケは「許す」と言ってからソファの方へと戻っていった。
エヤの様子が気になるけど、とりあえず今は料理が優先だ。
なんでもよく食べるエヤ。彼女が特にお気に入りなのはイタリア料理。だから今日は、彼女が大好きなラザニアを作ろう。
ラザニアを前にしたエヤは通常の半分ほどしか開いていない瞳のまま無言で食事を続けた。お代わりもしていたから食欲には問題なさそうだけど、どこかどんよりとしたオーラの漂うエヤを見るのは胸が痛んだ。
お風呂に入った二人はそのまますぐに就寝したので、俺も早めに寝ることにした。
直音さんが入院していたころから、スマホのゲームもほぼ触っていない。ミケも気を遣ってくれているのかゲームをしたいと言わなくなった。
まだゲームをする気にはなれないし、勉強するほど頭も健康ではないから睡眠を取るくらいしかすることはない。
だがベッドに入っても熟睡できるというわけでもなかった。
一応疲れてないわけでもないから眠れることには眠れる。でも、一時間も経てば目が覚めてしまうのだ。
ここ一週間はずっとそうだ。だからどんなに早く寝ても目の下のクマは消えない。そろそろ藍原さんに指摘されそうで、俺は無理にでも寝ようと枕で耳を塞いだ。
…………しかし、やっぱり眠れない。
睡眠を取れているわけでもないのに喉だけが渇いていく。
「……はぁ」
観念した俺は身体を起こし、ひんやりとした空気が漂う部屋の中を歩く。
「……さむ」
中途半端に温まった身体に差し込む冷気に一気に目が覚めてしまった。これじゃまたしばらくは眠れないな。
冷蔵庫に手をかけた俺は、何か違和感を覚えて通り過ぎた視界を戻す。
すると、ベランダに続く窓の向こうに小さな丸い塊が月明りに浮かんで見えた。
閉めたはずのカーテンは開いていて、微かに窓も隙間が空いている。そこから外気が入ってきているから目が覚めるほどに部屋が冷えているのだと理解した。
水を飲み、ソファに放置していたブランケットを片手に窓を開ける。
「エヤ、何してるんだ? 寒くないのか?」
ベランダに座って星を見上げている彼女に声をかけると、エヤはびくっと肩を震わせた。
「……カシノ」
おずおずとこちらを振り返るエヤ。鼻先は赤くなっていた。
ブランケットをエヤの肩にかけて身体にぐるりと巻くと、エヤは後ろめたそうに顔を下げた。
「天体観測? 天界のブームか何かなの?」
前にミケも同じようなことをしていたのを思い出し、エヤの隣に腰を掛ける。
微かに笑うと息が白くなって存在を主張した。
「天界のブームなんて、もうしばらく分からないだすな。いま、みんな何をしているだすかね」
「やっぱり天界にもブームとかあるんだ」
「あるだす。みんな、楽しいことには目がないだすから」
エヤは得意気に笑ってこちらを見る。久しぶりにその笑顔を見た気がする。
「……で、何してたの? 眠れない?」
「うん……」
ブランケットをぎゅっと握りしめ、エヤは小さく頷いた。
「そっか。……俺も一緒。眠れなくてさ。……エヤ、俺、星見るの好きなんだよね。しばらく一緒に見ててもいい?」
「うん。いいだすよ」
エヤはにこっと笑った後で、ブランケットにくるまる自分と俺を見比べる。
「大丈夫だよエヤ。寒くないから」
俺のそんな言葉など無視をして、エヤは一度立ち上がってから俺の隣にぴったりと座り直す。
「強がっちゃだめだすカシノ」
「はは……ありがと」
改めて星を見上げると、動かない点々とした光の中を堂々と横切る別の光が動いていった。真っ直ぐに走るそれは、すぐに空の向こうへと消えていく。
「カシノ。寂しくないだすか?」
「……え?」
同じ飛行機を見ていたエヤがぽつりと呟く。
「ノトチャン。遠くに行っちゃっただすよ……?」
「…………ああ。そうだな」
エヤを見ると、彼女は心配そうにこちらを見上げていた。
「寂しい、けど……。でも、最後じゃないからって思うようにしてるんだ」
「……でも、会えない、のに……?」
「うん。確かに会えない。もう彼女の声も聞けないし、どんどん、その声も忘れてしまうと思う。だけど、俺は彼女のこと忘れるつもりはないし、ずっと、覚えてるから。俺がしっかり彼女のことを覚えているうちは、大丈夫だって、思えるんだ」
「……そうなんだすか……?」
「ああ。だから大丈夫。彼女はいつもここにいる」
とんとん、と指先で頭を叩くと、エヤはきょとんと首を傾げた。
「心じゃないのだすか?」
「ははは。確かに、こっちのほうが良かったかな?」
改めて胸元を差すと、エヤは満足そうに頷いた。
「カシノ。エヤね、分からなかったんだす」
「分からない……? 何が?」
エヤはきゅっと唇を噛んで難しい顔をする。
「ノトチャン。病気で命を失ってしまうのに、どうしてそれを望むのかって。分からなかったんだす。生きて、笑って、人生を謳歌することが一番の幸せだって思ってただすから。だからエヤは、皆の笑顔が大好きなんだす。そこに幸せを感じるから、エヤも元気になれるんだす」
エヤはブランケットの下に隠した両手を出し、手の平を開いてじーっと見つめた。
「でもさいごにノトチャンの手を触った時、エヤ、幸福を感じただす」
「……幸福?」
「はいだす。悲しみとか、苦しみとか、悔しさとか、そういう感情は一切感じなかったんだす。そこにあったのは、ただただ幸せな気持ち。それにびっくりしたんだす」
エヤの小さな手の平を見てみると、やっぱり紛れもなく人間の手と同じ。だけど彼女は、俺たちには触ることのできないものに触れることが出来るんだろう。
「思っていたのとは全然違ったんだす。……ノトチャンは、さいごに幸せを遺していたんだす」
半分しか開いていなかったエヤの目がだんだんと大きくなり、俺を見上げてキラキラと輝きだす。
「カシノ。ノトチャン、幸せだっただすよ」
「…………うん」
「ノトチャンを守れなくて、エヤ、悲しかっただす。だけどノトチャンは、大丈夫、ありがとう、って、教えてくれたんだす。だから……エヤも、ノトチャンのことを見送ろうって決意できただす。ノトチャンにありがとうって伝えたいって決めたんだす」
エヤは開いていた手を握りしめ、きりりと眉に力を入れて宣言した。
「カシノ。カシノはノトチャンの幸せを知っていたんだすね。ノトチャン、カシノのこと大好きだったんだす。カシノと一緒。でもカシノはノトチャンが恐怖を克服するのを待ってたんだす。そうじゃないと彼女の望みはかなわないから。ノトチャンから気持ちを伝えるのを、カシノ、待ってたんだすよね?」
俺の腕をぐいっと掴み、エヤは興奮気味に揺らした。
「エヤには分からなかっただす。にんげんの幸せ、こんなにたくさんあるんだって! 見えるものがすべてじゃないんだすな。にんげんって複雑だす! んふふ。これじゃエヤ、いつまでも修行が終わらないわけだすよ」
照れくさそうに笑いながらエヤは頬を溶かした。
これまで見てきた彼女の笑顔と変わらない。だけどどこか大人びて見えたのは、彼女が新しい修行の欠片を見つけたからだろうか。
「エヤは本当になんでも分かるんだな」
「それほどでもないんだすっ」
腕から手を離したエヤは、そのまま頬を掻いて歯を見せて笑った。
「……直音さんは、気持ちを伝えて、俺が応えること。それをずっと怖がっていた。怖がる必要なんてないのに。でも彼女にとっては違ったんだ。直音さんも分かっていた。いつまでも消えない恐れのこと。……でも、怖がらないことが彼女の望みだったから。だから俺は、彼女の最後の恐怖が消えることを願った」
エヤは俺の顔を興味深そうに見つめ、落ちかけたブランケットをしっかりと掴む。
「確かに彼女は死ぬことは怖がっていなかったよ。余命宣告が希望に見えたのは素直な気持ちだろう。彼女は覚悟が出来ていたから。未練を残さないように、彼女なりに準備をしてその時を待っていたはずだ。……でも、もし俺が彼女に気持ちを伝えて、彼女も同じ気持ちだったら……。それは未練になる。未練を残して死にたい人なんてそうそういない。死ぬのが怖くなる。未練は……彼女の希望を邪魔してしまうことになる」
「生きたいと思うことが未練なんだすか……?」
「うん。我儘に聞こえるかもしれないけど。でも、命が尽きる彼女にとって、そんなのは悲劇だよ」
意図せず勝手に眉が下がっていく。口元から力が抜けて、無力さが浮き彫りになった気がした。
「彼女は俺の気持ちを知るのを怖がった。気持ちが通じ合うことが、彼女の最後の恐れになった。俺もしっかり歩んできた彼女の道に未練なんて残させたくなかったし。だけど最期に、彼女はそれを赦してくれたんだ。だから……俺も幸せだよ、エヤ」
「…………カシノ」
「それに、これって俺の独りよがりでもあったからさ。勝手に彼女の気持ちを分かった気になって、ちゃんと彼女の望みを尊重できてるのかなって不安だった。本当はさ、かっこよく、こう、そんなのどうでもいいからって言って、強引にでも彼女に気持ちを伝えることだってできたはずだ。その方が、いいんじゃないかなって何度も思った。でもそれじゃ、自分のことを押し付けてるだけで、彼女の想いを完全に無視している気がして……出来なかった」
「うん。カシノ、ちゃんとノトチャンを見てただすな」
エヤはゆっくりと頷いてくすっと笑う。
「でも今、エヤから直音さんが幸せだったことを教えてもらって、彼女の幸福を知れて……良かった。そんなこと、普通は分からないだろ? だから嬉しい。なんか……救われる気持ちになるよ」
「……カシノ、幸せ?」
「ああ。天使の助言を直接聞けるんだ。こんな幸運ほかにないよ」
「んふふふ」
エヤの笑い声を聞くと、寒さで強張っていた頬がほどけていく気がした。白い息を切らせて笑うと、エヤも肩を上下させて笑った。
「じゃあもう一つ、カシノに教えてあげるだすっ」
「え?」
エヤはふふん、と鼻を鳴らしてすまし顔をする。
「ノトチャンはカシノの気持ち、ちゃんと知っていたはずだすよ」
「…………うん。……ははっ。なんか、エヤに言われると恥ずかしいな」
「なんだすとっ。てっ、天使の助言だすよーっ? あぁ……っ、まだエヤ、かんぺきな天使じゃないだすけど……」
わたわたと目を泳がすエヤは恥ずかしそうに肩をすくめて言った。天界のルールは分からないけど、エヤは天使としての役割をしっかりと理解している。だからこそ、まだ堂々と名乗れなくて肩身が狭いのかもしれない。
「大丈夫。すぐに完璧な天使になれるよ」
「そうだすか……?」
「ああ。だって直音さんの幸せ、ちゃんと受け止められただろ?」
「……うん」
「にんげんは複雑でごめんな」
「本当、手間がかかるだすよ」
「はははは」
エヤがやれやれと疲れ切ったサラリーマンのような表情をするものだから、可笑しくなって吹き出す。
むむ、と頬を膨らますエヤ。彼女にしてみれば、にんげんたちが厄介なのは確かに面倒だろう。
でもきっと、エヤならこの先も立派な天使になれる。
根拠はないけど、俺は自信を持ってそう言えた。
「そうだカシノ。今度、ノトチャンのアパート行くだすよね?」
「ああ。部屋の片づけ、頼まれてたから」
「エヤも行っていい?」
「もちろん。ミケも来るし、人がいる方が助かるかな」
「了解だすっ!」
ぴしっと敬礼をすると、エヤの肩にかかっていたブランケットが落ちていってしまった。
「うひゃー! 寒いだすっ!」
温もりが離れたエヤは、途端に唇を震わせて慌ててブランケットを拾った。
空から音が聞こえた気がして見上げると、また別の飛行機が飛んでいく。
凛とした空気に脳が冴えてきたところだけど、そろそろ瞼も重くなってきた。
すっかり冷えた指先に息を吹きかけようとする。
ちょうど自分でぐるぐるとブランケットを身体に巻き付けミノムシになったエヤが見え、温かい息が空気砲のように出て行った。
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