43 雪解け

 「二人とも、大丈夫かな……?」


 トランプを箱にしまっていると、直音さんが閉め切ったカーテンの向こうを心配そうに見やる。


「看護士さんがプレイルームまで連れて行ってくれたみたいなので、大丈夫ですよ」

「そうですね……。でも、急にどうしちゃったのかな……?」


 直音さんはうーんと考えるように腕を組む。


「さぁ。内緒だって言ってましたから、戻ってくるのを待ってみましょう」

「はい……。ふふ。気になりますね」


 腕を解いた直音さんは、椅子に座り直した俺に目を向けて困り顔のまま微笑んだ。

 一時間ほど遊んだ後、二人は突如として看護士さんのもとへと駆けて行き、プレイルームに行きたいと主張したのだ。何かを思いついたようだったから二人の意思に任せたけど。その内容までは教えてくれなかった。


 病室に残った俺と直音さんは、静かになった空間でしんしんと降り続ける雪をなんとなく眺める。

 今、病室には俺たちのほかに昼寝をしている人が一人と、テレビを見ている人が一人残っているだけだ。さっきまで家族と話していた患者さんは院内散歩に行ったみたいだし、もう一人は未だ戻ってきていない。

 相変わらず雪が降っている。だけど一時間前より頬は熱を含んでいて、ゲームに白熱した余韻で冷気を寄せ付けることはなかった。


「……樫野さん」


 呼ばれて振り返ると、直音さんはいつの間にか窓から目を離して自分の手元を見つめていた。


「…………本当にごめんなさい。突然、返信も止めてしまって」


 指先をいじりながら直音さんは肩をすくめる。


「入院のこと……黙っていて……」


 声が小さくなっていく。俺は身体を直音さんの方に向けて椅子をまた少し近づけた。


「正直言うと、少し寂しかったです。直音さんにもう会えないかもって、不安になりました」

「………………ごめんなさい」


 直音さんの顔がまた下がってしまう。責めているわけじゃない。彼女のことを非難するつもりもない。だけどあの時に残した傷痕がまだ痛みを覚えている。

 俺は正直な気持ちを伝えたかった。

 嘘をついたり、見栄を張る必要なんてない。

 俺は彼女に会いたかった。会いたくて、声を聞きたくて堪らなかったのだから。


「直音さん……」


 でも彼女が落ち込んでしまうのは嫌だった。

 だから彼女が顔を上げて俺の目を見た時、感情を露わにしたままの眼差しを見られても構わなかった。


「樫野さん……っ」


 直音さんの瞳から涙がこぼれ落ちる。滲んだ雫が一気に頬を伝うと、彼女は手でそれを拭いながら微かに肩を跳ねさせた。


「私に、強がりなんて……やっぱり、難しかったみたいです」


 彼女は自虐するように笑った後で、赤くなった目元を緩ませた。


「入院して、しばらくして、気づいたんです。私、前と違うなって……っ」


 彼女の潤んだ瞳が俺を見上げる。琴線を震わす眼差しに、俺はぐっと彼女の死角でこぶしを握り締めた。

 直音さんはちらりと窓の外を見た後で、一度深呼吸をした。


「私、自信がなかったんです。それで、ついいつもの癖で強がる振りをしました。樫野さんには入院のこと知られたくないって言い聞かせて」

「自信……ですか?」

「はい」


 恥ずかしそうに微笑み、彼女はくすくすと笑った。


「前に遊園地の話をしましたよね? 家族で行ったクリスマスの」

「はい。聞きました。すごく綺麗なショーを見たって」

「ふふ。そうです。それですっ」


 直音さんは覚えててくれたんですね、と嬉しそうに続けた。でもそんなの当たり前だ。彼女の望みを知ったあの日。俺はその時のことをいつだって鮮明に思い出せるのだから。


「あの年のクリスマス。遊園地は一週間前に行ったんですけど……。クリスマス当日の朝、父が出て行ったんです。プレゼントを置いて」

「…………出て行った……?」


 彼女はこくりと頷き、眉尻を下げて笑う。両親が離婚していることは知っていたけど、まさかそんな日に出て行っていたのだなんて。

 知る由もない当時の彼女の姿を思い浮かべ、ズキンと胸に大きく傷が彫られたような気がした。


「その時、私はただただショックでした。両親は仲良くしていたように見えましたし、父のことも大好きでしたから。どうしてクリスマスにいなくなっちゃうのって。しばらくの間、絶対に帰ってくるものだと信じてました。でも……結局は二度と会うこともなく。後で聞いた話なんですが……父は、私の本当の父ではなかったのです」

「……え? ……それって……」

「はい。血の繋がりはなかったんです。……母と、他の男性との間に生まれた子どもだったんです。私」


 思いがけない告白に、俺は頭が混乱してしまった。

 直音さんは冷静に、穏やかに話しているけど、結構衝撃的な話じゃないのか? それって。

 彼女にしてみれば過去の真実だから今はもう受け止めているのかもしれないけど、でも、自分事じゃないにせよ俺は驚きと同時にショックを受けた。

 彼女はそれを察したのだろう。朗らかに笑って「びっくりですよね」と同調してくれた。


 子どもは生まれる前のことなんて分からないし、生まれた後だって目の前に広がることだけを頼りに知識をつけていく。だから親が誰かなんて、目の前にいるのだからそんなことを疑問に思う必要だってない。

 でもそれが思っていたのと違ったら。

 幼い心にそれを受け入れる余裕などあるのだろうか。

 大人になっても耐え切れない真実に溢れているのに。


「直音さんは、それ、いつ聞いたんですか?」

「私が中学に入る時です。ちょうど母の仕事の都合で引っ越すことになって。その時、片付けをしていたら知らない男性の写真が出てきたので、聞いてみたんです。そしたら……」

「その人が、父親だったんですか?」

「……はい」


 中学校。その時の俺は一体何をしていたんだろうな。

 そんなことを思いながら彼女の優しい瞳をぼんやりと見ていると、直音さんはにこりとしてから微かに目を逸らした。


「出て行った父は血縁の父とも知り合いだったらしく。私の実の父と母が付き合っていることを知りつつも母のことを気にかけてくれていて……。母も好意がなかったわけではないようで今度は二人が付き合うことになったんです」


 直音さんはちらりと俺を黒目だけで捉えてからまた逸らす。


「だけど、別れた方と会う機会があったみたいで……その……恥ずかしい話なんですけど……」


 彼女が言葉を濁すので、俺はその先を察することにした。彼女の母親は随分と情熱的な人だったみたいだ。直音さんは俺の目を見た後で、すうっと息を吸い込む。


「……結局、血縁の父は私が生まれる前に病気で亡くなりました。母は私がお腹にいることを知り、父と別れようとしました……。真実を話して、父親が誰か分からないと言うと、子どもが誰の子でもいいからと言われ、二人は結婚することになったみたいです」

「お母さん、結構波乱万丈ですね」


 直音さんが気まずそうにしていたので軽く感想をこぼすと、彼女はほっとしたように肩の力を抜いた。


「父は私の父親が誰か、きっとすぐに分かったと思います。実際私は彼には似ていませんでしたし、二人は知り合いでしたしね。でもしばらくの間、真実を隠したまま私のことを本当の娘として可愛がってくれました。彼の愛情は今でも覚えています。だからこそ、いなくなってしまったことが悲しかったんです」


 直音さんの父親は恐らく彼女のことを本当に愛していたのだと思う。

 しかし感情は複雑なもので、コントロールをいつまでも利かせられるとも限らない。

 きっと彼は奥底にある葛藤に襲われてしまわないように、彼女のことを憎んでしまう前に家族のもとを離れたのだろう。決して彼女を悲しませたかったわけではないと、知りもしない人の過去を願ってしまった。


「母から話を聞いて、最初はどうしていいか分からなかったです。でも、父が去ることを決めたのだから、私ももう追ってはいけないなって思いました。だから彼の未来を探ることはやめました。高校に合格した時、母から聞いたのが最後です。父が再婚したみたいだって」

「…………そうだったんですね」


 直音さんがドナーはいないと言っていた意味が今ようやく分かった。彼女は意図的に父親を対象者から省いていたのだ。彼女にドナーの話をした時のことを思い出し、チクチクと胸から喉まで痛みがこみあげてきた。


「もし、父が私の病状を知ったら、恐らく優しい彼は臓器を切ってくれと言います。病院側がそれを認めたとしても、やっぱり私は受け入れられません」


 彼女はもしもの過程を描いてはにかんだ。


「彼には今の家族がいます。この先、何があるのかなんてわかりません。だけど彼には守る人がいるはずです。彼らの希望を削ることなんてできません。父には彼の家族の希望になってくれないと。……ふふ、偉そうですけど、そうなっていて欲しいから」


 彼女が父親のことを愛しているのは間違いなかった。

 別れは悲しかっただろう。それでも二人の間には、二人にしか知らない絆があるはずだ。


「……お父さんからのプレゼント、何だったんですか?」


 最後に貰った親子の絆が気になって尋ねてみる。彼女は嬉しそうに笑うと、かけがえのない時を遡った瞳をこちらに向けた。


「ノートです。私、勉強が好きだったんですよ。だから、たくさん勉強するんだよって手紙を添えて」

「ノート……。ははは、なんだか、すごく馴染みがある物ですね」

「ふふ。ですねっ」


 彼女がゲームで名乗っていた名前を思い、二人して笑い合う。


「……あの、それで、父が出て行った後、ノートにたくさんのことを書きました。その間だけは、父が傍にいてくれる気がして。でも、そうじゃないとき。やっぱり、外に出ると寂しさは隠せなくて」


 直音さんは気を取り直して話を戻す。


「クリスマスも、大好きだったんです。でも父が出て行ってからは少し苦手になってしまって。キラキラ輝いている世界を押し付けられて、孤独が浮き彫りになるんです。だからいつの間にか、孤独を再認識させられるその季節を視界に入れることを拒んでました」


 それを聞いた俺がぎょっとしたのを見て、直音さんは慌てて手を振って否定する。


「あっ! たぬきの塾のイルミネーションは本当に綺麗でしたよ! 全然、大丈夫ですからっ!」

「……すみません。無神経で……」

「樫野さん……! そんなことないですからっ……。た、確かに、私は一度すべてのことを諦めました。もう世界は私に無縁なんだって、自暴自棄になりました。自信も何も持てないどうしようもない奴の自分が大嫌いでした。でも、でも今は、違うんです……っ!」


 直音さんは声のボリュームが大きくなっていることに気づいてハッと口を抑えた。

 慌てている彼女の反応が少し可笑しくて、その表情を窺っていると、口元を抑えた手を離した直音さんが控えた声色で囁く。


「樫野さんに出会って、信じる勇気が持てたんです」

「俺に……?」


 こくりと頷く彼女の色を失いかけていた頬は照れくさそうにほんのりと色づく。


「はい。樫野さんになら……自分のすべてを曝け出しても大丈夫って思える勇気と、私の決意……、気持ち、に自信を持つことが出来ました。樫野さんが教えてくれたから……。自信を持ってもいいんだって。そうしたら、自分のこと、少しだけ許せたんです……。樫野さんといると、自分のことも好きになれるんです……」


 直音さんは俺の目をしっかりと見つめたまま口元を綻ばせた。


「ありがとうございます。樫野さん……。私も、会いたかった……です」

「直音さん…………」


 丸め込んだ指先が肌を割くように手の平に食い込んでいく。彼女から見えない場所に埋めた激情が騒ぎ立ててどくどくと血液が逆流していく感覚に襲われる。

 駄目だと必死に自分に言い聞かせ、苦し紛れに彼女に笑みを返す。すると直音さんの瞳が切なく揺れた。その狭間に彼女の葛藤が見えたのは、きっと気のせいじゃない。


 彼女は最期まで隠し通すつもりだろうか。

 底に残した最後の恐れを。


「樫野さん。わ、私…………」


 彼女が口を開いた瞬間、ほんの少しの足音の後でカーテンが勢いよく開いていった。


「ノトチャン!」

「ノト!」


 二人の声が重なり合って、カーテンが舞う風と共に得意げな顔が現れる。


「……二人とも、どうした……?」


 不意の出来事に狸に化かされたような気分になり空気のような声が出て行った。


「んふふふ。お時間がかかってしまって申し訳ないだす。ミケとちょっと作ってきたんだす」

「……作る?」


 プレイルームに行っていたミケとエヤ。そういえば何をしていたんだっけ。俺は頭から抜け落ちかけていた記憶をどうにか掬い上げる。

 ミケはカーテンを閉め、エヤは両手を背中に回したまま直音さんを見上げた。


「ノトチャン、手を出して欲しいだす」

「……うん。こう、かな……?」


 まだ少し目元を赤くしたまま、直音さんはそっと両手を差し出した。ミケは彼女の顔をじーっと見た後で、俺を責めるように見る。俺が彼女を泣かせたと思っているんだろう。警戒状態のハリネズミのような視線に俺は眉尻を下げた。

 エヤは隠していた両手をすっと直音さんの方へと伸ばし、手に持っていた丸いものを彼女の手の平に乗せた。


「タチャーン! こちら、表彰メダルになりますだす!」

「…………ひょうしょう?」


 直音さんは状況が飲み込めないことが丸わかりの声を出して首を傾げた。

 彼女の手の平を見ると、ゴールドの折り紙があしらわれた向日葵みたいな形をした紙製のメダルが乗っていた。

 前にエヤとミケがたぬきの塾で貰ったメダルによく似ているが、ところどころが拙くて、二人がプレイルームで何をしていたのかが瞬時に理解できた。


「そうだす。エヤとミケ、たぬきの塾でメダルを貰ったんだす。すごく嬉しくて! でもでも、二人があげるなら誰だろうねって話してたんだす。そうしたらやっぱり、ノトチャンしかいないだすっ」

「……それは、嬉しいなぁ……ふふふ。でもどうして? 私、さっきのトランプでも負けちゃったし、そんな活躍出来てないよ……?」

「何を言うだすかノトチャン! そんなの決まってるだす。ノトチャンはエヤたちのスターなんだすからっ!」

「スター……?」

「はいだす。ゲームでもモンスターに勝てたのはノトチャンのおかげだす。それにっ、一緒に遊んでくれて、とっても楽しいだすからっ!」


 エヤはメダルを撫でる直音さんをじーっと見てから頭を掻いて笑った。


「んふふ。あんまり、かっこいいメダルじゃないだすけど……っ」

「そんなことないよ、エヤちゃんミケちゃん。すごく……すごく嬉しい……ありがとう……っ! 二人とも……っ!」


 メダルを胸元で抱きしめ、直音さんは鼻をすすりながらじんわりと滲んだ瞳で微笑んだ。


「よかっただす……! 看護士さんにも、いろいろヒントを貰ったんだすよ。デコレーション」

「ふふふ。この世に一つしかない特別なメダルだね。私、部屋に飾る。一番いいところに飾るからね」


 直音さんはメダルを首に下げてから待ちきれなくて近づいてきたエヤの手を握った。


「イタル、ごめんね」

「え? 何が……?」


 エヤが直音さんに抱き着いている間、ミケが俺の傍に来てこそっと耳打ちしてきた。


「メダル、イタルにあげられなくて」


 ミケはそう言って離れると、ちょこんとベッドの端に腰かけて座った。


「ははは。いいって、ありがとうミケ。気にしてくれたんだな」

「イタル、最近元気ないし」

「……うん。でももう大丈夫」

「ほんと?」

「ああ。二人がメダル以上のものをくれたからな」

「…………?」


 首を傾げるミケ。でもそのうちにエヤに呼ばれてメダルのデコレーションの解説に加わる。

 やっぱり二人にも元気がなかったことがバレていたか。

 なかなか天使と悪魔には敵わないな。

 窓の外が少し明るくなったので空を見上げてみると、どうやら雪が止んだみたいだった。雲の隙間から青空が顔を覗かせていた。

 眩しさに目を室内に戻すと、メダルを囲んでエヤとミケが一生懸命こだわりを伝えている。

 中心では直音さんが瞳を輝かせて二人のことを交互に見ていた。


 その日は面会時間がギリギリになるまで二人が帰ろうとしなかったので、俺たちはカーテンの内側でそこは自分たちの家かと錯覚するほどに寛ぎ続けた。

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