35 お月見

 寝てしまったエヤをソファに乗せてブランケットをかける。

 少し目が腫れているけど、すぅすぅと眠るその姿を見て俺はひとまずの平穏を得た。

 だけどまだ落ち着いてなんていられない。視線を上げて、ミケが閉じた扉を見やる。


 コンコン


 扉を叩いてみた。でも無反応だ。


「ミケ?」


 静かに扉を開け、隙間から部屋の中を覗く。電気もついていないから、中はうっすらと暗い。カーテンを閉めていないおかげか、外の明かりが僅かに入ってくるだけだ。今日は月が明るい。まるで照明のように、ほのかな光がベランダに続く窓の傍で膝を抱えている彼女を照らす。


「お邪魔します」


 うずくまったまま顔を上げないミケ。俺はささやかな断りを入れて部屋に入り扉を閉めた。


「…………なに」


 隣に座ると、ミケは膝を見つめたままぼそっと呟く。尖らせた唇が頬の向こうに見えた。


「お月見でもしてるのか?」


 どう切り出そうかと悩んだ俺は、そんなどうでもいいことで澱んだ空気を誤魔化す。


「しない。もう秋じゃない」

「どの季節だろうと月は綺麗だろ。変わらずにそこにある」

「変わらないことなんてない」


 ミケはぎゅっと膝を抱きしめた。


「なぁミケ。天界ってどこにあるんだ? そこって月見えるの?」

「…………天界に見えないものはない」

「へぇ。そうなんだ。飽きの来なさそうな場所だな」

「……だけど月には、兎はいないよ?」


 ミケは俺が兎を見たいとでも思ったのだろうか。

 不思議な気遣いに、俺はつい表情が和らいでしまう。


「そっか。残念。餅をつく兎、見たかったな」


 月を見上げると、彼方に輝く白は目を射ることもなく優しく、堂々とこちらを見下ろしていた。


「…………イタル。にんげんは、悪魔が憎い?」

「ん?」


 膝を抱きしめたまま、ミケは元気のない声で俺に問いかける。


「にんげん、悪魔のこと怖がる。嫌われてる。邪魔者扱い。映画でも、漫画でも、ドラマでも小説でも……。にんげんが作るもの、みんな悪魔を恐れてる」


 しゅん、と肩を落とすミケ。もともと小さいのに、もう二回りくらい縮んでしまったかのように見えた。


「確かに、そういうのが多いかもなぁ。どうしても」

「……やっぱり」


 ミケははぁ、と息を吐いて膝を抱える力を抜いた。


「われ、こっちに来てそれを見て、ショックだった。話には聞いてたけど……にんげんの悪魔の扱い、本当にこうなんだって、分かっちゃったから」


 うちに来てからもよく映画を観ていたミケ。彼女はそれを見る度に傷ついていたのだろうか。

 それでも貪るようにして見ていたのは、もしかしたら彼女も無意識に何かを期待していたのかもしれない。


「イタルも、悪魔怖い?」


 ミケの顔がようやくこちらを見てくれた。

 眉尻を大きく下げて、不安そうに唇を内に巻き込んでいる。


「うーん……そうだなぁ……」


 彼女をちらりと見た後で、頭上に憩う月を視界に入れた。


「…………怖いけど、いないと困るかなぁ」

「………………困る?」

「ああ。困る」


 きょとんとするミケに、俺はきりっとした表情を返す。これは真剣な話だ。

 彼女はぱちぱちと瞬きをして、ぽかんと口を開けた。


「悪魔って、確かに破壊したり、悪い奴を形容する言葉だ。宗教的なイメージだって、神との対比だしな。悪魔はいっつも文化や秩序を壊して、人々を不安にさせる。人間は弱いんだよ。だからそんな計り知れない恐怖に抗えない。できれば、避けて通りたいよな」

「……うん。イタル、素直だね」

「はは。唯一の取柄だったりして?」

「料理も上手だよ」

「ありがとうミケ」


 照れくさくなって反射的に笑い返す。ミケは俺を見上げたまま、こくり、と頷いた。


「でもその恐怖がないとさ、人間って、暴走するんだと思うんだよね」

「暴走……? そうなの?」


 ミケの瞳が開いたような気がした。俺は頷いて、個人の見解を続ける。直接悪魔に見解を述べるなんて、なんだか畏れ多いけど。だけどミケには聞いて欲しかった。


「うん。悪魔がいるから、神様とか、秩序がしっかりと印象づくんだ。存在を強めるというか。だからさ、悪魔と神様って、互いに欠かせない存在じゃないかなと思うんだ。対立しあう、ライバルみたいな?」

「そんな優しいものじゃないよ?」

「はははっ。そうだな。例えが悪くてごめんな。まぁ……悪魔の存在は、善悪の世界観を保つためにも必要だから、ないと困るってこと」


 上手く言えていない気がして、頭を掻きながらぐっと身体を前に出す。もう少し広い空が恋しくなったからだ。


「神様の教えを説くために。善が善であるために。悪魔の恐怖は効果的だし、その恐怖がある意味で人を救う。悪があるから善が尊い。悪魔がいるから、人は神に救われる。どちらかが欠けたら、もう一方も存在しない。そんな表裏一体の関係を保ってるのが、悪魔なんじゃないかな。ミケとエヤが互いに補完し合っているみたいにね」


 ミケが俺に倣って同じように空を求めた。

 天界って、やっぱりあっちにあるのかな。

 俺は月明りを浴びるミケの眼差しにそんな推測をぼんやりと想う。


「人間の感情も一緒だよ、ミケ。喜びを知っているから悲しみが分かるし、悲しみを知るから喜びが分かる。悪魔と神様……天使みたいに、人間の心の裏側も、切り離すことができない。本当は悲しみなんて知りたくないけど。でもそれでいいんだと思う。じゃないと秩序も優しさも忘れてしまう気がするし」

「…………うん」

「ミケ、確かに悪魔は優しく描かれることは少ないだろう。だけど、辿り着ける答えはひとつじゃない。いっぱい可能性があって、答えがあっていいんだよ」

「………………うん」


 ミケの表情に精悍さがうっすらと顔を覗かせる。落ち込んでいた彼女の瞳に初めて星が宿った。


「イタル。……われ、少し嬉しくなった。われも、にんげんのこと、見てていいんだね」

「ああ。ちゃんと見ていてくれよ?」

「へへ」


 ミケはくすぐったそうに笑うと、肩をすくめてはにかんだ。


「でも、イタル。イタルは、いいの? ノトのお父さん探さなくて」


 そして恥ずかしさをしまい込み、いつもの淡白な瞳に戻したミケはそう言って首を傾げた。


「このままだと、ノトを見放すのと同じ。ノトがそれを望むからって、それは結局、綺麗事を言っているだけじゃないの?」


 なかなかに鋭いことを言うな。

 ミケはただ疑問に思ったことを口にしただけなのに。俺にとっては痛い言葉だ。

 瞳に残った月を瞬きで消してから、俺は自分の答えを彼女に伝える。


「綺麗事だけど……。綺麗事がないと自分を説得することが出来ないんだよ、俺は」


 ミケは傾げた首をまた横に曲げてきょとんとする。


「情けなくてごめんな」

「ううん。でも……ノト、かわいそうだな」

「……え?」


 ミケは隣に置いてある背の低い本棚に目を向けて指差す。


「漫画の続き、ノトは読めないんだね」


 それはミケがハマっている漫画だった。直音さんともその漫画について話しているのを聞いたことがある。


「……ああでもわれも……修行に与えられている時間で、あとどれくらい読めるのかな」

「修行は無期限じゃないの?」

「そうだけど、それじゃ修行にならない。われはちゃんと悪魔になりたい」

「…………そっか。応援してるよ」

「うん。イタルのこと、見ててあげるからね」

「はは……。頼もしい、のかな? ありがとうミケ」


 ミケの頭をそっと撫でると、ミケは心地よさそうに頬を緩めた。

 その日のエヤとミケは口を聞くことなく互いに違う部屋で就寝した。一度目を覚ましたエヤが罪悪感でミケと一緒にいられないと俺の部屋に来たからだ。


 それから数日間、二人はお互い気まずそうに最低限の言葉しか交わさなかった。

 なかなか自分の部屋に戻ろうとしないエヤ。

 どんどん元気がなくなっているし、このままだとあんまり良くない。

 だけど互いを気遣っているのか、思ったよりもデリケートな二人の仲違いを戻すのは、俺だけの力ではそこまで上手くいかなかった。

 やっぱり二人がしっかり向き合って和解しないと……。そうじゃないと意味もないだろうし。

 俺が頭を抱えていると、大志さんから連絡が入る。

 どうやら今週末にまたたぬきの塾に来て欲しいようだ。

 俺は冴えない頭で、了解です、とだけ返信をした。

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