31 無邪気な才能

 年末にコンサートに行ってからというもの、もう一度英語を学びたくなって本屋で最初に目についた文法の本を買った。大学を卒業してから語学学習なんて遠のいていたけど、意外にも頭に残ったツギハギの学びが少しずつ蘇ってくる。失くしていたパズルのピースが見つかったみたいな気持ちになれるのは楽しかった。


 今日はミケにゲームを取られたから、俺は大人しく隣で気まぐれの語学学習を進めた。

 ミケは直音さんと一緒にゲームをしている。通話機能を使いながらやっているから、ミケもよく喋っていた。

 エヤは何度かゲームに挑戦してもそこまで興味は持てなかったようで、見ている方が楽しいとミケと直音さんの会話に耳を傾けながら絵を描き続けていた。

 討伐されたモンスターの断末魔が部屋中に響く。しかしもうそれが普通の光景で、誰もその音を気にすることもなくそれぞれの作業に没頭した。


 ふと時計を見ると、いつの間にかもう九時を回っている。これはまずいと慌てて本を閉じ、ミケとエヤに風呂に入るように伝えた。ミケは不満を隠さないままに俺にスマホを明け渡し、俺は開かれたままのゲーム画面を見やる。


「うわっ!?」


 ちょうどモンスター退治をしていたようで、画面を見るなり目の前は攻撃を食らった時のエフェクトでいっぱいになった。

 真っ赤なゲージが点滅して、みるみるうちに俺が操るキャラクターは体力を消耗していった。

 そのまま対応する間もなく強制帰還となり、穏やかな音楽と共に獲得した賞金が減らされた。


 どんなタイミングで渡すんだ、ミケは。


 彼女なりの抗議に渇いた笑いが出ると、直音さんが操るキャラクターの三つ編みがちらりと画面に映る。


『樫野さん? あれ? ミケちゃんは……?』


 スマホを持ち直した俺は、視点を三つ編みのキャラクターの方へと向けた。


「風呂に入りました。すみません、負けちゃって……」


 俺が答えると、直音さんは「あっ!」と声を上げる。


『ごめんなさい。もうこんな時間でしたね。ミケちゃんのこと連れ回しちゃって……』

「いいえ。俺も時間見てなくて。ミケに付き合ってもらってありがとうございます」

『こちらこそです。…………樫野さん』

「どうかしましたか?」

『もう少しだけ、お付き合いしてもらってもいいでしょうか……?』


 直音さんは申し訳なさを滲ませながらおずおずとそう申し出た。


「はい。大丈夫ですよ。もちろんです」

『ありがとうございます……!』


 彼女はほっとしたようにそう言った。だけど俺はその声にほんの微かなほつれを感じた。

 その後ゲームを操る彼女と他愛もない会話をしながらモンスター討伐を続けたけど、その違和感は徐々に確信に近づいていく。彼女は元気を取り繕っているけれど、その声はどこか深海に沈んだように浮かばない。

 何かあったのだろうか。

 また一体モンスターを倒しながら、俺は誰もいない部屋で眉をひそめた。


『ふふふ。今日はたくさん賞金が獲得できましたね』


 二十分とちょっとが経った頃、数字が回ったゴールドカウンターを見たのか直音さんが嬉しそうに呟く。


「はい。そうですね。また新しい装備が買えそうです」

『知ってますか樫野さん。今度、またアップデートがあるみたいですね。大型モンスターの登場だとか』

「そうなんですか?」

『噂になってるんです。たぶん、最高難易度のモンスターになるって』

「へぇ。それはまた、やりがいがありそうですけど……」


 会話をしながらも、彼女の声色だけに神経が向かう。


『特別な称号が貰えるそうですよ。しばらくはその話題で持ちきりになりそうですね』

「ははは。そうですね。倒せる気がしないなぁ」


 弱気なことを言うと、直音さんは向こう側でくすくすと笑う。

 ああ。やっぱり元気がない。

 心許なくなって、細い息が口から出て行った。


「…………直音さん。何か、ありましたか?」


 聞かぬふりなど出来ず、俺はあまり深刻な声にならないように気を付けながら問いかける。

 彼女は俺の問いに声を出すのを躊躇った。息をのむ音だけがスマホに伝わる。


「直音さん。一人で抱え込まないでください。不安な時は、なんでも話していいんですよ。俺じゃ、頼りないかもしれないんですけど……」


 彼女の希望を知っている。だから俺は彼女に寄り添いたくて。

 迷惑だとか、余計なお世話って思われてもいい。今はもう、嫌われることも怖くなかった。

 近くなくてもいい。遠ざけられてもいいから、彼女の希望だけを守りたかったから。


『…………ええっと……その……』


 やっぱり言い難いだろうか。

 不躾なことを言ってしまったかもしれないけど、この後悔だけはしたくない。……から、すべては彼女の意志に任せよう。言いたくないのなら言わなくていい。

 画面の中で直音さんのキャラクターは朗らかな笑顔で棒立ちのままこちらを見つめている。直音さんは今、きっと彼女とは真逆の顔をしていることだろう。

 彼女に声をかけようとして息を吸うと、スマホから静かな声が聞こえてきた。


『今日……会社に、伝えたんです』

「……え?」


 微かに震えるその声は、春先に降る雨のように繊細だった。


『病気の、こと…………。これまで、言っていなかったんですけど。そろそろ、言わないとなって思って……』


 彼女と行ったコンサートで刹那に見えた彼女の暗く落ちた表情。

 きっとあの時に、後ろの人の会話と自分のやるべきことを重ね合わせていたのだろう。


「そうだったんですか……。会社の方は、なんて……?」


 彼女を不安にさせないように、俺は出来る限り落ち着いたトーンで話す。うまく話せているだろうか。


『は、はい……。えっと……お世話になった上司の方なので、すごく優しい人だから……。どうにか治る方法はないのかって、切羽詰まって言ってくれました。……それで、私、ないですって答えたら……課長、黙っちゃって……』


 情景が目に浮かぶようだった。

 上司の顔を見たことはないけど。話に聞く限りでも、随分と人の良さそうな雰囲気が伝わっていたからだ。

 直音さんはひどく申し訳なさそうに声を落とす。


『課長が部屋を出て行った後、扉の前で……泣くような声が聞こえてきたんです。それを聞いて私、つい、私も、泣いてしまって……。情けないなぁって……自分で決めたことなのに……』


 直音さんは微かに嗤っているのだと思う。彼女の擦り減っていく精神が静かに悲鳴を上げているようだった。

 恐れないことを望む彼女。だけどそうと決めたからと言って、誰もがすぐにヒーローになれるわけでもない。


『まさか……課長がそんな反応するなんて思わなくて。告げたら、気を遣わせてしまいそうで言えなかったんですけど……やっぱり、言わない方が良かったかもしれないですね』

「言ったこと、後悔してる……?」


 彼女は少しの間考えて、それから「いいえ」と答えた。


『言って良かったって、思っています。確かに余計な負担をかけちゃいましたけど……。仕事でも、これから穴をあけることが多くなりそうですし』


 彼女の声が徐々に輪郭を帯びていった。スマホを持つ手に入っていた力が緩んでいく。


「きっと上司の方も、素直に伝えてくれたこと、あとで感謝すると思いますよ。……知らない方がいいこともあるけど、知らないままが残酷なことだってありますから」


 直音さんの上司も恐らく、知らないまま彼女が姿を消した後で真実を知ったら言い得ぬ後悔に苛まれる側の人間だと思う。彼が直接何かをできたわけでもないだろうけど、そういうこととは全く別次元の感情が沸き上がるものだ。


『樫野さんは、そう思いますか……?』

「はい」

『…………うん。ありがとうございます……。少し気持ちが楽になりました』


 そう言ってくれるけど、まだその声は浮上してこない。

 本音を言えば、今すぐに直音さんのもとへと行って縮こまってしまった肩に手を伸ばして傍に引き寄せたい。

 束の間でもいい。彼女にとってはただの気休めかもしれない。だけど彼女の勇気に賛辞を送り、彼女のすべてを肯定してあげたい。


 でもそれは許されないから。

 俺はこうやってスマホ越しに三つ編みのキャラクターの向こうにいるはずの彼女を励ますことしかできない。


「カシノー! お風呂あがっただすー!」


 そこへ、ほかほかとした湯気を纏ったエヤとミケがずかずかと戻ってきた。

 タオルを肩にかけて、まだ乾ききっていない髪のままスマホを覗き込むようにして座り込む。


「おおー! ノトチャンだす! まだ繋がってただすねっ。やっほー! だす!」


 エヤはスマホ画面に向かって大きく手を振った。カメラ機能は使えないんだけどね。


「イタル。続きはわれがやるから」


 ミケは小さな手を伸ばして俺の腕をゆすり続ける。

 一気に賑やかになった通話先の様子に、直音さんは先ほどの弱音を隠して和やかに笑う。


『こんばんは。エヤちゃん。ふふ。ミケちゃんもありがとう。でも、そろそろ私も寝る支度をしないとかな……っ』

「ええー! ノトチャンもう切っちゃうだすかー?」

『うん。ごめんね。ミケちゃん、遅くまで遊んでくれてありがとうね』

「もう終わり……? うぅ、つまんない」


 ミケはしょんぼりと肩を落として力なく俺に寄りかかってくる。ミケにとっては俺が邪魔したように思えたのだろう。恨めし気にこちらを見てきた。


『ありがとう二人とも。また今度一緒に遊ぼうね』

「…………うー?」


 直音さんは俺が尋ねる前と同じく、元気を纏った声で優しく語り掛けるように二人にそう伝える。

 しかしエヤは途端に首を捻り、画面の中で揺れるキャラクターを探偵のような眼差しで見つめた。


「エヤ?」


 難しい顔をしたまま黙ってしまったエヤの顔を覗き込もうとした拍子にエヤが勢いよく頭を上げたので、その石頭は俺の顔面を強打した。

 痛みに悶えて顔面を抑えていると、エヤが俺からスマホを奪い取って画面に向かってはきはきとした威勢の良い声をかけた。


「ノトチャン! なんか元気がなさそうだすねっ」

「…………はぁ?」


 指の隙間から見えるエヤは、瞳を大きく開いてスマホを食い入るようにして見ていた。


「あっ! そうだっ! 一緒に遊べば多分、元気になるだすっ! エヤ、楽しいこといーっぱい知ってるだすよ!」


 ソファにのぼったミケはエヤの方まで歩いていき、エヤの後ろからスマホを見下ろす。


「うちに来ればいいよ、ノト」

「ミケ、とてもいいことを言っただす! ノトチャン、うちに遊びに来ればいいだすよっ!」


 盛り上がる二人。直音さんも呆気に取られているのか、声が聞こえてこない。


「ちょ、ちょっと待った。エヤ、ミケ、何を言ってるんだ?」


 置いてけぼりを食らった俺は慌てて会話に参入する。エヤは俺の表情を見てにんまりと笑った。


「カシノもノトチャンに会いたいだすよねっ?」

「えっ……いや、そう、そうだけどさ……」


 急に確信をついたようなことを言ってきて、心を見透かされたようで思わず真顔になる。

 ミケはそんな俺とエヤのやり取りをソファの上から見ていて、両手で頬杖をついて黒目だけを左右に動かしていた。


「エヤ、ノトチャンに元気になってもらいたいだすっ。ねぇねぇノトチャン、どうだすか?」

『え……。ええっと……遊びに行きたい、けど……』


 声だけで困惑しているのがよく分かる。それにまだ体調だって万全ではないかもしれないから、彼女自身、遊びに来といて迷惑をかけたくないと思っていることだろう。俺はエヤと一緒になって彼女の返答を待つ。

 最初はびっくりしたけど、外で会うよりは彼女にとっては都合がいいかもしれないと、今ではミケの案に賛同していた。会いたいのは確かだ。それにまだ彼女の気は沈んだまま。二人もいるし、良い気分転換になるかもしれない。


「直音さん、うちのことなら気にしなくていいので」

『……そう、ですか……?』

「はい。またミケのゲームの相手をしてあげてください。エヤも、一緒にやりたいことがあるって言ってましたし」

「そうだすだす! ノトチャンの似顔絵を描きたいんだすー!」


 エヤはお馴染みの笑い声とともに身体を揺らした。


『…………そうしたら、お邪魔、してもいいですか? ……あの、樫野さんの都合の良い日でいいので……』

「もちろんだすー!」

「はは。どうしてエヤが答えるんだ……。でもまぁ、そういうことなので、うちはいつでも歓迎します」

『ふふふ。はい……ありがとうございます』

「そうしたらまた、連絡しますね」

『はい。……おやすみなさい、皆さん』

「おやすみ、ノト」


 最後にミケが上からずいっと顔を突き出してきて返事をした。

 通話を切り、ゲームも閉じる。

 エヤは直音さんが来ることが嬉しいみたいで、んふんふ笑いながら歯を磨きに洗面所へと向かった。

 陽気な背中を見送っていると、ふと彼女が直音さんが元気がないことに気づいたことを思い出す。

 確かに元気のない、無理をしたような声だったけど、彼女なりに演じ切っていたはずだ。

 でもエヤはいとも簡単にそれを見破った。


「イタル」


 ミケに呼ばれて振り返ると、彼女は深い瞳でじーっと俺の目を見つめてくる。


「な、なんでしょうか……?」


 何も言わないのが少し不気味で、俺は情けなく笑って誤魔化す。


「よかったね」


 それだけ言うとミケも洗面所へと歩いていった。

 そういえば直音さんを家に呼ぼうと言い出したのはミケだ。


「……まさか」


 天使と悪魔のいたずらな無邪気さに、俺の心は見事に弄ばれているようだ。

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