30 灯りとともに
明かりを最大限までに暗くした部屋の中だとスマホの画面がやけに目を攻撃してくる。
もう寝ないと明日の朝に後悔することはもはや約束された未来だった。
それでもまだベッドに入る気分になれないのは休暇が終わることを認めたくないからだろうか。
スマホを机の上に置いてソファに頭を預ける。
瞼を閉じると目元がキリキリと電流が走るように神経質になっているのが分かった。
この疲労は夜明けを待つこともなく後悔がすぐにやってくる。
スマホの見すぎだ。
「あーあ…………」
新年早々、新鮮な気持ちすら持続することが出来ずに普段通りの自分が帰ってくる。これも恒例と言えば恒例か。新年の通過儀礼なのだから。
目を閉じたまま天井に向かって顔を上げていると、背後から扉が開く音が聞こえてきた。
「カシノー。明日から仕事再開だすよ。いつまで起きてるだすかー」
昼間よりも低空を漂うその声は、足音と共にこちらに近づいてくる。
「エヤ。起きちゃったの?」
とっくに寝ていたはずのエヤが半分になった瞳で俺のことを見た。一度は寝付けたのだろう。髪の毛はぼさぼさになっていて、早くも寝癖がついている。
「喉が渇いたんだすー……」
エヤはそう言いながら俺の隣にへたりこんで転んだぬいぐるみみたいにソファに寄りかかった。まだ意識が半分眠っているんじゃないかと思うほど宙に浮いたような声だった。
水を飲もうとしたのだろうけど、俺の隣に座り込んでエヤは焦点の合わない目で床を見つめたまま動こうとしない。
「飲んだらちゃんと寝るんだよ?」
「はーい……だす……すぅ……」
頷きながら、下がった頭はそのまま舟をこぎ始める。エヤの代わりに水を取りに立ち上がり、コップに少なめの水を入れて彼女に差し出す。エヤはうっすらと目を開けてゆっくり水を飲み干した。
「…………また、ノトチャン……?」
水を飲み終えたエヤはぽんやりとした眼差しのまま机の上に置いてあるスマホに目を向けた。
「……そうだよ。ほら、水も飲んだからもう戻ろう」
エヤからコップを受け取り、彼女の手を取って立ち上がらせる。
部屋までエヤを連れていくと、布団を目にするなりエヤはとたとたと駆けて行ってすぐに潜り込んだ。
その隣ではミケが丸くなって眠っている。
エヤが同じように丸くなったのを確認して、俺も自分の部屋へと向かった。
新年を迎えてから数日経ったが、今年は二人がいるから遠くもないのに実家に帰ることもできず、心寧に適当なことを言って誤魔化してもらうことになった。心寧にはまた貸しができてしまったことになる。
豪華な新年の料理と何をしなくても許される楽園を過ごす機会は逃した。でもその分、良かったこともある。
実家にいると流石にゲームに没頭したり、オンラインで誰かとコミュニケーションばかりすることが憚れるけど、ここにいればそんなことはない。だから直音さんとゲームをするのだって何も気にしなくて済んだ。
彼女は家族がいないと言っていたが、細部はどうあれ確かにそれは事実で。
コンサートの後、少し体調を崩していた彼女は調子が戻らないからと直接会うことは拒んでいた。でもありがたいことに現代は人類が追いつかないほど文明がめきめきと発達している。
ゲームをしていた時に自然と年越しの話になった流れから、ビデオ通話で直音さんと一緒に新年を迎えることになった。
いつも年越しは一人で静かに過ごしていると言う彼女。気楽で悪くないよ、と言っていたけれど。
かくいう俺も今年は静かに新年を迎えるつもりだった。
だが大志さんに唆されたエヤとミケが彼の知り合い主催のカウントダウンイベントに行きたいと言ったので、断る理由もなくて結局行くことになった。
タイで有名なロイクラトン祭り。もともとは仏教の祭りで、仏陀への感謝と厄払いの意味を込めてロウソクに火を灯した灯篭を川に流す、世界でも注目されている祭りの一つ。夜空へランタンを放つ様子がもっとも印象的なチェンマイのイーペンがやっぱり一番人気が高いだろう。
ロイクラトン祭りは十一月に行われているけど、似たような祭りをチェンマイの年越しでコムローイ祭りとして行われているらしい。
その祭りを模したイベントが三つ隣の駅で開催されるとのことで、ランタンが夜空を舞う姿が見たいエヤとミケは意気揚々とプレゼンしてきたのだ。
今回が初の開催だったみたいだけど、俺もそんなイベントがあるなんて知らなかったし、家にいてもテレビも何もないしどうせ暇だからとつい首を縦に振った。
本場の祭りは本当に綺麗だし、同じような景色が見られるというのなら行く価値はあるだろう。
外出を避けていた直音さん。彼女にも、ほんの少しでも楽しんでもらえたらいいな、ビデオ通話の件は、そう願ってしまったから出てきたものだろう。
俺の提案に直音さんは喜んでくれて、俺は大賑わいだった祭りの様子を中継しながら新年を迎えた。
ランタンは想像よりも大きくて、エヤとミケとともに膨らむのを十分に待ってから一緒に空へと放した。願いを込めてランタンを上げる人もいるけど、俺は何を願えばいいのか分からなくて。
ランタンをじっと見つめていたエヤとミケが無事に修行を終えて彼女たちの願いが叶うようにと手を離した。
灯りが夜空に消える時、苦難も一緒に消えるとの言い伝えもある。
俺に苦難なんてたいそれたこと、そんなにないけど。でも、もしそれが信仰だと言うのなら。
彼女が抱えてきた苦しみが、少しでも和らいで解消されるといい。
真っ暗な夜空へと遠ざかっていく灯りを見上げながら、スマホの向こうにある笑顔を願った。
エヤとミケは幻影的な光景にすっかり興奮して、天界よりも美しいとか言いながら大絶賛していた。
帰り道に見た日の出がそんな二人の表情を照らし、俺は見ることのない天界を想像しながら冷えた身体を太陽で溶かした。
そんな年明けから幕が開けた年。今日も日課のゲームを終えてすっかり腑抜けていたわけだけど。
ベッドに座り込み、目覚まし時計をセットする。
今年はまだ始まったばかり。
あとどれくらい。あと何日の間許されるのか。
ようやく訪れた眠気に目を伏せる。レトロな風貌をした目覚まし時計をサイドテーブルに置くと、ちりんという鈴の音が僅かにこぼれた。
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