25 おやすみの後で

 「ねぇカシノ、明日、ノトチャン来られないの残念だすな」


 二人が使っている部屋に布団を敷いていると、髪を乾かし終えたエヤが扉の前に立っていた。


「うん。でも直音さんだって忙しいからしょうがないよ」


 二人分の枕を布団の上に置いて目についたカバーの皺を手で撫でると、エヤがどすんと目の前に座る。


「この後ノトチャンとゲームするだすか?」


 丸い瞳で食い入るようにこちらを見てくるエヤは、口で山の形を作っていた。


「……内緒。でもエヤとミケはもう寝るように。明日のためにちゃんと寝ておかないとな」

「えぇー! ずるいだすカシノ。ぜったいゲームする気じゃないだすか」


 エヤはテディベアのように足を広げて座ると、地団太を踏むように足をばたつかせる。


「ミケに密告してやるだす!」

「いいよ。正々堂々いこうじゃないか」

「むぅううぅう」


 頬を膨らませるエヤは、腕を組んで面白くなさそうな顔をした。そんな顔をされるとちょっと心が痛むけど、軽く笑って誤魔化す。

 エヤはそのまま布団に横になって天井を見上げた。まだ不満そうな顔をしている。でも悪いけど、今日のところはもう二人には明日に備えて眠って欲しかった。

 明日は土曜日。ちょうど直音さんと水族館に行ってから一週間ほどが経った。


 俺も明日は休みだけど仕事ではない用事があった。たぬきの塾に行くことになっているからだ。

 ディスカバリー隊の活動があるとかでエヤとミケがたぬきの塾へ行くからその付き添いだった。

 休日まで活動するのかと最初は驚いたけど、クラブ活動だと考えれば何も不思議なことではない。これまでの休日の活動では送り迎えだけをしていた。だが明日はそうではない予定だったのだ。


「おやすみ、エヤ」

「むぅううう。…………おやすみだすー」


 エヤは俺のことを恨めしげに見ながら布団の中へと入っていく。部屋から出ようとしたところでミケにぶつかる。ミケは電気を消そうとしている俺を見上げて言葉少なげに「おやすみ」とだけ言った。

 閉じた扉の前で一息つき、腕を伸ばしてから縮こまった身体を伸ばす。電気のついている部屋が妙に明るく感じる。瞬きを何度かした後で、静かになったソファの上に座り込む。


 目の前のテーブルにはエヤとミケの描きかけの絵が残されていた。この前行った水族館の話をたぬきの塾でするから、そのために思い出を描いていたようだ。

 一枚の画用紙を手に取り、クラゲに囲まれている小さな女の子と、チョコレート色のコートを着た女の人の笑顔に目を向ける。


「はは……結構上手なんだ」


 この絵を描いたのは恐らくエヤだろう。子どもらしいタッチだけど、特徴を捉えていて上手いこと描けている。職場だと藍原さんがイラスト描くのが上手だけど、それとはまた趣が違って良い絵だ。

 画用紙の裏を見ると、丸みを帯びた文字が並んでいた。”くらげのゆきとノトチャン”。イラストの様子を記載しているようだった。

 もう一度表の面をひっくり返す。エヤの隣にいるのは直音さんだ。そっとその絵に指を触れてみる。あの日の最後に見た彼女の笑顔が、つい先ほどのことのように思い出せた。

 今朝受け取った彼女のメッセージ。机に置いたままのスマホを見やり、真っ暗な画面とただ向かい合う。


“ごめんなさい。急なのですが、明日、行けなくなりそうです。本当に申し訳ありません!”


 彼女が頭を下げる様が容易に想像できた。その表情が何を描いているのかも、以前よりも分かるようになってきた。

 明日、本当ならば直音さんもたぬきの塾に行くことになっていた。エヤとミケが花火を見た後に早速誘ったのだ。直音さんは快く頷いてくれたが、前日の今日、そんなメッセージが届いた。


 エヤとミケにそれを伝えると大層がっかりしていたが、俺も彼女たちの気持ちがよく分かる。

 おまけに、行けなくなった理由が他の用事とかならまだいいんだけど……。

 画用紙を机に戻して散らばっているのを一か所に束ねながら、告げることはなかった彼女の理由を嫌でも考えてしまう。

 彼女の病状や望みを聞いてからも、俺は何事もなかったかのようにこれまで通りに彼女に接し続けた。直音さんが気まずい思いをするのを避けたかったのもあるけど、本音は自分の中でまだ決着がついていないからだろう。


 水曜日に風見先生と廊下で偶然会ったけど、彼は俺の表情を見て全てを察したらしい。無言で肩を叩いて去って行ってしまった。

 院内でも評判の高い風見先生。でも彼の能力に頼ることだってできないのだと、改めて現実を突きつけられたような気がした。大事なのは本人の意志。それは分かってる。そんなことは誰もが暗黙で知っていることだ。

 不揃いな画用紙の束を机に叩きつけて整える。行き場のないやるせなさが本意となって紙に必要以上の圧を加えた。


 彼女に残された時間はあとどのくらいか。


 目を背けたい事実が冷酷な雨となって頭を冷やす。

 力が抜けていった指先からは折角束ねた画用紙たちがパサリと虚しく机に倒れていった。

 ソファから崩れ落ちるようにして低い机に頭を打ちつける。

 彼女の決断。彼女は気力を失ってしまうほどに考えに考え抜いたはずだ。そんな拷問、俺ならきっと耐えられない。だからこそ彼女が望んだ答えを尊重したい。だけどそれは彼女を見捨てることと同義ではないだろうか。


 だって彼女のことはまだ救えるはずだ。

 俺は医者でもないし、看護士でもない。薬剤師でも検査技師ですらない。

 医学的に命を救う方法なんて分からないけど、彼女の恐れを知っているのはきっと自分だけだ。

 そうやって勝手な使命感を得て傲慢になった自分の欲を押し付けようとしているだけなのか。

 彼女のことを救いたいだなんて。


 すぐ隣に置いてあるスマホの側面をぼーっと見やる。明日、たぬきの塾へは行けないと言った彼女。

 俺はそんな直音さんについ今夜のゲームの誘いを送ってしまった。それはただ、漠然とした不安から目を背けたかっただけだ。

 彼女は笑顔のキャラクターアイコンとともに喜んで、と言ってくれたけど。これって、彼女の残された時間を無駄に浪費させてはいないだろうか。


「はぁ…………」


 結局はただの独りよがりだ。船酔いのような不快感を覚えた俺の目の前で、スマホの画面が明るく光った。

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