19 いざ水族館
冬晴れが迎える日曜日。
今日は初橋さんに付き添ってもらってのお出かけの日だ。
結局、行き先は当初から意向が傾いていた水族館になった。天気も良いから体感の寒さは和らぐけど、いざ外に出てみるとやっぱり室内メインの施設にして良かったと思える。
「カシノカシノー!」
手を伸ばして鍵を要求してくるエヤは、もこもこのコートとマフラーに埋まった頬がさっそく気温差で色づいてきていた。鍵を閉めたがっているエヤに鍵を渡して、その隣にいるミケの様子も確認してみる。
ミケはイヤーマフをつけているだけでマフラーはしていない。コートも首元まで閉められるタイプだから吹き曝しにはなっていないけど、寒くはないだろうか。彼女は主張が強いようで弱いから、例えそう思っていても遠慮して言ってこない可能性がある。
「ミケ、寒くない?」
目線を合わせて尋ねがてら、外れかけていたミケのコートのボタンを首元までしっかりと留めた。
「寒くない。大丈夫だよイタル」
「寒くなったらちゃんと言うんだよ?」
「うん」
「んふふふふ。その時はエヤのマフラー貸してあげるだすっ」
戸締りをしたエヤが鍵を俺に返しながらそう言って笑った。ミケはもう一度頷くと、白い息を吐いた俺のことをじーっと見上げる。
「イタルが一番寒そう」
「えっ。そんなことないって」
前に初橋さんと帰った時とは違って今日はちゃんと冬のコートを着ている。実際に身体はだいぶ温まっているし。でも白い息が見えたからそう思わせてしまったんだろうか。変なところに気がつくミケの着眼点に、なんだか心が和んだ気がした。
「でも心配してくれてありがとな、ミケ」
「…………どういたしまして」
ミケは首を傾げながら、つい笑いだしてしまった俺のことをきょとんとして見ていた。
「ほらほら、遅れちゃうだすよっ! ノトチャンが待ってるだす!」
「分かった分かった。エヤ、押しちゃだめだって」
「早くノトチャンに会いたいだすー!」
玄関前に留まっていた俺の足をぐいぐいと押してくるエヤは、瞳を輝かせて握った拳を空に向かって突き上げた。
無邪気にはしゃぐエヤの姿を見ていると、複雑に描かれた心の線から棘が生えてくる感覚に陥った。
風見先生が言っていたことがどうしても頭にこびりついている。
二人とも今日が来るのを楽しみにしていたし、俺としても初橋さんに会えるのは嬉しい。だけど同時に先生のあの表情を思い出してしまう。
推測できる初橋さんの状況を思えば俺としてもなんとか協力をしたいところだ。でも今になって突然疾患のことを聞かれたら彼女だっていい気分ではないだろう。おまけに、恐らく意図的に避け続けていた家族の話。それをさり気なくだとしても問い詰めるなんて、彼女は構えてしまうはずだ。
嫌われたら嫌だとか、彼女の態度が変わってしまったら寂しいとか、そんな自分の感情を優先させている場合ではないのだろうけど。
両隣を挟むようにして歩くエヤとミケは水族館に行ったことがないらしい。未知の場所に行けることに夢中になって弾むように歩いている。
その一方で俺の足取りはそこまで軽くない。
風見先生と話してから心には決めたことだ。
それでもゲーム上では平静を装って、何も知らないふりをすることができた。
アバターを通じた向こう側にいる瞬間の、ありのままの彼女。他でもない彼女本人だけを見ることが出来た。
彼女が隠している、俺の知らないことなんて忘れてしまえた。
だが実際に本人を目の前にした時、俺の決意が揺らぎそうで既に頭がくらくらしてくる。
緊張のせいか、眩暈にも見た浮遊感が少し気持ち悪い。
目頭を押さえてどうにか気を取り持ちつつ、待ち合わせ場所の駅へと向かう。
「あっ! ノトチャーン!」
まだ頭が痛いのに、エヤの元気な掛け声と駆け出す足音が聞こえてくる。もう駅に着いたのか。
エヤが駆けて行った方面を見ると、チョコレートケーキみたいな濃い茶色のコートを着た初橋さんが駆け寄ってきたエヤを身を屈めて迎え入れているところだった。
「ノトチャン! おはようございますだす!」
「ふふ。おはよう、エヤちゃん……ミケちゃんも」
「おはよう、ノト。…………これ、モンスター?」
「うん、そうだよ。ふふ、見る?」
「うん」
少し遅れて走っていったミケは初橋さんの鞄についているモンスターのマスコット人形を指差す。初橋さんは鞄からそれを取り外しミケに渡した。前にイベントで買った時のものだ。
ミケは興味深そうにマスコット人形の縫い目までじっくりと観察をする。
「初橋さん、おはようございます。朝早くからありがとうございます」
ようやく二人に追いついたところで初橋さんに挨拶をすると、彼女は屈めていた身体を伸ばして真っ直ぐに俺のことを見る。
「おはようございます樫野さん。水族館、久しぶりなのでとても楽しみで……ふふ、来られて嬉しいです」
柔らかく笑う初橋さんは時間より早めに着いていたのだろう。鼻先が少し赤くなっている。
「俺も水族館行くの久しぶりなんです。今日行くところはリニューアルしたみたいなので、ちょっと興味ありますね」
「そうなんですか? あ、クラゲのイベントもやってるんですよね?」
「はい。あんまり混んでないといいけど……」
「ふふふ。そうですね。二人とも、はぐれないようにしないとですね……!」
初橋さんはマスコット人形を二人して見ているエヤとミケをちらりと見やると、気合いを入れたのか拳を胸の前でぐっと握った。
「ははは。本当にそうです。エヤ、ミケ、あんまり勝手に歩き回らないようにな」
「はーい! だすっ」
「わかってるよ」
二人は同時に顔を上げて返事をした。
「ふふふ。良い子ですねぇ、二人とも」
二人を見てにこにことしている初橋さん。俺はそんな彼女を見て、心の中で不安に怯えていた線が思っていたのとは違う模様を描いたことに気づく。
「行きましょうか、初橋さん」
「はいっ」
彼女のこの笑顔が見たいのなら、臆病になっている余裕なんてないはずだ。
どこからともなくパワードスーツを得たような、そんな根拠のない覚悟と勇気が突如として胸を覆っていき、俺はあの日の決意を再び呼び起こす。
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