18 寄らない眠気
エヤとミケがいることを初橋さんに話すことが出来てから、身体のどこかで渦巻いていた不穏な雨雲が綺麗に消え去り、頭上に広がる澄み渡った青い空のように気分が晴れやかだ。
初橋さんとゲームをするときもチャットだけでなく通話ができるようになったおかげで、ミケも一緒になってモンスターを倒す作戦会議なんかもできるようになった。
ゲームをやっていないエヤがよく話を脱線させるけど、そこから広がる取り留めのない会話も楽しくて、二人が来てから賑やかになっていた部屋の中は更なる笑い声が響くようになっている。
やっぱり秘密なんてない方がいい。
少なくとも俺はそう思う。俺の性格的には隠し事なんて荷が重い。それを改めて実感する良い機会になった。
でも二人の本当の正体については話せない。それだけはまだ初橋さんに申し訳ないけど、変なことに巻き込むのも避けたいし、彼女には余計な気を遣わせたくはない。
そもそも、信じてもらえるかも分からないから俺に話す勇気がないだけなんだけど。
弱いところは誰もが持っている。だから何を話すのかを選択するのは自由だ。
俺は今の初橋さんとの関係を壊したくなくて、そんな言い訳を自らに唱えながら、流れる雲を視線で追いかけた。
天気が良い今日。藍原さんに誘われて久しぶりに外で昼食を食べていた。
一緒に食べていた藍原さんはついさっき雨臣さんに呼び出されて執務室へと戻った。藍原さん曰く、彼女が担当している部署から緊急の問い合わせが来たようで、早急に対応して欲しいとのことだった。
俺も手伝おうかと戻ろうとしたが、藍原さんに大丈夫だと言われてお役御免となった。
昼休みが終わるまで時間が余った俺は、院内の庭を少し散策した後で見つけたベンチに座って開きっぱなしにしていたネットのサイトを開く。
今度エヤたちと一緒に出掛けることになっている。その時にどこに行こうかと調べているところだ。
エヤとミケは生き物が見たいと張り切っていたから、動物園か水族館のどちらかに行こうと考えている。そこまでは絞れているけど、実際に調べてみるとどこも特色があるから俺自身も意外と興味が湧いてしまったのだ。
「クラゲの雪……ねぇ」
今見ているのはよくネットニュースでも話題になっている水族館の冬のイベントについて書いてある記事。心寧が担当している情報サイトだ。どこの水族館も動物園も、季節柄、イルミネーションや雪をテーマにした企画展示が多い。でも動物園は屋外施設が多いから少し寒いし、動物たちもそんなに元気じゃないかもしれない。それに万が一雨でも降ったら大変だ。
なら、天候のことをそこまで気にする必要のない屋内がメインの水族館の方がいい。そんな単純な理由で、俺は水族館の方に意欲が傾いていた。
水族館なんて久しく行った記憶がない。大学生の時が最後じゃないだろうか。
画面をスクロールしながら、ぼんやりとしてきた学生時代のことを思い出す。
初橋さんは水族館とか興味あるかな。
スクロールをする指が止まり、一緒に行くことになっている彼女のことを思い浮かべる。
ゲームをしている時にやんわり聞いてみたけど、エヤとミケが行きたいところならどこへでもついていくと言ってくれただけで、特に希望などはないようだった。
でもあんまりにも興味がないところへ連れ出すのは流石に退屈してしまうだろう。
ゲームイベントで見た彼女の楽しそうな姿を覚えているからこそ、またそんな姿が見たいと思ってしまう。
我儘な欲だろうか。
独りよがりの勝手な欲望にチクリと心が痛み、スマホを持っていた手が膝の上に下りる。
ただでさえエヤとミケとのお出かけに付き添ってくれるというのに、俺は彼女に何を求めているのだろう。
「あーー…………っ!」
頭がこんがらがってきて本来の議題が隠れてしまい、髪をくしゃくしゃと掻いた。
そんなみっともない姿を誰も見ていないだろうと思っていたが、人出の多い場所でそれは叶わない。
髪の毛が情けなく乱れたところで、俺の前で一人分の足音が止まった。
「至くん?」
思いがけず声をかけられて気持ちが切り替わらないうちに救いを求めるような目のままで顔を上げると、目が合った彼は「こんにちは」と少し疲れた目元を緩ませ、嫌味なく笑いかけてきた。
「風見先生……お疲れ様です」
彼と会話をするのは久しぶりだ。
弁当を作るようになってからは定食屋にも行かなくなったから、当然顔を合わせる機会は減る。
「久しぶりだね、至くん」
先生は白衣を着たまま片手をポケットに入れてひらひらと手を振った。
「はい。お久しぶりです。休憩時間ですか?」
「うん、そうだよ。天気が良いからちょっと日光に当たろうと思ってね」
「ははは。大事ですよね、日光」
「下を向いてばかりだからすっかり目がしょぼくれてしまってねぇ。ちょっと太陽が眩しすぎるかな」
先生はそう言って笑うと、額に手をかざして空を見上げた。
「先生は定食屋に最近もよく行かれてますか?」
「うん。絶品だからね。私のエネルギー源はすべてあの店のもので賄われているよ。至くんは最近は行っていないようだけど、噂によると弁当を作っているとか?」
「……はは。なんで知ってるんですか」
正解を言い当てたことに嬉しそうにニヤリと笑う先生は、同じく定食屋の常連である春海に聞いたとネタばらしをする。
「心境の変化でもあったのかな?」
「いや……特には。俺もそろそろそれなりにしっかりしないとと思っただけですよ」
「ふぅん。私には耳に痛い言葉だね」
先生はそう言いながら肩をすくめて俺の隣に足を組んで座った。
「先生は仕事でたくさんの人を助けているじゃないですか。十分にしっかりしてますよ」
「そんなことを言われてしまうとまた自分を律するのを止めてしまうじゃないか。そう言ってダメ人間に落とす気か?」
「ははは。先生がダメ人間なら、俺は人間にもなれない何かですよ」
「そりゃ大変だ」
先生の空に突き抜けるような笑い声は、久々に聞いても変わらないものだった。でも先生は心地よさそうに笑った後で一度息を吐くと、呼吸を静かに整えてそっと俺の方を向いた。
「いやぁてっきりね、心を変えるような大事な人でも出来たのかと思ってね」
「……え?」
先生の声が彼が本来持つ大人らしい穏やかで、かつ心を繊細に突くような色に変わり、俺はその調子に少しどきりと妙な緊張が胸を打つ。
「のぞき見のようで気分が悪いだろうけど、前に至くんと彼女が一緒に帰るところを見たものだから、少し気になってしまって」
「彼女……?」
先生はゆっくりと頷く。その表情は真剣だ。
そして俺も思い出す。同じような顔をした先生と初橋さんが立ち話をしていた光景を。
そうだ。
風見先生は彼女の担当医だ。確かに彼女はそう言っていた。
俺は先生が口を開く前に、彼の涼やかな眼差しにどこか掴みどころのない不安を感じた。
「初橋さんは、ゲーム友だちみたいなものです。ここで知り合いました」
「そう」
「先生にお世話になっていると……」
「うん。そうなんだ。彼女は私の患者だ。……そのことについて、何か聞いていたりするか?」
そのこと、とは、彼女の持つ疾患のことだろう。
俺は首を横に振って否定する。俺の反応を見て、そう、とだけ相槌を打つ先生の眉尻が下がったように見えた。
「至くんは、初橋さんと仲が良い?」
「……悪くはないと思います。そうですね、良い友だちだと、思ってもらえてると嬉しいですけど……」
水面を揺らすことすら躊躇う先生の声。その穏やかさが逆に俺の心に波を立てる。
「そっか……じゃあ、ちょっと聞いてもいいかな」
「何でしょう」
ごくりと息をのむ。
真剣な表情をしている先生は、やっぱり独特の凄みがある。彼はそれを意識してはいないのだろうけど、凡人の俺には胸に来るものがある。
「初橋さんのご両親……そうじゃなくても、ご家族とかの話って、聞いたこと、ない?」
先生は少し言いづらそうに声を弱めた。
「ご家族、ですか? いえ……そういった話はあまり聞いたことがないので……すみません」
言われて気づく。
そうだ。彼女は自分の素性についてはあまり話さない。
仕事の話とか、趣味とか、高校や大学の時の話とかはしてくれるけど、どれもすべて彼女自身のこと。
友だちや同僚の名前は出てきても、家族の名前が出てくることはなかった。
俺自身は心寧のことも話すし、そのことに若干の違和感は隠れていた。でも俺としてもエヤとミケのこともあるし、時が経つにつれてそんなことはあまり気にならなくなっていた。
ただ確かに、家族の話は聞いたことがない。
俺が眉間に皺を寄せると、先生は微かに口角を緩めた。
「やはりそうか……至くんでも知らないか……」
「え?」
先生の寂しそうな声には悔しさが滲む。それは医師としての義務か、人間としての情か。俺には先生の想いを振り分けることはできない。
「彼女、家族はいないとしか教えてくれないんだ。緊急の連絡先だって大家さんのものだし」
「……そうなんですか……?」
「ああ。紹介でこの病院に運ばれてきた時も付き添っていたのは大家さんだ。診断結果だって、一人で受け止めて分かりましたとだけ答えて穏やかに笑って帰っていった。治療方針を話し合いたいと申し出ても、彼女は家族はいないから問題ないとだけ言う。彼女を疑うわけじゃない。でも本当にそうなのかとはっきりと確かめたくてね。たくさんの患者を診てきたけど……色んな家庭環境の人がいるから、もしかしたらどこかにいる可能性だってゼロじゃないかもって」
先生は力なく笑い、残念そうに空を見上げる。
白い雲は優雅に流れていく。でも俺の心はそんな優雅さなんて無縁で、むしろ真逆のところまで飛ばされていた。
風見先生がそんなことを言うなんて、彼女の具合が良くないことを白状しているようなものだ。
家族を探している。
その事実だけでもう俺の心臓は目の前に剣を突き付けられたように固まってしまう。
「あの……初橋さん、あまり良くないんですか……?」
だから素直に言葉が出て行く。取り繕っている余裕も見栄もいらない。
先生は俺のことを横目で見ると、うーん、と唸る。
「本人に無断で話すことはできないけど……でも、彼女には必要だったんだ。身近な血縁者が」
「…………それ……って」
「至くん。こんなこと言うべきじゃないんだろう。でも、私にだって医者としての意地がある。……諦めが悪くて申し訳ない。もし、彼女に聞くことが出来たら聞いてみて欲しい。家族の話を」
鼓動が身体の底からうるさくなってくるから頭がぼーっとしてくる。でも駄目だ。ちゃんと話を聞かないと。
こんなにも太陽の光が主張しているのに、身は凍えそうだ。俺はどうにか気力を振り絞って声を出す。
「……どうして俺、なんですか……?」
「初橋さん、ある時から少し表情が明るくなったんだ。様子が変わったというか……だから、もしかしたら至くんにヒントがあるんじゃないかと思って。タイミング的にね」
「……は?」
「とにかく、今は君が頼りだ。気が向いたらちょっと力を貸してみて欲しいな」
先生はそう言って腕時計を見やる。
「それじゃ私はそろそろ戻るよ。話せて良かったよ、至くん」
「は、はぁ……」
良かったのか?
何の力にもなれてないけど。
立ち上がる先生を目線で追いながら、スッキリとはしない顔のまま小さく頭を下げた。
先生は会った時と同じく手をひらひらと振って院内へと戻っていく。
ベンチに取り残された俺は、無力感と不安に振り乱されて様々な言葉が喚いている思考をおざなりにしてスマホを見下ろす。
画面を点けると、開いたままの水族館の記事が浮かび上がってくる。
記事に掲載されたイメージ画像には、ライトに照らされて神秘的に浮かび上がるクラゲたちを見つめる幸せそうな家族が描かれていた。
「家族……」
まだ地に足がついていないような感覚から覚めない。
夢を見ているような、風見先生と話した時間だけが幻影のようなそんな気分だった。
でも、そうやって目を背けている場合ではない。先生のあの様子だと、初橋さんの容態は思ったよりも深刻なようだ。
「俺にできるのかな……」
自信なんてあるはずがない。俺は家族関係だっていたって普通の恵まれた環境にあるし、複雑な事情が絡むようなこともなかった。深いところへ一歩踏み出していいのかなんて、彼女の表情が見えなくなってしまうようで足がすくみそうになる。
だからと言って見て見ぬふりだってできない。そんなことをしたらきっと彼女は一人で全てを抱え込む。
そんなことでいいのか。いいわけがないだろう。
前に彼女が言ってくれた言葉がそっと背中を押してくる。
“素晴らしいところで仕事をされているんだなぁって”
そう言った彼女の笑顔。
その裏には一体、何を隠しているのだろう。
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