16 天気予報

 午後の業務が始まると、執務室は雑談と業務の対話でほどよい賑やかさが漂っていく。俺も仕事に集中して、今日も早めに退勤できるように業務の調整に努めた。

 窓の外の明かりは徐々に暗くなってくる。陽が落ちるのが本当に早くなったと実感する間もなく、時計を見上げるとあと一時間で定時だ。

 外が暗いと実際の時刻より深い時間になっている気がして早く帰りたくなるのはこの季節避けられないこと。だけど今日は外の景色と時間のギャップにもどかしさを感じなかったから割と忙しかったのだと思う。


 一度伸びをしてからパソコンのシャットダウンボタンをクリックする。

 今日の夕食は鍋にしよう。

 そう考えていた俺は、頭の中にある買い物リストを引っ張りだしながら帰り支度を進めた。


「お疲れ様です藍原さん」

「うん。お疲れ様。また明日ね」

「はい。藍原さんも早く帰ってくださいね」

「もっちろん」


 帰り際、藍原さんの笑い声に見送られて執務室を出た。よし、予定通りの時間だ。

 腕時計を確認し、俺は心の中でガッツポーズをする。これなら今日はゲームをできるだろう。

 軽めの足取りで一階ロビーまで向かうと、そこにはまだまばらに患者さんがいた。こういった大きな病院では診察や検査も思ったよりも時間がかかってしまうものだ。それに、急患の方もいるだろうし。

 少し疲れた表情をして会計を待っている人たちの傍を通り過ぎ、俺はまだ正面玄関が開いているのでそこから出ようとした。ここから出た方が若干の近道だからだ。

 ネックストラップを外してぐるぐる巻きにしていると、ふと背後から微かな駆け足が聞こえてくる。

 基本的に病院は走ることを推奨していない。なにか起きたのかと顔だけで振り返ると、少し息を切らしてこちらに向かってくる見知った人が見えた。


「やっぱり……! 樫野さん……っ、でした……っ!」


 はぁ、はぁ、と僅かに息を切らして肩を上下に揺らしている女性。暖かそうなコートを着て、走ってきたせいか頬が微かに紅潮している初橋さんだった。


「後ろから見たら……っ、たぶんっ、そうだと思っ……て……」


 まだ呼吸が整わないまま喋るものだから、時折詰まりながらも初橋さんはにっこりと笑う。


「初橋さん、こんばんは。今日も診察ですか?」

「はい。そうだったんです。ふふふ、樫野さん、普段は裏にいるって言っていたから、まさか会えるとは思いませんでした」


 初橋さんは診察が長引いて良かったです、とか冗談を言いながらようやく普段の息遣いを取り戻した。


「お会計は終わりましたか?」

「はい。ちょうど今」

「そうですか。やっぱり結構会計って待ちます?」

「ふふふ。そうですねぇ。待つと思います。もう診察時間は過ぎているのに、忙しいですね」

「ははは」


 会計の方をちらりと見てスタッフたちを労う初橋さんに、俺は思わず同情の声が漏れる。

 初橋さんに会ったのはイベントの日以来初めてだ。

 ゲーム上ではあっているけど、通話もできないから声も久しぶりに聞いた。

 いつもはキャラクターという仮想の姿でしか対面していない彼女と向かい合って話せるのがなんだか嬉しくて、俺はついこの後のスケジュールのことなど忘れて思いついたことを言う。


「そうだ。今帰りなら、途中まで一緒に帰りませんか?」

「え……? いいんですか?」


 初橋さんは俺の提案に少し驚いた後で、すぐに表情を柔らかくする。

 馴れ馴れしいことを言ってしまったかと後悔しかけたが、彼女の笑顔がすぐにそんな不安を消してくれた。


「そうしたら、少しご一緒してもいいですか?」

「はい。えっと……初橋さんは電車で来てるんでしたっけ?」

「そうです」

「そうしたら、駅、家の途中なんで、そこまで一緒に歩きましょうか」

「はいっ!」


 彼女と並んで正面玄関を出ると、容赦なく凍てつく風が吹きすさぶ。


「すっかり寒くなりましたね」

「ですねぇ。ふふ……樫野さん、少し寒そうですね」

「えっ。そうですか……?」


 咄嗟に自分の服装を見てしまう。正直言うと今日の服装は失敗したと思っている。体感だけだと思ったよりも倍くらい寒い。少し前に見た大志さんの甚平。寒さに強そうな彼も流石に今日はそんな薄い衣を着ていないと思う。


「ちょっと失敗しましたかねぇ。天気予報、あんまり真面目に見てなかったです」

「ふふふ。今日は昨日より四度低いんですって。急に下げてきましたからね」

「翻弄されて、困りますね」


 テレビを持っていないからスマホでしか天気予報を確認しない。エヤたちのためにももっとしっかり確認するべきなのだろう。これから寒くなるし、風邪でも引いたら大変だ。

 雨が降っても大志さんが二人に傘を貸してくれる環境に慢心していたことを俺は改めて反省した。


「天気予報も外れることの方が多いですから、なんとも言えませんけどね。ふふ、保険、ですね」

「ははは。そうですね。あ、そういえば初橋さん。病院に来るときは会社お休みしてるんですか?」


 彼女が持っている少し大きめの鞄を見て、俺は他愛もない質問をする。イベントの日とは違い、シンプルな鞄には何もついていなかった。


「そうです。午後半休をいただいてます。会社に行って、そのまま病院に来ています」

「忙しそうですね」

「そんなことないですよっ。それに、私、有給休暇って好きなので、なんだか贅沢な気分です」


 休暇を消費して行く場所は病院だというのに初橋さんはそんなことを言ってからからと笑う。

 でもなんだかその笑顔が寂しそうにも見えて、俺は彼女の前向きな考えを素直に受け取ることにした。


「病院に来ると、色んな人がいるので、なんだか刺激になります。私もその一人ですが……でも、なんか、閉塞的なものとは全然違って、むしろ真逆で……私の知らない世界がこんなにあるんだって気持ちになるんです。患者でも、お見舞いでも……仕事でも、目的は違っても、たくさんの人がそれぞれに何かを抱えているんだって。すべてが解消されることもないのでしょうけど、そこには間違いなく希望もあって……目標だってあるんです。変な話なんですけどね、ふふ、皆さんの顔を見ていると、そう思うんです。……考えると、私にはなんだか果てしなくて宇宙に来ている気分になります」


 初橋さんは照れ臭そうにそう言ってから俺を見上げた。


「だから樫野さんは、とても素晴らしいところで仕事をされているんだなぁって、思います」


 その言葉に嘘はなくて、彼女の本心だということがすぐにわかる。だから余計に心がくすぐられているみたいにこそばゆくなってくる。悪い気分ではないけど、良い気分とも言えないような……。浮足立つって言葉が相応しい。そんな感覚。

 普段裏方にいる俺は自分の仕事についてそこまで考えたこともなくて、はにかむことしかできなかった。情けない。せっかく嬉しいことを言ってくれたというのに。


「あ、そうだ樫野さん。ゲームなんですけど……樫野さんのキャラクターってなんだかお洒落ですよね」

「え? そ、そうですか……?」


 初橋さんは俺が歯がゆい顔をしていることに気がついたのか、一歩大きく前に出て話題を変える。


「はい。見る度に装備が変わっていて、なんだかファッションショーを見ている気分です。毎回、何を装備しているのかなって楽しみにしちゃってます」

「それは……ありがとうございます」


 装備を変えているのはミケだ。ゲームを消す前にいつも必ず装備を変えるために貸して欲しいと言ってくるのだ。今までコツコツと素材を集めていたおかげか、意外にもたくさんの装備を持っている。だからミケはその着せ替えが楽しいみたいで、真剣な表情で装備を選んでくれる。

 毎回衣装が違うキャラクターのことをどう思われているかなんて気にしたことはなかったけど、初橋さんがお世辞でも楽しんでくれているのなら良かった。いや、本当にお世辞かもしれないけど。実際は毎回変えていて、拘りが面倒だなとか、マウント屋とか思われているかもしれない。遠回しに苦言を呈しているとか?


 もしそう思われてたら嫌だな。申し訳ないし、不快だとしたらミケには個人モードの時でしか触らせないようにするから教えて欲しい。

 ちらりと初橋さんの表情を窺う。


「ふふふ。私ももっとカスタマイズしてみようかなぁ?」


 でも、彼女の素直な表情が先ほどの発言は建前ではないのだと教えてくれた。


「樫野さん、コツを教えてくださいよ」


 控えめに前のめりになった彼女は俺の表情を覗き込むようにして頬を綻ばせた。


「いや……ち、力になれますかね……?」


 あれミケの仕業だし。

 俺は回答をぼやかして頭を掻く。


「初橋さんのキャラクターは、あのままで十分に完璧だと思います」

「そうですか?」

「はい。俺は好きです」

「……ふふふ、嬉しいです。自信が持てる魔法の言葉をありがとうございます」


 初橋さんはわざとらしくニヤリと笑うと、姿勢を戻して前を向いた。


「うーっ。寒いですねぇ」


 正面を向いた瞬間ぶつかった風が彼女の前髪をふわりと舞い上がらせ額に冷気を残していくと、初橋さんは両手をコートのポケットに入れて縮こまった。


「樫野さん、やっぱり天気予報はちゃんと見ないとですね」


 彼女より薄着の俺のことを気遣うように見上げ、彼女は参ったように眉尻を下げる。


「ははっ。ですね。明日からはもっとちゃんとチェックしないと……」


 でも不思議と病院を出た時よりは寒くない。

 だけど、そんなことは言えずに俺は建前を答える。


「あ……そうだ樫野さん。この先にスーパーがありましたよね? ちょっと買い物をしたいのですが……寄っても大丈夫ですか? あ、もしあれだったら……」

「いいですね。俺もちょうど買い物したいんです。寄りましょうか」

「うん……。はいっ!」


 初橋さんは小さな声で頷いた後に弾むような声で返事をしてくれた。

 その声がまた俺の心をぽかぽかとさせる。まるでホッカイロのごとく、じんわりと温もりが滲んでくる。

 職場に投げかけてくれた彼女の賛辞のように、それは胸を柔くくすぐり通り過ぎていった。

 駅の近くにあるスーパーに寄った俺たちは、それぞれに必要なものをカゴに入れていく。

 初橋さんと少しの間別行動をして、俺は自分の買い物をさっさと済ませようとした。


 今日は鍋をする予定だから、野菜と、鶏もも肉と、豆腐と……。エヤはあんまりしいたけが好きじゃないけど、ミケは食べるんだよな……。どうしようか……。

 悩みながらも必要なものをカゴに入れていくと、ふと新作のお菓子が目に入る。この会社、確か初橋さんの勤務先だ。お菓子を買う機会は少ないけど、思わず目に入ったそれを手に取ってみた。


「チョコレート……? チョコビスケット……」


 大きな板チョコの中にビスケットやフルーツミックスゼリーが入っているらしい。見るからに甘そうだ。でも、外国のお菓子みたいなパッケージでどうにも目を惹く。派手だけど楽しそうなロゴに気を取られ、ちょっと食べてみたいなんていう気持ちがそそられる。


「それ新商品なんです! 試食したんですけど、美味しいですよっ」

「わっ……!」


 パッケージを見つめていると、ふいに初橋さんが横から顔を出してにこにこと微笑む。

 急に現れるものだから、心臓が飛び跳ねて余韻が後を引いている。すぐ近くにある彼女の顔を強張ったまま見やると、初橋さんは微かに首を傾げた。


「おすすめですか?」

「はい、自信を持っておすすめします!」


 そのまま問いかけた俺に対して、彼女はふんわりと頬を緩ませて得意げに頷いた。

 俺は手に持っている板チョコをカゴに入れる。美味しくないわけがないだろうし、エヤとミケも食べるだろう。

 そういえば彼女はもうカゴを手に持っていない。俺は彼女が片手に持っているエコバッグに目を向けた。


「もう買い物は終わりましたか?」

「はい」


 初橋さんはエコバッグを持ち上げてみせる。


「すみません。俺も会計してきますね」

「あ……っ。全然、気にしないでくださいっ」


 両手で手を振る初橋さんは、俺が持っているカゴに思わず目線を下げたようだった。


「ありがとうございます。でも必要なものは入れたので、行ってきます」

「はい。いってらっしゃいです」


 レジに向かいながら腕時計を見る。思ったよりも時間がかかってしまったかも。

 今日は早く帰ってるからまだ時間に余裕はあるけど、初橋さんは電車で帰るわけだし、あまり引き留めてしまっては良くない。

 外の暗がりを見つめながら、俺はピッピッという耳当たりの良いバーコードの読み取り音を左耳から右耳へと受け流していった。

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