13 祭りの余韻
トークショーが終わると、貴重な話を聞けたと興奮気味の初橋さんを連れて迷路のエリアまで向かう。確かにトークショーは普段は知ることが出来ない業界の話をたくさん聞けて面白かった。整理券の争奪戦に堪えてくれた彼女には感謝しても足りないくらいだろう。
初橋さんの鞄についているのは、ついさっき買ったばかりのマスコット人形。
トークショーの余韻で足元が疎かになっている彼女がどこかにぶつかってしまわないように気を付けていると、揺れるマスコット人形とたまに目が合った。
「あ、ここが迷路みたいです」
人の流れが増えてきたエリアに足を踏み入れると、目の前にはまるでお化け屋敷のような垂れ幕がかかっていた。その暖簾の向こうは何も見えない。
ゲームにも登場するゴーストエリアの洋館をモチーフにした迷路らしい。ゲームの中でも人気のエリアで、今回初めてそれを具現化したとのことだ。おどろおどろしいけど、ファニーな雰囲気もある。
「ふふふ。時間内にゴールできますかね」
受付をしている間、初橋さんは冒険に胸を躍らせて控えめに呟く。
この迷路は運営が設定した時間内にゴールをすれば景品がもらえることになっている。三十分以内ならメダル。四十五分以内なら小さなピンバッジ。一時間以内ならステッカーだ。
「全力は尽くします」
正直俺もそこまで自信はないけど。
でも未知の世界を冒険するみたいで楽しみなのは間違いない。
これは誤魔化さなくたっていい。冒険はどうしたって心を刺激するものだ。
「それではー、行ってらっしゃーい!」
陽気なキャスト……いや、洋館のマスターの声が威勢よく響く。
初橋さんと顔を見合わせた後で、俺たちは暖簾の向こうへといざ出陣した。
*
「お帰りなさーい! 無事に帰ってこれましたね」
「どうも……」
「ありがとうございます」
ぐったりした声で答える俺たちとは正反対な明るすぎる声に迎えられ、しばらくの間忘れかけていたざわめいた喧騒を耳にする。
出口で待ち構えていた妖精は挨拶を済ませた後で俺たちが首に下げているカードに書かれた時間を確認してステッカーを二枚取り出した。
「生還できたことを誇りに思います! ここで起きたことは口外禁止ですよ……っ!」
声を潜めて妖精はニヤニヤと笑う。
そうだ。この洋館は普段は世界に存在しない特別な場所という設定だった。
「ありがとうございます」
ステッカーを受け取り弱弱しく笑う。
初橋さんにも渡すと、彼女も疲れてしまったようで気力なく笑い返してくれた。
「なかなかにハードでしたね……」
「はい。噂で聞いていたものよりも大変でした……」
俺の声に答える初橋さんの顔色が少し悪くなってきたようにも見える。病院で見た時の彼女のことを思い出し、俺は急いで座れる場所がないかを探した。
ちょうどすぐ近くにあったベンチから三人の男子が立ち上がるのが見えた。俺はそこを指差して、足が疲れたので少し休みましょう、と提案する。彼女も頷いてくれた。
「これ、ネタバレ禁止なのでヒントもないんですよね」
ベンチに座った初橋さんは、血の気が薄くなったままで表情を和らげる。
「結構トラップとかあって……ふふ……思い出すと、なんだか可笑しいですね」
「はい。謎解きが時間かかっちゃってすみませんでした」
「いえいえ。私の方こそ違う色の線を切っちゃってごめんなさい」
「はははっ。あの時の初橋さん、すごく慌ててましたね」
「ふふっ。だって、爆発とかするのかと思ったから……そんなわけないのに」
「確かに。流石に爆発は……」
「ですよね。あ、ふふ、そういえば、ゾンビの人がこけちゃってましたね。樫野さん、つい助けようとしちゃうから……ふふふ、ゾンビもたじたじでしたね。樫野さんすっごくスマートでしたから、向こうも戸惑っちゃって……!」
「まぁ怪我したら良くないし。はは……スマートなんかじゃないですよ、俺」
「そうですか? ふふふ」
洋館の中に張り巡らされていた数々の仕掛けを思い出し、二人で声を合わせて静かに湧き上がるように笑った。
そこまででもないだろうと高をくくっていた迷路だったが、実際のところしっかりとしたアトラクションでもないのに、随分と手が込んでいてゲストを楽しませようという意気込みに溢れていた。
本当にゲームの世界に迷い込んだかと錯覚するほどに。
ゴールまでに予想以上に時間がかかってしまい、手にした景品はステッカーとなってしまった。でもそれでも十分に満足できる。リタイアする人だっているらしい。なら、ゴールできただけでも万々歳だ。
初橋さんは持ってきていたペットボトルからお茶を飲み、ふぅ、と息を整える。
ペットボトルの蓋を閉めて彼女がじーっと見つめているのは、景品のステッカー。迷路のモチーフになった洋館をポップに描いたロゴと、イベントの年月が入っている。洋館の横に描かれているキャラクターは洋館のマスターのデフォルメ絵だった。このキャラクターも人気がある。
初橋さんはステッカーを見つめた後で、おもむろにスマホを取り出した。
「あ。スマホにぴったり貼れそうです。ふふ、でも汚れちゃうから勿体ないかなぁ」
スマホの裏面にステッカーを乗せた初橋さんは困ったように笑った。彼女の表情は先ほどよりも明るく、顔色からも体温が伝わってくる。
「樫野さん。今日は本当にありがとうございました」
ステッカーから目を離した初橋さんは、彼女の顔色が落ち着いたことに安堵していた俺のことを不意に見上げる。意図せず彼女と目が合ったと同時に、びくりと小さく心臓が跳ねるのを感じた。
「とても楽しかったです……っ! 迷路だって、一人だったらゴールできなかったかも……。このステッカーも、樫野さんのおかげですね」
「俺も楽しかったです。初橋さんが誘ってくれたからですよ」
初橋さんの笑顔が広がると、俺も嬉しくて一緒に笑ってしまう。久しぶりにこんな賑やかな空間に来たからだろうか。会場を包み込む高揚が胸を勝手に浮遊させる。だから心が軽くて、楽しくて。
思いがけずイベントを満喫してしまったようだ。
本当に俺はただ幸運なだけだった。
「ありがとうございます。初橋さん」
彼女がもたらしてくれた束の間の休息がいつの間にか疲弊していた心の凝りを和らげてくれたのだから。
俺は鞄にしまったお土産を思い、半ば強引にきっかけをくれた小さな悪魔に感謝をした。
家に帰ると、エヤが滑り込むようにして玄関まで出てきた。
「カシノ! デートはどうだっただすかっ?」
最後に転んでしまったエヤは、べたぁっと廊下に身体を伸ばしたまま満面の笑みを上げる。
「だからデートではないんだって」
手に持ったエコバッグをエヤの隣に置いて歩きつかれた足を窮屈な靴から解放させた。エヤは寝っ転がったままニコニコ顔を止めようとしない。
「ココネチャンとミケに聞いただすよ。ゲームのお友だちなんだすってね」
「うん。そうだよ。おともだち」
強調するようにそう言うと、エヤが上半身を上げて正座で座り込む。
「んふふふふふ。カシノにも新しいお友だちができたんだすね!」
エヤはよく出来ましたとでも言いたいようにどや顔で腕を組んだ。
「そうそう。褒めてくれるの?」
「んだす! カシノ、よくできましたっ!」
エコバッグを拾い上げる俺に向かってエヤは両手を上げて称えるポーズを取ってくれた。
帰るなりイベント会場の如く騒がしい。いつからか慣れてしまったけど、自分の家とは思えない賑やかさだ。俺はようやく立ち上がったエヤが歩くのを待ってとりあえずの賛辞に笑い返した。
「心寧、ただいま」
エヤが開けた扉の向こうに見えた妹の後ろ姿に対して声をかける。すると心寧はシッ! と人差し指だけを俺に突き出してパソコン画面の方を向いたままの頭を動かさなかった。
「いまいいところなの!」
よくよく見てみると、心寧の膝の上にはミケが乗っている。画面に映るのは二十年前のアドベンチャー映画だ。俳優が洞窟の中で神妙な面持ちをして何かを警戒していた。
二人して映画に夢中になっているようなので、とりあえず足元でちょろちょろと走り回っているエヤに今日の様子を聞いてみる。
「今日はココネチャンと一緒にお出かけもしたんだす! 見て見て!」
エヤは机の上に飾ってある顔の大きさほどもあるキャンディーを手に取った。
「これ、買ってくれただす! なんでも、話題のお店らしいだす!」
「そっか。それは良かった」
イラストでしか見たことがないようなぐるぐる巻きのキャンディーを一瞥しながら夕食の支度を始める。キッチンが綺麗だから、何も用意はしてないはずだけど。一応の確認だ。
「ご飯食べてないよね?」
「はい! お昼はロシア料理をたべただすよ!」
「またそれは変わったものを」
「ボルシシ美味しかっただすー」
「ボルシチか。いいねぇ」
エコバッグから買ってきたものを取り出している間、エヤは初めて食べたというロシア料理の感想を嬉しそうに語る。心寧は仕事柄色んなお店を知っているし、二人にとっても真新しい体験ができたことだろう。一日を楽しめたようで良かった。
冷蔵庫にしまうものをしまい終えると、満足気な表情で次に俺がすることを見守っているエヤと目が合った。
「んふふふふふ」
相変わらずの変な笑い声。
だけど、その声を聞くと一日が無事に終わったような気がして安心するんだよな。
「ロシア料理は無理だけど、今日はイギリス料理を作ってあげよう」
「おおおおーっ! なんだすか? なんだすか? カシノシェフ!」
ちょっと声色を変えてキャラクターになりきると、エヤはすぐそのノリに前のめりで乗ってくれる。
「シェパードパイ。心寧の好物だから」
「んんんん! なんだかとっても美味しそうな響きだすなっ」
エヤはぴょこぴょこ跳ねるとぴしっと手を挙げる。
「はいっ! エヤ、味見係を担当するだす!」
「……うまいこと言うなぁ」
「いいだすか? カシノ!」
「うん。いいよ。エヤを味見係に任命しよう」
「ぅわはぁあーーっい!」
俺が承諾すると、エヤは両手を上げて一段と元気よく跳ねた。本当、何時だろうとお構いなく元気だ。
「じゃあ味見をお願いするときに呼ぶから、それまで本でも読んでて」
「はーいっ!」
エヤはもう一度片手を上げると、ソファまでどてどてと駆けて行った。
ミケと心寧は映画に釘付けだし、静かなうちにさっさと作ってしまおう。
袖を捲り調理の体勢に入ろうとした時、カウンターに置いたスマホが振動と共に目を覚ましたかのように光った。メッセージが来たみたいだ。
“今日はありがとうございました。イベントすごく楽しめました! また一緒にゲーム出来たら嬉しいです。そちらでもよろしくお願いします。あ、ヘアゴム、気に入ってくれるといいのですが……”
最後に照れた笑い顔のマークが入っていて、今日見た彼女の笑顔がそれとよく似ているように見えた。脳裏に浮かんだ彼女の笑顔に、俺は無意識のうちに口元が緩んでいたのだろうか。
「お兄ちゃん! 彼女さんから連絡!?」
そういうところだけは見逃さない心寧が椅子の背もたれに腕をのっけて振り返ってきた。
「そうだけど違う」
スマホを消してカウンターに置くと、心寧はくすくすと笑う。
勝手なことを言って満足したのか心寧はまた映画の世界に戻っていった。
気を取り直して俺もキッチンへと向かう。
じゃがいもの皮を剥きながら、空っぽになった頭を飛び回る心寧のからかう声の残響をどうにか振り払おうとした。
夕食を食べ終えてものんびりとし続ける心寧。真夜中になる前に帰れと言うと、心寧は今日は泊っていくと答えた。用意周到な心寧はちゃっかり着替えも持ってきている。最初からそのつもりならそう言え。
思わずそう言いたくなったが、エヤとミケも嬉しそうにしているので余計なことは言いたくなくて言葉を飲み込むことにした。
二人の部屋で寝ることになった心寧がエヤによる寝床の案内を受けている間、俺はようやくミケにお土産を渡した。ヘアゴムを見たミケの顔。表情がエヤほど柔軟に変わるわけでもないが、ほんのりと喜びが広がっていくのが分かった。
「これイタルが選んだの?」
ゲームのイベントに行ってきたことを当然知っているミケは、羨望の眼差しで俺を見る。
「ううん。友だちに選んでもらったんだ」
「えっと……のー、とーと、さん?」
「そう。ノートさん」
ミケはそれを聞くと、早速袋からヘアゴムを取り出した。
「きれい……ありがとう、イタル。われこれ毎日つける」
「あはは。嬉しいけど、毎日つけてたらゴムが伸びちゃうかも」
「! それは嫌。……大事にするね、イタル」
ミケはヘアゴムをぎゅっと両手で握りしめて胸の前に持っていった。まるで誰かに取られるのを拒むように。
「ノートにも、お礼を言いたい。ありがとう、って」
「うん。俺から伝えておくね」
ミケは俺の言葉を聞くと、うん、と小さく首を縦に振った。ヘアゴムをずっと大事に抱えたまま、ミケは時折宝物を見るようにそっと手の平を開ける。
「へへへ……」
消えそうなほど微かな声が聞こえてくると、なんだか胸が痒くなってくる。
良かった。俺も嬉しい。そこまで喜んでもらえるとは思ってなかったけど……でも、そんな反応をされて嬉しくないわけがない。ヘアゴムを渡してくれた時の初橋さんの表情がぽっと頭に浮かんだ。
「ミケー! ちょっと来てほしいだす!」
そこにエヤが呼ぶ声が響く。ミケは部屋の方向を見た後でヘアゴムを握りしめたまま、また俺を見た。
「うん。エヤ、待ってて。イタル」
「うん?」
「楽しかった? イベント」
ミケがちょこっと首を傾げる。
「われが勝手に返事をした。ちょっと……ごめんなさいって思ってる」
「はははっ。いいんだよミケ。楽しかったから。行って良かったよ。ミケのおかげ。ありがとうね、ミケ」
「……ん。ならいい」
ミケはほっとしたように口元を緩めて、タッタッと部屋の方へと駆けて行った。
変に罪悪感を抱かせてしまっていたことは気がつかなかった。
ミケのことを責めたりはしてないけど、空気で出ちゃってたのかな。嫌ではなかったけど。行くまでは、ほぼ初対面の初橋さんと一緒に行っていいものかと少し不安だったのは確かだ。
第三者目線になれない自分の振る舞いに自信を無くしていると、鞄の中からちらりとステッカーが顔を覗かせてきた。
そうだ。初橋さんに返事をしないと。
スマホを手に取り、初橋さんにメッセージを返す。
“こちらこそ楽しかったです。トークショーまで取っていただいて、本当にありがとうございました。ヘアゴムも、とても喜んでいました。感謝です”
打ちながら、目に入ったステッカーをもう一度見やる。
ぼうっとステッカーを眺めていると、今日一日の疲労にも勝る興奮が蘇ってくるようだった。
素直に楽しかった。やっぱり俺はこのゲームが好きなのかも。それに、初橋さんと一緒だったから、余計に楽しかったのかな。
ゲーム上のフレンドは何人かいるけど、リアルでも知っているのは彼女だけだ。周りではあんまりこのゲームをやっている人はいないし。
そんな存在が、きっと貴重で嬉しかったんだ。
「…………うん」
そう自分に言い聞かせ、ステッカーを手に取ってみる。
スマホの裏側に貼ろうとして結局どうしようか楽しそうに迷っていた彼女のことを思い出す。
確かに、貼ったらもう剥がせないだろうし。
でも日常生活の中で最も自分の目につく場所はきっとここなんだろうな。
透明なケースから透けて見えるスマホ本体の色を見下ろし、少しの間考えてみた。
楽しかった今日の日を、しばらくの間は忘れたくないな。
そんな思いがこみ上げてきて、俺はスマホのケースを外す。
スマホ本体とケースの間にステッカーを入れ、またスマホにケースを装着した。
スマホの裏側に構えた洋館のマスターの小気味の良い笑顔。
メッセージを送った後にスマホを裏返すと、そんな彼と目が合って俺は思わず笑みをこぼした。
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