3 とんとんとん
勤務時間。まだ午前が終わってないことに驚く。
いつもなら割と意識する間もなく午前の時間は過ぎ去って、お昼を迎えるのに。
おまけにエヤとミケの様子が気になってまったく仕事に集中なんてできない。
ボールペンで意味もなく紙の余白をつつき続ける俺を見て、隣の席の
「ねぇ、樫野くん。点がいっぱいで気持ち悪いんだけど……」
頬杖をついて明らかに仕事に意識が向いていないことに、この先輩はとっくに気づいていただろう。
彼女は眉をしかめて俺の手元にある紙を黒目だけで見下ろし、ぞわぞわと身体を震わせる。
「すみません」
歪なアートが描かれた紙をサッと隠し、俺は藍原さんに小さく頭を下げた。
藍原さんは二つ上の先輩で、俺がこの部署に配属された時からよく面倒を見てくれる人だ。
手入れされた長い黒髪はいつ見ても艶があってすぐに目を惹く。それについて彼女は毎日のケアを欠かさず命懸けで死守していると語っていたことを覚えている。
「ふぅ。それにしても今日は、随分と浮かない顔をしているね」
「……分かります?」
「バレバレ。樫野くんの仕事、詰まってるよ?」
「す、すみません……」
「へへ。大丈夫。ちょっとからかいたかっただけ」
藍原さんはすぐににこにこと表情を緩めて手に持っていたボールペンをいじりながらくすくす笑う。
でも正直なところ今日は全く仕事が手につかないのは事実。俺は問い合わせ事項が並んだディスプレイに目を向けた。
ここは
俺はここでシステム管理部に所属している。最近の医療業界におけるデジタル化の進歩は凄まじく、一気に職場の環境は変わっていった。けど、そんな急速に変化されても頭がこんがらがる人だって多い。システム関連に明るい人が少なかったこともあって、もともとは別の部署にいた俺も他の人よりかはそっちの方面のことが分かるからという理由でこちらに駆り出された。
でもまぁ、同僚もいい人ばっかりだし、俺としてはラッキーだったかもしれないけど。
わざとらしく仕事に戻ろうとする俺に対して、藍原さんは何かを探るような目でじーっと横顔を観察してくる。気が散るけど、気にしたら負けだ。
俺がキーボードを打ち込み始めた瞬間、藍原さんはそーっと口を開く。
「何かあったの? 樫野くん。もしかして、女の子のこと?」
最後の言葉だけ、手で壁を作って声が漏れないようにひそひそと囁く藍原さん。藍原さんの言っている”女の子”と、俺が連想した”女の子”は、明らかに違っていたと思う。
俺は家で留守番をしているはずの天使と悪魔のことを思い出してぎくりと手を止めてしまう。
あー、やっちゃった。なんで反応するんだよ。
「あー! やっぱり!」
藍原さんは俺の気を削ぐ存在を言い当てたことに指をさして喜ぶ。人を指差してはいけませんよ、先輩。
「いいんだよ。樫野くんもそういうお年頃だもんね」
「俺のことなんだと思ってます……?」
机の上に常備しているチョコレートを一つ取り、藍原さんは上機嫌で包み紙を開いた。
「樫野くんってあんまり遊んでる気配がないからさ。そういう人の恋愛話って、特にこう、胸がこそばゆくなるよね」
「いや……違うんですけどね……」
楽しそうな藍原さんを横目に、俺はまた手を動かし始める。
「まぁーでも。あんまり詮索しちゃだめだよねぇ。セクハラ? になっちゃう」
藍原さんは執務室の掲示板にでかでかと貼られているハラスメント防止呼びかけのポスターを見やり、気を落としたように肩を下げていった。
彼女が思っている”女の子”はいわゆる普通の、同年代くらいの女性。
確かに、俺としてもそっちの方がよかったかもしれない。
今、俺が心当たりのある”女の子”が、親子ほどに年の離れたように見えるあの小さな二人だなんて、藍原さんが知ったらドン引きするだろう。
「はぁ…………」
俺は何度目かのため息を吐き、やっぱり集中できない業務から目を逸らす。
家を出るときにわざわざ玄関まで見送りに来てくれた二人のことを思い出し、俺は思わず窓の外を見やる。
本当に大人しくしているんだろうか。
天使と悪魔の生態なんて分からない。とりあえず昼ご飯は食べるだろうと思って冷凍のものを好きに食べていいと伝えておいた。二人が家で何をしているか見当もつくはずがない。だけどひとまずのところご飯に関しては背の低い二人が困らないようにキッチンに椅子も出しておいたから多分大丈夫だと思うけど。
エヤとミケが家に来て二日目で早速この先の行方が分からなくなってきた。いや、昨日も分かっていたわけじゃないんだけども。
「あぁぁあああー……」
不安しかない俺は頭を抱えて机に伏す。そもそも修行ってなんだよ。俺と過ごすことであの子たちの何が変わるって言うんだよ。じわじわと重責が押し寄せてきて、もう感情の収集がつかなくなってきた。
情けない声を出してしおれていく俺を憐れんだのか、藍原さんはチョコを一つキーボードの上に置いてくれた。彼女には多分、恋路に悩んでいるように見えているんだろうけど。
「あらぁ? どうしたの樫野くん。随分と元気がないみたいね」
「あ、雨臣さん」
藍原さんの声が軽く跳ねる。俺が顔を上げると、俺と藍原さんの間にはこの部署の大御所、
両親の方が恐らく彼女とは年が近いだろう。だからこそ余計に雨臣さんは俺たちにとって頼れる先輩となっていた。
「樫野くん、気になる子がいるみたいです」
「えっ? 本当?」
雨臣さんの目がキラリと輝く。
「だから、違いますってば」
俺は雨臣さんが息を弾ませる前に慌てて否定する。変な噂が流れる前に根絶しておかないと後々面倒だ。
すると雨臣さんは「なーんだ」と言って残念そうに肩をすくめる。流石は雨臣さん。ちゃんと俺の言葉を信じてくれた。
しかし雨臣さんは、肩をすくめた後で先ほどよりも表情を明るくして俺の肩を組んでくる。
「ねぇねぇ、そういうことならさ、樫野くんに紹介したい人がいるんだけどっ!」
「はぁ?」
「どうどう? お見合いしてみない?」
「いや、俺、別にそういうのは……」
「えー! いいじゃない。樫野くんかっこいいから。なんだか勿体ないわぁ」
雨臣さんはそのまま割と力強く俺の肩を叩いた。
「ちょっと雨臣さん、それセクハラですよ」
俺が雨臣さんの勢いにタジタジになっていると、背後から淡々とした声が降ってくる。こちらの騒動にあまり興味がなさそうな声。だけどそこまで冷たいわけでもない。
「えぇっ! これもセクハラ……!?」
「そうですよ」
雨臣さんが俺から離れてサーと青ざめながら背後の人物に目を向けた。冷静だけどどことなくどうでもよさそうに頷くのは後輩の
俺に謝った後で申し訳なさそうな顔で春海にセクハラの定義を尋ねている雨臣さん。
春海はそんな雨臣さんにホチキスを手にしたまま静かな講義を開催している。
背後がまだ賑やかではあるけど、俺はどうにか仕事に戻ろうと少し凝ってしまった肩を回してから正面に向き直った。
隣の藍原さんも春海と雨臣さんと話しているし、どうにかこの話題からは解放されそうだ。
でも、今回はそこまで詮索されることはなかったけど、あの二人のことがもしバレたらどうなるんだろう。
俺は僅かに冷や汗をかく。誤魔化すようにしてひたすらに問い合わせに返答を打ち込むけど、もしものことを思ったら気が気じゃなかった。
見ず知らずの子どもを二人も家に抱え込んでいるなんて、見ようによってはただの不審者だし、知らない人から見れば犯罪だ。それとも何か? 全員にこの二人は天使と悪魔です、なんて言って信じてもらうのか?
それこそ不審者じゃないか。どうやっても逃げ場がないな。
どうにか近所の人に気づかれた時に親戚の子をしばらく預かっているだけだと説明するに留めたい。
職場から家が少し近いのが気がかりだが、そこはもう神に祈るしかないだろう。
「神か……」
これまで何も考えることもなく当たり前に口に出していた存在が一気に真に迫って思える。
天界があるってことは、やっぱり神様もいるのかな。
使者とか言っていたマーフィーのことを思い出しながら、俺は少し冷静さを取り戻す。
そうだ、神様。どうかあの二人のことを守るためにも俺を見放さないでください。
勝手な祈りに満足した俺は、エンターキーを押してから一息つく。
…………。
あー、だめだ。やっぱり間ができると落ち着かないな。
俺はいつもゲームで時間を潰している昼休みを迎えても、スマホの画面を点ける気にもならずに仕事で現実逃避を試みた。
*
「ただいま……」
がちゃりと玄関の扉を開けるなり、とたとたとた……いや、どたどたどた、と、勢いのある足音がこちらに向かってくる。
「おかえりなさいだすーーーーっ!」
両手を元気いっぱいに振り上げて走ってくるのはエヤだった。ふっくらとしたほっぺには、まだ絆創膏がついている。
「カシノ! お仕事おつかれさまなんだす!」
「ああ、ありがとうエヤ」
鍵をかけて靴を脱ぐと、エヤは俺が手に持っているエコバッグをまた覗き込もうとする。
「今日も買い物だすか?」
「うん。備蓄はしないタイプでさ」
「ふううん。マメなんだすな!」
エヤはにっこにこの笑顔で俺を見上げてくる。彼女が天使だと知っているせいかもしれないけど、エヤの笑顔はいつもきらきらと輝いている気がする。
俺はうっかり絆されそうになるその笑顔から目を逸らし、小さく咳払いをした。
「二人は、ちゃんと家にいた?」
「もっちろんだす! ずーっと荷物を出していただすよ!」
少し前を歩くエヤは、やっぱり俺より先に扉を開けたいみたいだ。俺の顔を見ながら話すものだから、足元がおぼつかなくて不安になるけど。
「タチャーン!!」
エヤはダイニングキッチンに続く扉を開け、得意げに両手を上げる。
笑っちゃうくらいのどや顔をしているエヤ越しに見えるのは、朝とは違う光景だった。
確かに、たくさんあった段ボール軍団は半分くらい片付いている。まだ少し残った箱の傍らには、どうにか潰したことが推測できる段ボール箱の残骸が散らばっている。
「…………が、がんばった、ね……?」
そこまで大きな顔をできるほどではないけど、まぁ、朝よりも座るスペースも確保できてるし、小さな二人でここまで片付けたのだと思うとかなり大目に見てあげてもいいだろう。
エヤは俺の言葉を聞くと、ぱぁっと笑ってソファに座って漫画を読んでいるミケのもとへと駆ける。
「ミケ、カシノが帰ってきただすよっ」
「おかえり」
ミケは漫画から目を離すこともなくぼそりと呟いた。
キッチンに目を向けると、二人が冷凍チャーハンを食べた痕跡が見えた。ごみ箱からは捨てた袋が少し顔を覗かせていて、使った食器はきちんと流し台に置いてある。
椅子は電子レンジの前に置いたまま。ちゃんと二人が温められたならまぁいいか。
椅子をどかしてから、俺は買ってきたものをキッチン台に並べていく。
「二人とも、お腹空いてる?」
「はいー。ぺこぺこだす」
振り返って聞くと、ソファに座るエヤはお腹を押さえて恥ずかしそうに舌を出す。その隣ではミケがこくりと頷く。
「天使と悪魔も、お腹って空くんだ……」
新しい学びに俺は素直に感心してしまった。こんな知識、今後何の役にも立たないかもしれないのに。
「じゃあ今日はドリア作るからな」
「ドリア!? うわぁい! エヤのお気に入りだす!」
エヤが嬉しそうに身体を伸ばしてぴょこぴょこと手足をばたつかせた。
「昨日のパスタも美味しかっただす! カシノは料理が得意なんだすかっ!?」
「得意ではないけど……。まぁ、美味しかったならよかった」
「んふふふふ。楽しみだすなぁ……」
エヤは俺の返答も半ばにふわふわと身体を揺らし始めた。なんて幸せそうな顔をしてるんだ。
期待いっぱいのその顔に微かにプレッシャーを感じながらもキッチンに向かう。
結局、職場でも特に何も新たな策は思い浮かばなかった。
この調子だと、明日も片付けでどうにかしのげるだろう。その次の日は俺も休み。そこでもう少し真剣に今後のことを考えよう。
手を入念に洗い、ちらりと背後を見やる。
エヤはミケに寄りかかって一緒に漫画に夢中になっている。ミケがかなり押されてしまって、のしかかってくるエヤを鬱陶しそうにしているが、特にどかすこともなくページをめくっていった。
包丁を手に取り、俺は無心で茄子を切る。トン、トン……。包丁がまな板を叩く音が響く。なんだか不思議な気分だ。
いつもこの音を聞いていたのは俺だけで、何の反響もないまま虚しく宙へと消えていくのに。
今は二人にもこの音は聞こえているんだ。
「…………だから何だよ」
はぁ。
ため息をつく。
この声も、二人には聞こえてしまっているだろうか。
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