2 おはようの朝
カーテンの向こうから朝日が透けて瞼の裏まで照らしてくる。
「うぅーん……」
いい加減遮光カーテンを買うべきだろうな。起きる度に唱えるその呪い。
今日もまたそう思いながら俺は眠たい頭を起こして寝癖のついた頭を掻いた。
「はぁ……」
ここ数年、設定した目覚ましの音に起こされたことはない。俺は役に立っているのかよく分からない目覚まし時計をぼーっと見下ろし、こいつの仕事を解除した。
ベッドのすぐ隣は窓。そこから差し込む光で目が覚めるなんて我ながら健康的だ。新しいものを選ぶのが面倒という理由だけではなく、そのせいもあってカーテンはずっと買い換えていない。たまに鬱陶しくも感じるけど。
妹から貰った目覚まし時計が寂しそうにしている横を通り過ぎ、俺はいつものように顔を洗いに部屋を出ようとする。
……けど、もういつもの朝とは違うことを俺はその時ようやく思い知らされた。
「カシノー! おはようございますだす!!」
ドアノブに手をかけた瞬間、向こう側から勢いよく扉が開いてくる。
容赦なく顔面を強打してくる扉。眼下では、ちょろちょろとした小さな頭が何かを探して部屋中を見渡している影がちらつく。
「あれっ? カシノいないっ!?」
すぐ隣で鼻を抑えている俺は目に入っていないようだ。
昨日と同じワンピースを着たエヤが不安そうな声を出した。
「…………おはよう」
「あっ! ここにいたんだすね! おはようだす!」
声をかけると、ようやく俺の存在に気づいたエヤがぺこりと頭を下げる。
「? 鼻、どうして赤いだすか?」
「さぁ……?」
きょとんと首を傾げるので、俺は言葉少なに部屋を出た。とたとたとした不器用な足音が背後に続き、すっかり目が覚めた俺は次第に青ざめていく。
夢じゃなかった。
朝起きたら昨日の帰りに起こったことは全部夢で、俺は幻覚を見ていただけ。
そう信じて眠りについたのに、現実は無常だ。
「そうだそうだカシノっ! 今朝、マーフィーからお届け物がきただすよ!」
「…………マーフィー……」
俺にこの子たちを押し付けた張本人。
確かにマーフィーはこの世のものとは思えない存在感だったけど、俺があの人を分類するなら悪霊だ。
僅かな反抗心を滲ませ、朝から気分が歪んでいくのを感じた。
「あっ! エヤが開けるだす!」
後ろからエヤが駆け足でドアノブに手をかけ、にこりと振り返った。得意げに扉を開けるエヤ。
短い廊下を歩いてダイニングキッチンに入った俺を迎え入れたのは、さらにゾッとする光景だった。
親戚の叔母さんから借りているこの部屋に引っ越してきた時を思い返すような段ボールの山。
広いとは言えない部屋のスペースにひしめくように置いてある茶色い箱。その上に座る黒いワンピースを着たもう一人の少女と目が合った。
「おはよう……イタル」
ミケは足をぷらぷらとさせたまま無表情でそれだけ言った。
「こ……これ……」
「これはエヤとミケの荷物だす! マーフィーと住んでいた家は即刻退去になりましたから!」
「…………そう……はは……」
もう笑うことしかできなかった。
唯一のくつろぎの場であるソファも、パソコンが置いてある机も椅子も、彼女たちの荷物に占拠されてしまっている。これ、どうやって片付けるんだよ。というより、荷物多くない?
「イタル」
俺がため息を吐いてどうにか無事だったキッチンに立つと、ミケがちょこちょこと走ってきた。
「これ、マーフィーから」
そう言って一枚の紙を差し出す。封筒にすら入っていない手紙だ。
マーフィー、俺の扱いが雑過ぎる。
「ありがとう。……なぁ、この荷物っていつの間に運んだの?」
「マーフィーが届けてくれた。ぽんって」
「ぽん……」
「ぽーん」
ミケは腕で宙に円を描いて魔法をかけるように跳ねる。
「……そっか」
「うん。朝四時前に」
「早すぎるだろ」
ミケは俺の苦い顔をじーっと見上げ、まだマーフィーの手紙を広げようとしないことを気にしているようだった。
マーフィーがどんなパワーを使ってこの部屋に荷物を運んだのかはもう考えないことにする。
俺はミケの視線に促されて手紙に目を落とした。
樫野至くんへ
これからいつまでになるか分からないけど、二人のことをよろしくね
二人は下界だと小学校低学年くらいに見えると思うけど、もう学校には通わせていないから
至くんが仕事の間は自由にさせてあげてね
二人分の生活費については、翌月に先月分の清算をポストに入れておくから、確認して
家事は手伝うように言っておいたから安心していいよ
そうそう、これは一番大事なことだけど、至くんが不審者だと思われないように注意してね
通報とか、御免だから
修行が終わった時には迎えに行くから
じゃあね おわり
「…………」
手紙を畳み、近くの棚の引き出しにしまう。
「なんて書いてあった?」
「……よろしく、だって」
ミケに要点だけを伝えて冷蔵庫を開ける。とにかく冷たいものが飲みたい。
昨日は帰ってきてからひとまずご飯を食べて、風呂に入って、日課のゲームをすることもなく寝た。
振り返ってみれば、まだ現実味がなかったから冷静でいられたんだと思う。
旅行のテンションみたいな、なんかそんな、一時的な気の紛らわしが出来た。
でも今は……。
お茶を手にした俺はもう一度荷物の山を見やる。
この荷物と手紙を前にしたら、辛うじて抑え込んでいたパニックがぶり返してきそうだ。ああ、これはもう、まさに悪夢。
エヤは段ボール箱の中身を次々に開けていて、朝から呆れるくらい元気だ。
視界に入ってくる嘘みたいな現実に、俺はお茶の味も分からなくなった。
「あ、そうだ……。二人は学校通わないの?」
さっきの手紙を思い出し、比較的静かにしているミケに聞いてみる。
「うん。われたちは成長が遅い。にんげんたちと一緒に学年上がり続けるのに限界があるからもう駄目だってマーフィーが」
ミケはぽそぽそと小さな声で答えた。
「そっか。じゃあ、その後は何してたの?」
「何も。マーフィーと一緒にでかけたり、勉強したり……」
「ふぅん」
飲み終えたお茶を置き、俺はミケに向かってしゃがみこむ。
「俺、昼は仕事だからさ。こんな子ども二人がふらふらしてたら、俺、近所の人に通報されると思うよ」
「……つーほー」
「警察が来て、捕まっちゃう」
「イタル、かわいそう」
ミケは俺に同情するようにしゅん、と眉を下げた。
いや、その原因は君たちだけどね?
「だからさ、放っておくのもちょっとなぁ……」
考えが詰まった俺はぐしゃぐしゃと頭を掻く。学校に通う気はもうないみたいだし。かといって二人だけを家に放っておくのも俺の身が危険すぎる。天使と悪魔に社会的に抹殺されかねない。
二人は確かに小学校低学年くらいの外見をしている。周りの同年代くらいの子たちと比べても少し小柄だけど。どちらにせよ、例え人間じゃないとしてもやっぱり二人だけにはしておけない。昼間の二人の預け先が必要だ。
「…………はぁ」
しかし名案が浮かばない俺は無力さにうなだれる。ミケはそんな俺を憐れむように見たまま、特に何をすることもない。
「とにかく……二人のことは親戚の子を預かってるってことにするから」
「シンセキ? わかった」
ミケがこくりと頷くので、俺は力が入らないまま立ち上がる。
「…………でも今日のところは……どうしようか」
「今日は荷物片づけるから家から出ない。だいじょうぶだと思う」
「…………うー」
ミケはそう言うが、本当にそうだろうか。
二人には悪いけど、俺はまだ天使とか悪魔とか、とにかく信用がない。
「だいじょうぶだすよ! カシノ!」
どこから聞いていたのか、エヤがソファの上から元気よく声を張り上げる。
「カシノには迷惑かけないようにするだすから!」
「……よろしく頼むよ? ほんと……」
「うん。だいじょうぶ」
ミケは小さくガッツポーズをして気合いを入れた。力を入れるあまり口をへの字にして、目元はきりりと威勢がいいけど、軽くガンを飛ばしている。
「はは……っ。分かった。よろしく」
そんな様子が可笑しくて、俺は思わず吹き出してしまった。ミケは俺が笑った意味が分からないようで、小さく首を捻る。本当、見ているだけだとただの幼い子どもにしか見えない。
気を取り直した俺は朝食の用意をする。と言っても、今日はバタバタしそうだし、トーストとスクランブルエッグだけで済まそう。
俺が冷蔵庫から卵を取り出すと、ミケがいそいそと手を伸ばしてくる。
「手伝ってくれるの?」
「うん。マーフィーと約束した」
小さな両手の上に卵を一つ慎重に置いてみると、ミケは微かに口元を綻ばせた。
「ありがとう、ミケ」
「うん」
ミケはまたこくりと頷く。とはいえ、キッチン台で作業するにはどうやっても不便な身長だろう。
それでもミケは次に俺が何をするのかじーっと観察して、何か手伝えることがないかを探しているようだ。
マーフィーは二人の監督官だと言っていたが、随分しっかりと躾をしていたのだろう。俺はミケにボウルを渡して、その中に卵を三つ入れた。
「使う時に、渡してくれる?」
「うん!」
俺のお願いに、ミケは威勢よく頷く。きっと彼女も俺と同じで、まだ俺のことを完全に信頼なんてしていないんだ。彼女がどうにか居場所を求めているように見えて、俺は少しだけ罪悪感を抱いた。
マーフィー。俺はこの人のことがどちらかというと憎いけど、彼女たちのことを大切にしてきたことは認めよう。こんなにしっかりとした子になったのは、恐らく彼女の影響もあるはずだ。
俺がマーフィーに対して僅かな尊敬を抱いたところで、背後からはガタガタガタと段ボール箱が崩れていく音が轟く。
「きゃーーーーっ!」
振り返ると、エヤが段ボール箱の雪崩に巻き込まれたのか慌てて逃げている。
「エヤ、飛び跳ねちゃだめだよ」
「ご、ごめんなさいだすーーーーっ!」
ミケの忠告にエヤはがばっと土下座をした。
………………撤回しよう。
この二人を子どもと言っていいのか分からないけど、そうだと仮定した時、やっぱり個性はあるものだ。
マーフィーの影響じゃなくて、きっとこれはミケの気遣い。
俺は頬を擦りむいたエヤに渡すための絆創膏を探しながら、再び重くなっていく心にため息を吐いた。
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