皆勤賞からは程遠いけれど

赤部航大

第1話


 玄関のドアを押し開け、両手を組んで思いっきり体を伸ばしながら空気を吸い込み、肩の力を抜きながら吐いた。


「うん。今日も息してる。俺えらい!」

「なに馬鹿なこと言ってんのよ。誰かに見られでもしたらどうすんのよ」


 背後からヒステリックな声に刺された。やれやれ。これから真っ当に卒業式に向かうというのに、水を差したがる母親だ。


「別に誰も見てないって。ご覧なさいこの閑静な住宅街を。人っ子ひとり……あ、源さんだ。おはようございまーす!」


 ナイスタイミングで源さんが右の道角から曲がって来た。源さんの愛犬、コーギーのソラちゃんも一緒だ。今日も茶色の毛並みが朝日を浴びて輝いている。


「おはようございます。お? その格好はもしかして」

「はい! 昨日も言った通り、今日は卒業式なんでスーツです!」

「おお、よく似合ってるじゃない」

「ありがとうございます! あとソラちゃんも止めて下さってありがとうございます!」


 ソラちゃんも俺のことを祝ってくれようとしているのか、尻尾を振りながら俺に飛びかからんとしていた。いつもなら全力で応えるが、流石に式を前に毛塗れになる訳にはいかない。それを察してソラちゃんのリードを引っ張ってくれている源さんには頭が上がらない。


 そんな感慨に浸っていると背中を軽く突っ張られた。そして


「おはようございます。そうなんですうちの子これから卒業式で。急いでいるので失礼します。行くわよ聡太郎」


 さっきのヒステリックが嘘のような明るい声が左から聞こえてきた。横目に母を見ると微笑んでいる。しかし背に添えられた手の力が徐々に強まっていることから、愛想笑いなのだと分かった。いや、愛想笑いなのは最初から分かっていたけれど。


「急いでるようなので失礼します。また今度、源さん」

「ああ、またな。気をつけていってらっしゃい」


 そう言って笑顔で手を振ってくれた後、公園の方へと確かな足取りで歩いて行った。ソラちゃんも最初は名残惜しそうにこちらを振り向いていたが「行くぞ、ソラ」と源さんのひと声がかかると、前へ向き直して源さんの隣に並んだ。


「何してんの早く乗って」


 いつの間に乗ったのか、運転席から母の急かす声。それに「はいはい」と返事しながら後部座席に乗り込んだ。俺がシートベルトを締めたのと同時に、車は緩やかに右へハンドルを切られた。


「誰よ、さっきの。というか何? 『ようなので』って。自分のことなのにその言い方」


 ぶっきらぼうだった調子に少しずつ苛つきが混ぜられていった。なら反対にこちらは明るい調子で応戦するとしよう。


「誰って質問に対しては散歩仲間の源さんと答えよう。『ようなので』と言ったのは実際にはまだまだ余裕があるから。俺の母さんへの皮肉をちゃんと受け流してくれる紳士ってのが分かったろ?」

「こんなことされるなら送るって言うんじゃなかったわ」

「下手な嘘吐かれなきゃするつもりはなかったさ。これを機に無意味な嘘を吐くのはやめることだね」


 ハッ! と母が大きく笑い捨てた辺りで国道に面する交差点に到着。母はしばらく左右交互に首を振った後、左へとハンドルを切った。


「『昨日も言った』なんてその源さんに話していたけれど、あんたどこまで話してんのよ」

「お悩み相談相手として、基本的なことは全部」

「ッ! あんたまた余計なことをベラベラと!」


 鬼の形相になっているのがバックミラー越しに見えた。恐い恐い。


「何が余計なの?」

「あんたが他所様に言うことなんて基本全部余計よ!」

「じゃあ爺ちゃんの葬式の時のように『普通の高校』に通ってますって言えば良かった? 俺がいつクーちゃんの散歩に行ってると思ってる?」


 言葉に詰まっているのか母からの返事はなかった。あなたが休みの時も普段通り散歩に行っているから分かっていると思っていたが……息子が他人と話しているとまでは思わなかったか。


「それでもわざわざ人に言うことじゃないでしょ」


 やっと絞り出した声に、先程までの力は入っていなかった。それでも譲る気は毛頭ない。だから


「通信制であることを堂々と言えないとは、悲しい世の中になったものだね」


 昔の自分を嘲笑するように、言い放った。


* * *


 卒業するためには卒業証書を必ず受け取らないといけない。


 義務教育だから自動で卒業できると思っていたため、その常識は寝耳に水だった。


「それ卒業式に誘う電話の時に言って欲しかったわ」


 そんな自分勝手な愚痴をこぼしながら学ランに身を包み、伸ばし放題の髪の寝グセをテキトーに直して中学へと向かった。


 着いたのは卒業式が終わってそれなりに経った頃。来いと言われた校長室に向かう道中にはまだ残っている生徒もいて、見知った顔には挨拶した。「おお! 桜田来たのか!」なんて驚かれてばかりだった。不思議と、友人やクラスメートに会うことはなかった。


 校長室に着き、ノックしてドアを開けると壁に沿うように先生方が並んでいた。目の前には女子がひとりいて、俺だけじゃなかったんだ、という即席の仲間意識を芽生えさせた。


 俺が来たことでメンバーが揃ったようで、さあプチ卒業証書授与式を始めようという時、担任から


「親御さんは一緒じゃないのか?」


 と尋ねられた。それから改めて周囲をざっと見渡すと、その女子の母親らしき人物がいることに気づいた。先刻に芽生えた仲間意識はすぐさま消え去り、「来てません」と普段の調子で答えた。


 逆に何故尋ねられたのか、不思議でならないくらいだった。


 その後は名前を呼ばれ、校長の前に行って卒業証書を受け取り、周囲から拍手喝采を浴びた。下がると今度は女子が呼ばれ、授与のタイミングで拍手を送った。


 特殊下であれお祝いはお祝い。そのムードも手伝ってかこの時の私は、とてもレアな体験が出来て逆に凄くね? と浮かれた気分でいた。


 ひとりで帰っている時も浮かれ気分は冷めなかった。高校は楽しいと皆が口を揃えて言う。だから大丈夫。高校は普通に通えて、普通に卒業できて、そして今度は大学だ。


 そんな根拠のない自信を絶対だと信じていたから、何も深く考えることはなかった。


 だから1年の秋に担任に呼び出される羽目になったのだ。内容はもちろん、出席日数がほぼアウトだから別の高校に移ってもらうということ。


 涙ながらに「これからは頑張って通います」「留年になっても構わないのでここに置いて下さい」なんて訴えたが、誰が4月の終わりから来なくなった奴の言うことなど信じるだろうか。


 結局諭され、母が探してくれた通信制の高校に転学することとなった。クラスメートへ直接お別れを告げることはしなかった。呼び出しの後日に皆がいないタイミングで荷物をまとめ、担任に感謝を告げ、高校を後にした。


* * *


「源さん。俺、彼女のとこに引っ越すわ」

「そらまたえらく急な話だね。免許は取り終わったの?」

「それも続きは向こうですることにしたよ。あっちで伸び伸びと優しい教官に指導してもらうんだ」

「自動車学校も転学かい」

「源さんその皮肉はキツイよ」


 朗らかな空の下、公園のベンチで源さんと2人で笑い合っていた。クーちゃんとソラちゃんも仲良く遊んでいる。


「でも良かったよ。今日源さんと会えて」

「積もる話でも?」

「明日卒業式なんだ」


 源さんは皺が深まる程ニッコリ笑って「それはめでたいねぇ」と言ってくれた。


「明日はちゃんと行くんだろ?」

「母に送ってもらってね」

「ひとりで行かないのかい?」

「原点回帰さ。初めて今の高校に行く時も送って貰ったからね。帰りはひとりだよ」

「帰りこそ一緒じゃないのかい? お母さん、卒業式見ていくだろ?」


 悪気なしに訊いているのは目を見れば分かる。一瞬言葉を詰まらせたが、すぐにいつもの調子に戻って


「いや、見る必要ないって言われたよ」


 そう笑って返した。源さんはどことなく寂しげに「そうかい……」呟いた。


「まあだから、急にはなったけど、前から考えていた通り彼女のとこに行くことにしたんだ」

「いくら彼女のとこだからって、知らない土地にいきなり行くのは不安じゃないかい?」


 源さんの言うことは最もなのだろう、普通だったら。心配して言ってくれているのも分かる。けれど。


「彼女は彼女でも俺の人生を180度変えてくれた彼女だよ? 彼女と出会ったからこそ、一時は目標を持って頑張ろうとすることができた。バイトだって始めて、そして続けられた。何より、運動を兼ねてちゃんとやるようになったクーちゃんの散歩で、源さんと会えたんだ」


 ここでひと呼吸置き、そしてしっかりと、源さんの目を真っ直ぐ見て


「そんな彼女のとこに行くのに、不安がる要素なんてないでしょ?」


 力強く言い切った。源さんはやれやれといった顔つきで「彼女にぞっこんだな」と春の風に乗せるように言った。


「せめて就職先を決めてから行けばどうだ?」

「いやいいよ。それで時間をかけて機を逃したくない」

「それで上手くやれんのかい?」

「やれるさ、きっと」

「根拠は?」

「ないよ。でもなるようにしかならないよ。良くも悪くもね」

「はは、若いのは羨ましいね」


 そうしてまた2人で笑い合った。笑い終える頃にはお互いの相棒が散歩を再開したがっていた。


「ということで源さん。明日の7時頃に家の前通ってよ。出発しようと外に出ているだろうからさ」

「いいのかい?」

「もちろん」


 立ち上がり、背筋を伸ばし、胸を張って


「ゴールと同時に新しくスタートを切る、俺の晴れ姿を見に来てよ」


 確かに、言い切った。

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