ゴールのない日常【KAC202110】
いとうみこと
結局幸せなんだよね
「パパ、うんち」
「え、え、え、ちょっと待って」
テーブルから滴り落ちる牛乳を何で拭いたらいいのかパニクっている俺の後ろでユキはおしりを押さえてパタパタとトイレに向かって駆け出した。とりあえずティシュを箱から掴み出してテーブルの下に放り投げユキを追いかける。時既に遅く、ユキは中から鍵を掛けてしまった。自分ではまだおしりが拭けないのだから鍵を掛けたら困るのは自分なのに、幼いユキにはそんなことはわからない。
「だから鍵が掛からないように細工してって頼んだでしょ」
というサキの声が聞こえてきそうだ。先月から言われていたのに、対策を講じなかった俺の痛恨のミスである。
トイレが悲惨なことになる前にとにかくドアを開けなければ!俺はリビングに戻って小銭を探す。しかし、こういう時に限って見つからないものだ。何とか背広のポケットから十円玉を見つけ出し、トイレに戻って外から鍵を開けたら、おしり丸出しのユキが立ち上がってトイレットペーパーをカラカラ引き出している真っ最中だった。床には紙の山ができ、ユキは覚えたての「メリーさんのひつじ」を実に楽しそうに歌っていた。
俺は叫びそうになった自分を抑えてユキを抱え上げ風呂場へと急ぐ。楽しい遊びを急に中断させられたユキは足をバタバタさせて抵抗する。やめろ、やめてくれ、飛び散ったらどうするんだ!
早朝、妊娠九ヶ月のサキが急な腹痛を訴えて救急搬送された。俺はユキがいて動けなかったので、病院へはサキの母親に行ってもらったのだが、幸い大したことはなく、念のため出産まで入院することになった。
自分で言うのも何だが、俺は家事育児にはかなり協力的な方だ。サキも働いているんだから当たり前だと言われればそれまでだが、俺は食事も作るし、ユキのおむつだって替えてきた。世の中のなんちゃってイクメンと一緒にされたくはない。
とはいえ、家事の能力がサキと比べて格段に劣ることは否めない。俺は仕事ができるという自負はある。しかし、仕事における先を読むという能力は育児ではあまり役に立っていない。初めての子育てということもあるが、あまりにもイレギュラーなことが多過ぎるからだ。
今も風呂場から飛び出したユキを追いかけて、濡れた廊下で足を滑らせすっ転んだばかりだ。そう言えばあの牛乳はどうなった?保育園の時間まであと何分だ?俺だって早朝会議に間に合わなくなるぞ。いったいどうすりゃいいんだよ!
その時インターフォンが鳴って、おしり丸出しのままテーブルの周りを走っていたサキが駆けつけた。こんな時間に誰だよと半ば苛立ちながらも、これ幸いにとユキを捕まえてモニターを見ると、見知った顔が映っていた。
「ケンジ君!」
サキの体調が優れない時に、何度か世話になった家事代行サービスのケンジ君だった。俺より十歳も年下なのに、家事に関してはとんでもないプロだ。俺はすぐにロックを解除してケンジ君に上がってきてもらった。この難局になんとまあ心強い味方だろう!玄関ドアが開いた瞬間は後光が差して見えたくらいだ。
「ケンジ君、来てくれたんだね。こんなに朝早く申し訳ない」
「いえ、サキさんにこういうこともあるかもしれないからと以前から頼まれてたんです。お役に立てて嬉しいです」
なんと慈悲深い言葉なのか。それにしても、サキの危機管理能力は素晴らしいものがある。とりあえずパンツは穿かせたユキが躊躇なくケンジに駆け寄って抱っこをせがむ。彼は子どもを手懐ける能力も高いのだ。
「ユキちゃん、久しぶりだね。また一段と可愛くなったんじゃないかな?でも、お着替えした方がもっとずっと可愛いよ。さあ、今日はどのお洋服を着ましょうか」
俺には絶対に真似できない技で手早くユキを着替えさせると、あっという間に髪を三つ編みにして、ユキが大好きな塗り絵を出してリビングに座らせた。それから台所に行って冷蔵庫を覗き、わずか十分ほどで俺とユキの分の弁当を完成させてしまった。その間俺がしたことと言えば、自分の身支度と床に貼り付いたティシュを片付けることくらいだ。
「いつ見ても惚れ惚れする手際だね」
「ありがとうございます。でも、これが僕の仕事ですから当然のことです。それにサキさんは普段からきちんと家の中のことを管理されているので、僕なんかが急に来ても困らないようになってるんです」
確かに、サキは普段からきちんとしている方だが、ケンジが言うならかなりのレベルなんだろう。俺は自分が褒められているかのようにくすぐったい気持ちになった。その反面、サキに頼ってばかりいる自分をちょっと反省した。
「ご主人はよくやってらっしゃる方だと思いますよ」
「そうかな。今回みたいなことがあると本当に情けなくなるよ」
「今回は緊急事態ですから仕方ないですよ」「でも、普段から十分なことはできてないし、たくさん迷惑かけてるのかもなって……」
「何でも完璧にこなそうと思うと無理が出ますよね。育児には一応ゴールがありますけど、家事はずっと続きますし。でも、家事って工夫次第でいくらでも楽しめると思うんです。手抜きも工夫のうちですよ」
そうか、その通りだ。必死になって鬼の形相でやるより、楽しむくらいの余裕があった方が仕事でもいいアイデアが浮かぶのは体験済みだ。
「そうだな、遥かな道ではあるけど着実に進んではいるもんな。そのスタンスでいくことにするよ」
俺はお絵かきに夢中のユキを見ながら、さっきまでの必死だった自分に苦笑した。
「ところで、時間は大丈夫ですか?」
「え、あ、あー!ユキ、ユキ、保育園行くぞ!」
ケンジと離れ難くてぐずるユキを抱えて、俺は玄関を飛び出した。
「後のことはサキさんと連絡取ってやっておきますから安心して行ってらっしゃ〜い」
追いかけてくる言葉に片手を上げて応えエレベーターに飛び乗る俺のレベルは、ゴールにはまだまだ遠いみたいだ。
ゴールのない日常【KAC202110】 いとうみこと @Ito-Mikoto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます