安帝18 414年
1 月
通鑑
2 月
通鑑
拓跋嗣は
北魏の
3 月
晋書
地震があった。
通鑑
司馬文思は捕らえられ、司馬休之のもとに送られた。その手で処刑せよ、とのことである。しかし司馬休之は司馬文思を庶人に落とした上で謝罪するのみ。このため劉裕は司馬休之討伐の軍を立ち上げた。
5 月
通鑑
拓跋嗣が平城に帰還した。
後秦の
6 月
晋書
乞伏熾盤が禿髮傉檀を攻め、南涼を滅ぼした。
夏六月,乞伏熾盤帥師伐禿髮傉檀,滅之。
通鑑
拓跋嗣が豺山宮に出、平城に戻った。
樂都を失った禿髪辱檀の元からは次々と将帥が逃亡。そのため禿髪辱檀は乞伏熾磐に投降した。
7 月
晋書
秋七月,淮北大風,壞廬舍。
通鑑
乞伏熾磐は禿髪辱檀を驃騎大將軍としたが、約一年後には毒薬をもたらし、自殺を求めた。ただこのとき,禿髪辱檀は病を得ていたようで、もはや癒える見込みがないと判断、毒薬を受け取り、死んだ。
8 月
通鑑
拓跋嗣は
拓跋嗣は
9 月
晋書
日蝕があった。
九月丁巳朔,日有蝕之。林邑遣使來獻方物。是歲,城東府。
建康
『
10 月
通鑑
乞伏熾磐が秦王を自称した。
北燕と夏が同盟を組んだ。
11 月
通鑑
拓跋氏が各地に巡察の使者を派遣した。
12 月
通鑑
柔然の大檀が北魏を攻撃。撃退はできたが、追撃は寒波の到来により叶わなかった。また
北燕幹部の
この年、
(晋書10-18)
やべえ。なんでこんな狭間の年が色々盛り沢山なんだ。
まず、東府。これを建康実録は「司馬道子みたく専制を目指す存在」として劉裕を演出しようとしてるが、あのーそもそも謝安の属僚を司馬道子が引き継いでる以上、司馬道子のいたところを劉裕がそのまま拠点にするのは、むしろ余計な事務仕事を減らしてる感じになるんですが……。
そして乞伏氏が秦を名乗ったのって、ここだったのね! いや、これ正直、いままでめちゃくちゃ意味がわからなかったんですよ。乞伏国仁の時代じゃ到底張り合えるもんでもなかったんだもの。けど、ここなら割と納得! だってこのタイミングでの西秦なら、まぁ後秦を食えないわけでもない、かもしれなくはない――とも、言い切れなく、は、ない? のかもしれませんもの。
うん、えーと、誰だ西秦って呼んだやつ。どこまでも実態に合ってねえじゃねえかいい加減にしろ。
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