安帝18 414年

1 月


通鑑

北魏ほくぎが大赦、神瑞しんずいと改元した。




2 月


通鑑

拓跋嗣たくばつし繁畤はんしに出、平城へいじょうに帰還した。

赫連勃勃かくれんぼつぼつが北魏領である河東かとう蒲子ほしを攻撃した。

拓跋嗣は豺山宮さいざんきゅうに移った。

北魏の并州へいしゅう刺史であった婁伏連るいふくれん吐京ときょうを守る夏軍を攻撃、大破した。

司馬休之しばきゅうし江陵こうりょうで人心を得ていた。しかし、子の司馬文思しばぶんし建康けんこうでわがまま放題をしており、劉裕りゅうゆうに憎まれていた。




3 月


晋書

地震があった。



通鑑

司馬文思は捕らえられ、司馬休之のもとに送られた。その手で処刑せよ、とのことである。しかし司馬休之は司馬文思を庶人に落とした上で謝罪するのみ。このため劉裕は司馬休之討伐の軍を立ち上げた。




5 月


通鑑

拓跋嗣が平城に帰還した。

後秦こうしん將の斂成れんせいきょう族討伐に失敗。夏に亡命した。

後秦の姚興ようこうは病を得ていたが、貳城じじょうで賊が暴れていると聞くと自ら討伐した。

姚泓ようおう派の将軍に対し姚弼が讒言、その将軍は殺された。周囲では姚弼の簒奪を危ぶむものが多かったが、姚興は怒りこそすれど、彼らを罰することもなかった。まもなくして姚興の病状は悪化、姚弼の専横は加速した。

唾契汗すいきつかん乙弗おつふつらの諸部が南涼なんりょうに謀反を起こした。禿髪辱檀とくはつじょくだんは討伐に出ようとしたが時期尚早と止めるものがあった。諫止を振り切って禿髪辱檀が出撃すれば、西秦の乞伏熾磐きっぷくしばんが動き、楽都がくとを制圧。禿髪辱檀は逃亡した。

北燕ほくえん柔然じゅうぜんは縁談を計画したが、これに反対する斛律こくりつのいとこ、大檀だいだんが斛律を殺害。新たな可汗として立った。




6 月


晋書

乞伏熾盤が禿髮傉檀を攻め、南涼を滅ぼした。


夏六月,乞伏熾盤帥師伐禿髮傉檀,滅之。



通鑑

泰山たいざん太守の劉研りゅうけん率いる流民七千世帯あまり、河西胡かさいこ劉遮りゅうしゃらの率いる部落一万世帯あまりが北魏に降った。

拓跋嗣が豺山宮に出、平城に戻った。

樂都を失った禿髪辱檀の元からは次々と将帥が逃亡。そのため禿髪辱檀は乞伏熾磐に投降した。




7 月


晋書

淮北わいほくで突風が吹き、廬舍ろしゃを破壊した。


秋七月,淮北大風,壞廬舍。



通鑑

乞伏熾磐は禿髪辱檀を驃騎大將軍としたが、約一年後には毒薬をもたらし、自殺を求めた。ただこのとき,禿髪辱檀は病を得ていたようで、もはや癒える見込みがないと判断、毒薬を受け取り、死んだ。禿髪破羌とくはつはきょうを始めとした禿髪辱檀の子や甥たちは北涼ほくりょうを経て北魏に亡命した。拓跋嗣は禿髪破羌の才能を愛し、「そなたと朕は先祖を同じくする」と、源賀げんがと改名させた。




8 月


通鑑

拓跋嗣は拓跋陋孫たくばつろうそん後秦こうしんに使者として遣わせた。また合わせて、于什門うじゅうもんを北燕に、悅力延えつりきえんを柔然に遣わせた。ここで于什門が北燕に対して侮辱的な振る舞いをしたが、馮跋ふうばつは「北魏の意に則っているに過ぎぬ」と、収監こそすれ殺しはしなかった。

拓跋嗣は王諒おうりょうを補佐につけ、尉太真うつたいしん劉裕りゅうゆうのもとに使者として派遣した。




9 月


晋書

日蝕があった。林邑りんゆうから献上品がもたらされた。劉裕が東府を政府とした。



九月丁巳朔,日有蝕之。林邑遣使來獻方物。是歲,城東府。



建康

圖經ずきょう』によれば、東府はとうにおける建業けんぎょう都城の東2キロほどのところにあった。清溪橋せいけいきょうの東にあり、南には秦淮河しんわいがが流れていた。もと司馬道子しばどうしの邸宅であった。謝安しゃあんの死後司馬道子はそこで大権をふるい、当時の人が東府と呼んでいた。城に改築されるにあたり、改めて東府城と名付けられたのである。城の東北の隅には靈秀山れいしゅうざんがあり、ここに司馬道子の邸宅があった。嬖臣の趙牙ちょうがが築いたものである。




10 月


通鑑

乞伏熾磐が秦王を自称した。

北燕と夏が同盟を組んだ。




11 月


通鑑

拓跋氏が各地に巡察の使者を派遣した。




12 月


通鑑

柔然の大檀が北魏を攻撃。撃退はできたが、追撃は寒波の到来により叶わなかった。また司馬順宰しばじゅんさいしん王を自称して決起。討伐の軍を起こしたが、果たせなかった。

北燕幹部の安素弗あんそふつが死亡。馮跋は自ら弔問に赴いた。


この年、司馬國璠しばこくはん兄弟が廣陵こうりょう城を襲撃し、守将の檀祗だんしに怪我を負わせた。

崔宏さいこうの息子、崔浩さいこうが拓跋嗣に『えき』『洪範こうはん』の講義をした。以降拓跋嗣に重用された。




(晋書10-18)




やべえ。なんでこんな狭間の年が色々盛り沢山なんだ。


まず、東府。これを建康実録は「司馬道子みたく専制を目指す存在」として劉裕を演出しようとしてるが、あのーそもそも謝安の属僚を司馬道子が引き継いでる以上、司馬道子のいたところを劉裕がそのまま拠点にするのは、むしろ余計な事務仕事を減らしてる感じになるんですが……。


そして乞伏氏が秦を名乗ったのって、ここだったのね! いや、これ正直、いままでめちゃくちゃ意味がわからなかったんですよ。乞伏国仁の時代じゃ到底張り合えるもんでもなかったんだもの。けど、ここなら割と納得! だってこのタイミングでの西秦なら、まぁ後秦を食えないわけでもない、かもしれなくはない――とも、言い切れなく、は、ない? のかもしれませんもの。


うん、えーと、誰だ西秦って呼んだやつ。どこまでも実態に合ってねえじゃねえかいい加減にしろ。

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