孝武6  386年 下

7 月


通鑑

金熙きんき沒弈于ぼつえきう姚萇ようちょうに対し攻撃を仕掛けてきた。姚萇は自ら打って出て撃破した。

いちど勢力の主に立てられた衛平えいへいだったが、やがて部下より廃され、代わりに苻登ふとうが推戴された。苻登は苻丕ふひに称藩の申し出をした。

乞伏國仁きっぷくこくじんの勢力が拡大した。

拓跋珪たくばつけい盛樂せいらくに帰還した。劉顯りゅうけんの弟の劉肺泥りゅうはいでい拓跋珪たくばつけいに帰順した。




8 月


晋書

孔靖之こうせいし奉聖亭侯ほうせいていこう、先祖である孔子こうしを祀る祠の祭祀責任者とした。司馬邃之しばすいしが死んだ。翟遼てきりょうしょうに攻め入った。朱序しゅじょが撃退した。


秋八月庚午,封孔靖之爲奉聖亭侯,奉宣尼祀。丁亥,安平王邃之薨。翟遼寇譙,龍驤將軍朱序擊走之。



通鑑

慕容垂ぼようすい慕容宝ぼようほう中山ちゅうざんにとどめ南方攻略に出た。その隙を鮮于乞せんうこつが狙ってきたが、慕容麟ぼようりんに撃退された。

苻丕は四万の兵を抱えて平陽へいように駐屯した。

姚萇の弟、姚碩德ようせきとくが姚萇に合流。ともに王統おうとうを攻撃した。

拓跋珪の末弟、拓跋窟咄たくばつくっとく慕容永ぼようえいと行動をともにしていたが、劉顯に引き抜かれ拓跋珪を南から攻撃せんと迫っていた。これに伴い北魏内部で内紛が勃発。なんとか内紛は鎮めたものの、拓跋珪はふたたび賀蘭がらん部を頼った。

北魏の安同あんどうは救援を慕容垂に求めた。慕容麟が派遣された。




9 月


通鑑

王統は後秦に降伏した。姚萇は姚碩德に上邽じょうけいを守らせた。

呂光りょこう苻堅ふけんの訃報を聞き、喪に服した。




10 月


晋書

慕容垂(※この段階で慕容永はまだ慕容垂の傘下扱い)が苻丕を河東かとうで破った。苻丕は東垣とうえんに逃げたが、しん将の馮該ふうがいが追撃、斬首した。首は建康けんこうにもたらされた。廃帝はいてい海西公かいせいこう司馬奕しばえきが死んだ。


冬十月,慕容垂破苻丕于河東,丕走東垣,揚威將軍馮該擊斬之,傳首京都。甲申,海西公奕薨。



通鑑

慕容永は東に帰りたいので苻丕の支配領域を通りたいと願い出た。苻丕は棄却、攻撃を仕掛けたが、大敗した。慕容永は長子ちょうしで皇帝を自称した。

清河せいがで謀反があった。慕容垂が出向いたが鎮圧しきれなかった。

苻登が姚碩德を攻撃。姚萇が自ら救援に出たが、大破された。

外敵に侵される北魏を慕容麟が救援に向かう。なんとか合流叶った拓跋珪、拓跋窟咄を大破した。拓跋窟咄は匈奴きょうど鉄弗てつふつ部の劉衛辰りゅうえいしんのもとに亡命したが、劉衛辰に殺された。

劉衛辰は姚萇および慕容永と同盟を結んだ。




11 月


晋書

苻登が隴東ろうとうで皇帝を僭称した。


十一月,苻丕將苻登僭卽皇帝位於隴東。



建康

遼東に流亡していた孫盛そんせいの『魏晉ぎしん春秋しゅんじゅう』三十卷が建康にもたらされた。



通鑑

苻登は苻丕の息子苻懿ふいを帝位につけようとしたが、緊急時と言うことで皇帝に担がれた。

慕容柔ぼようじゅう慕容盛ぼようせい、その弟の慕容会ぼようかいが慕容永のもとにいたが、慕容垂のもとに亡命。残された慕容儁ぼようしゅんや慕容垂の子孫はみな殺された。

張大豫ちょうだいよ臨洮りんちょうを荒らし、俱城ぐじょうに拠点を置いた。




12 月


通鑑

呂光が自立した。

苻登は次々に後秦軍を破砕した。対する姚萇は苻堅に戦勝加護を願った。

慕容垂が清河の反乱を鎮圧した。

慕容垂は拓跋珪に西單于・上谷王じょうこくおうの肩書を与えたが、拓跋珪は拒否した。




拓跋珪と慕容垂の間に、最後の最後でヒビが入るのが楽しいですね。対決となる 395 年までにはまだまだ時間がありますが、この先どんな展開になるのか楽しみです。

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